2. Jagaran Forum Nepal (JAFON)
2-1.設立まで

現在ストリート・チルドレンのために活動する団体は数多くあります。JAFONもその一つとして2000年に設立されました。JAFONは運営方法などさまざまな点で他団体と違います。代表である私自身がストリート・チルドレンだったことにその理由があります。私が路上生活を送っていた頃の物語はとても長く、苦闘の末、ここまでたどりついたのです。これまでも多くの人々に影響を与えてきたと自負しています。そんな努力があってこそ、JAFONが多くのストリート・チルドレンとつながりをもてたのだと思います。

私の家はシラハ郡[i]にありました。両親のけんかがもとで7歳の時、家を出なければなりませんでした。その後両親は別居しました。母は私を学校に行かせるため、ビルガンジ[ii]に引っ越しました。母は学校で教員の職を得ましたが、私は町で友だちと過ごすことが増え、勉強するより彼らと一緒に映画をみたり遊びまわるようになりました。同年配の少年たちと一緒にいる時間が長くなり、家に帰らなくなりました。

ビルガンジに来て4年後のある日、カトマンズではお金を稼げると考え、私たち12人は連れ立ってカトマンズにやって来ました。知り合いの資源回収場があるダルコ[iii]に住むことになりました。私たちが拾い集めたプラスチックや金属は、1キロ12~14ルピーで売れました。6ヶ月間資源ごみ回収の仕事をしたあと、バグ・バザール[iv]に移りました。それが12年間の路上生活の始まりでした。 

1992年頃のある日、私は友達と一緒にCWINが運営する施設に行きました。CWINはアロハン(Aarohan)[v]という演劇グループと一緒に活動していました。ストリート・チルドレン自身も出演することになり、私も出演者のひとりに選ばれました。アロハンから1ヶ月にわたる演技指導を受けて、私たちは路上生活の劇を準備しました。スニル・ポカレルさんが演出し、私たちストリート・チルドレンが出演した『都会に生きる市民権のない者たち』という劇はさまざまな場所で公演されました。

それから約1年後、私はCWINを去り、友だちと一緒に再び路上生活を始めました。その後、アロハンがストリート・チルドレンの宿泊施設を造ったので、そこに住むことになりました。アロハンを通じてストリート・チルドレン関係の仕事をもらったので、10ケ月後、ホステルでの生活をやめました。同じような仕事でポカラにも行きました。

ストリート・チルドレンに関わる多くの団体と仕事をする機会を得た私は、ある日、自分でもこういう団体を運営できるのではないかと考えました。私もストリート・チルドレンの友人たちも、既存の団体の活動に納得していませんでした。そこで1998年、友人と一緒にJAFONの前身であるJagaran Groupを設立しました。それから2年後の2000年にJAFONを設立しました。

JAFONはさまざまな活動を通じて、路上生活をする子どもたちがいなくなるように社会に働きかけててきました。現在はラリトプルの事務所を拠点に、カトマンズとラリトプルのストリート・チルドレンの支援をしています。

事務所がまだアラムナガル[vi]にあった頃の奮闘の日々は忘れがたいものです。資源ごみ回収を通じて事業収入を得ることを目標にしていました。路上に住む子どもや青年にできる仕事をつくり、そこから得られた収益で他のストリート・チルドレンのための活動を行おうと考えたのです。青年二人が近隣の家庭を戸別訪問しごみの有料回収を始めました。7軒の訪問からスタートしましたが、400軒へと利用者が増えました。この事業は現在も続いており、2008年1月現在9名の元ストリート・チルドレンを含む14人が働いています。

[i] タライ平野東部の郡。
[ii] インド国境沿いの都市。
[iii] カトマンズ内ビシュヌマティ川沿いの地区。資源ごみ回収業者の集積場が多い。
[iv] カトマンズ市内中央の商業地区。
[v] Aarohanは1982年に設立された演劇グループ。カトマンズにある自前の劇場での公演以外に、ネパール各地のグループとの創作活動も行っている。ネパールを代表する演出家・俳優のスニール・ポカレルが主宰。http://www.aarohantheatre.org/
[vi] カトマンズ市内の中央官庁があるシンハ・ダルバールの裏にある。
2-2. 『僕らの家』
2005年から、JAFONは新しい活動を始めました。『僕らの家』というストリート・チルドレンが大人たちの干渉を受けることなく、安心して立ち寄り、生活できる場の運営です。ラリトプルのクンベシュワル寺院の近くで建物を借りています。この活動は、シャプラニール=市民による海外協力の会という日本のNGOの支援を受けています。宿泊施設としてだけでなく、子どもたちが利用できるサービスを提供しています。例えば、病気になったとき医療施設に行くための補助、テレビなど娯楽を楽しめる部屋、スポーツ用品、安心して食べられる安価な食事の提供、稼いだお金を貯金する仕組み、読み書きや計算を習う教室、資源回収場の運営-よその回収業者は子どもたちに妥当なお金を与えないことがあるから-です。他には、ストリート・チルドレンに対する啓発活動、技能訓練、運転免許証や市民権証取得のための支援を行い、ときには芸術家と協働することもあります。

施設の運営すべてを援助に頼るのではなく、いずれ自己資金で活動できるよう、食堂と回収場を自ら経営しています。彼らは自分たちの稼ぎから食事代を払っています。25ルピーあれば『僕らの家』の食堂で食事ができます。ほとんど子どもたちは食扶持は自分で稼ぐ習慣が身についています。

『僕らの家』として借りている2階建ての建物には、部屋が11あります。事務所のほかに、子どもたちがテレビを見る娯楽の部屋、教室として使う部屋などがあります。寝室は三つで、うち二つは年少の子ども、一つが年長の子どもの部屋です。彼らの持ち物を置く部屋が別にあります。台所と食堂、職員の控え室があります。屋外でからだを洗うために、いつも石鹸が用意してあります。薬も常備しています。
ここには常時約30~40人が暮らしています。8歳から26歳までの男の子[i]が暮らしていますが、18歳未満が大半です。生活上の規則はありますが、それぞれ自分のペースで生活しています。朝6時には朝食を用意していますが、中には遅くまで寝ている子もいます。子どもたちの多くは朝食後プラスチックなど資源ごみを探しに出かけ、昼食を食べに戻ってきます。それを売った後は、からだを洗い、テレビを見たり、ギターを弾いて歌ったり、またボードゲームをして遊びます。夕食後、午後6時から夜中までの間、彼らは再び朝と同じように仕事に出かけます。彼らが戻るのは深夜です。

薬物中毒にかかっている子も少なくありません。彼らは靴を修理する接着剤をシンナー代わりにしたり、他の薬物を吸引しています。これはストリート・チルドレンの大きな問題の一つです。『僕らの家』でも、多くの子どもたちが常習していて、注意してもやめさせることができません。

これだけのサービスと設備があっても出ていく子はいます。彼らを止めることはできません。自分の意志でやって来て、そして自分の意志で出て行くのです。それでも、多くの子どもたちにとって、『僕らの家』は自分の家のような存在です。子どもたちの大半はここに来た後は他の場所へ行こうとしません。彼らはここで居心地良く暮らしているのです。友だちをつくり、語り合いながら楽しんで暮らしています。

[i] 女子のストリート・チルドレンもいるが、施設の利用は男子のみに限定している。

3.路上生活をした青少年たちの語り
ここから先の話は『僕らの家』で暮らしている青少年の語りに基づく事実ですが、彼らの将来に悪い影響を与えないよう、名前は彼らの好きなアーティストのものに、また出身地など住所を示すものも替えてあります。

3-1.誘拐を恐れて アミト(17歳)
僕はアミト・ドゥンガナ、17歳です。僕の家はラリトプル郊外のブンガマティ村です。1999年、10歳の頃、友達といとこの影響で、路上で暮らすようになりました。


最初に村を出た友達といとこが、バスターミナルのあるラガンケルやジャワラケルで、テンプーに客を呼びこむ仕事をしていました。彼らに連れてこられた僕は、いとこと一緒に働き始めました。少しずつ知り合いができてくると、いろいろなことに興味を持ち、もっとここで働きたいと思うようになりました。やがて学校もやめ、一人でブンガマティから歩いて町へやって来るようになりました。夜中に歩いて家へ帰ったこともありました。

働くうちにテンプーの運転手と知り合いになり、車掌になりました。はじめは夜中に家へ帰っていました。車掌仲間の多くは路上で寝ており、僕と同年齢の者が多かったです。彼らとは話が合うので、僕も一緒に路上で寝るようになりました。家に帰らなくなると、両親はとても怒りました。学校を辞めたことで叱られましたが、僕は自分の暮らし方を変えることはできませんでした。

車掌の仕事をするうちラガンケルで食堂の主人と知り合いになりました。テンプーの仕事がだんだん嫌になったので、食堂で働き始めました。何ヶ月か働きましたが、皿洗いと掃除の仕事が好きになれず、再びテンプーの車掌に戻りました。少しずつお金を稼げるようになったのですが、路上でちんぴらに嫌がらせをされました。お金を盗られたり、無理やり連れていかれて洗濯をさせられたりしました。路上で暮らしているとずいぶん嫌なことがありました。服がなくて、寒い冬は眠れませんでした。路上生活が嫌になって、家に帰りたくなりました。

村を出て4年後、家帰ると、両親はとても喜びました。久しぶりに家族と過ごすことができて、僕も嬉かったです。村には友達もいて、彼らとも遊びました。両親は僕を再び学校へ行かせようとしていました。しかし、下校中の生徒をマオイストが誘拐したという話を聞き、僕は怖くなり、家族に何も告げず村を出ました。僕はまた路上で暮らし始めました。プラスチックを拾う仕事を始めました。何ヶ月か経ったある日、家に戻りましたが、両親が家にいませんでした。マオイストを恐れて村を出て行ったのでしょう。仕方なく僕は町へ戻って路上で暮らしながら、昔の仕事を始めました。今、僕は『僕らの家』で暮らしています。

3-2.学校にやってきたマオイスト ビラジ(16歳)
僕の名前はビラジ・バッタです。5年前から路上で生活しています。家にはたびたびマオイストが来ていました。警察や国軍兵も来ました。両親と僕は彼らが怖かったので、村から町にやって来ました。

ある日のことです。僕は両親と一緒に木を切りに森へ行きました。木に登っていると、迷彩服を着て武器を持ったマオイストが来て、僕に木から下りるように言いました。僕は恐ろしくなって、すぐ従いました。下りてきた僕に言いました。「もう君は大きくなった。俺たちと一緒に行こう」と。彼らは僕の両親とも話しました。両親も怖くて断ることができず、承諾するしかありませんでした。「この話を村の誰にも言ってはならない。口外したら刑罰が下り、殺されるぞ」、と脅されました。翌日迎えに来ると言って、彼らはそこを去りました。

翌日学校へ行きました。前日の事件を友達と先生に話しました。丁度その時、他の生徒を連れて行くためにマオイストが学校に来ていました。彼らは僕にも「さあ、一緒に行こう」と言いました。先生は僕をこっそり呼んで、「マオイストには『明日行きます』と返事しなさい」と言いました。僕はその通りにしました。マオイストが他の生徒と話をしている間に、先生が僕を逃がしてくれたので、無事家に帰ることができました。僕はとても怖かったです。両親にすべて話した後、僕たち一家はそこから少し離れた父方の叔母の家に行きました。両親はそこに住むことにしましたが、僕は恐ろしくてそこに住む気がしませんでした。そこで僕はバスの運転手をしている知り合いに会いに行き、両親には言わずに彼のバスに乗りました。その夜はバスの中で眠りました。翌朝4時にはカトマンズに着きました。

まずラリトプルの母方の伯母の家に行きました。ラガンケル方面に行ったとき、テンプーの運転手や車掌と知り合うようになりました。その後、テンプーの車掌として働くようになり、路上で寝るようになったので、伯母の家にも行かなくなりました。

村の生活は楽しかったです。学校にも行けました。友達とも遊びました。母のごはんはいつもおいしかったです。でも、今ここでの生活はとても大変です。運転手になりたいですが、どうしたらなれるでしょうか。僕はラガンケルの路上で生活してきましたが、3ヶ月前から『僕らの家』で暮らしています。

3-3.路上にしか僕の居場所がない シュリ・クリシュナ(22歳)
僕はシュリ・クリシュナ・シュレスタ、22歳です。家はロルパ郡[i]です。13歳の時、マオイストのせいで家を出なければなりませんでした。

僕たち一家は貧しく、両親が荷物運びの仕事をして生計を立てていました。荷物を受け取りるため遠くまで行き、それを背負って再び遠くまで長い道のりを運ぶのです。僕も両親と一緒に荷物運びをしていました。稼いだお金はすべて食べていくために必要で、ダサインに新しい服を買って着ることすらできませんでした。それほど一家の家計が苦しかったのです。

村には町へ出稼ぎに行っている人がいました。近所の人が出稼ぎの話をもちかけ、両親は僕を近所の青年と一緒に町へ送り出しました。僕がお金を稼いでくるものと両親は期待していましたし、僕も町で十分稼ぐことができると思っていました。家から出稼ぎ先のポカラまで2日間歩かなければならず、歩き続けるのはとても大変でした。道には食べ物もろくにありません。お腹をすかせて歩かなければなりませんでした。途中で足が痛くなり、歩けなくなりましたが、やっとのことでポカラに着きました。

ポカラのホテルで皿洗いの仕事を始めました。ポカラでは僕と同年齢の男の子たちに会いました。彼らがカトマンズの方がたくさん稼げると言うので、僕もカトマンズへ行きたいと思うようになりました。ある日、僕はポカラからカトマンズ行きの夜行バスに乗り込みました。誰かの子どもだと見られたのでしょう、僕は運賃を徴収されませんでした。翌朝、カトマンズのバスターミナルに着きましたが、カトマンズのことは何も知らなかったので、初めての場所に戸惑いました。近くの食堂に仕事を探しに行ったところ仕事が見つかり、そこに住むことになりました。

初めうちこそ主人は僕にとても良くしてくれましたが、だんだん僕を叱るようになりました。食事は与えてくれましたが、給料はくれません。給料を要求しても家に帰るときに渡すとしか言いません。次第に僕はカトマンズのことがわかってきました。知り合いもできました。僕はこの食堂から逃げて、ラガンケルの別の食堂で仕事を探しました。そこでも何ヶ月か仕事をした後、嫌な思いをさせられました。

その食堂に来ていた運転手や車掌と知り合いになり、彼らの紹介でテンプーの車掌として働くことになりました。僕と同じ車掌や、路上で寝ている男の子たちとよく会うようになりました。夜、運転手はテンプーを家に停めるので車掌の僕たちはその中で寝るわけに行かず、寝る場所に困ります。僕は他の友達と一緒に路上で寝るようになりました。路上で寝ている友達がプラスチックを拾う仕事でお金を稼いでいるのを知りました。この仕事は簡単だと思い、僕もプラスチックを拾う仕事を始めたのです。もう8年ほどこの仕事をしています。

両親を思い出して一度だけ家に帰ったことがあります。久しぶりに家に帰ったので両親は僕を見て喜びました。ある日僕が家にいる時、6人のマオイストが来て僕に言いました。「さあ、俺たちと一緒に行こう」。僕は「行きません」と言いました。「行かないのなら、君の両親を殺す」と言って脅しました。両親を殺すというので僕は怖くなり、彼らについて行くことにしました。彼らは何の理由も言わず僕を4日間縛ったまま放置し、殴ったり。蹴ったりしました。食事も与えてくれませんでした。そして4日間は家にもどこにも行かないという条件で、僕を解放しました。僕は家に帰りましたが、両親が、村にいては危ないと言うので、僕は再びポカラを通ってカトマンズにたどり着きました。またプラスチックを拾う仕事を始め、路上で友達と暮らし始めました。運転手になりたいと思っていますが、市民権証がなければ運転免許が取れません。村に戻って市民権証を申請できる状況でもありません。出身地でなければ取得できないのです。

路上で暮らす中で、数え切れない苦労がありました。警察やちんぴらが僕たちに嫌な思いをさせます。稼いだわずかばかりのお金を強奪する人がいます。路上では寒さ、暑さ、冷たさ、すべてを受け入れなければなりません。初めの頃は、町で辛い目に遭うたびに村に帰ろうと思いました。しかし、僕のような子どもたちはマオイストに連れて行かれるので村に戻ることはできません。結局、最後は路上以外に僕のための場所はありません。だから路上生活を始めたのです。


[i] ネパール中西部丘陵地帯の郡。人民戦争が開始された1996年直後からマオイストの影響が強かった。

3-4.マオイストと国軍の板ばさみ モテ(18歳)
僕の名前はモテ・マガルです。本当の名前は別にあるのですが、仲間が僕をモテと呼ぶのでこの名前が気に入っています。今18歳です。実家はシンドゥルパルチョーク郡です。2年ほど前、16歳の頃から路上で生活しています。

実家は農家です。家にいる時は僕も両親の畑仕事を手伝っていました。学校に通っていました。通学途中の道で、マオイストや国軍兵士に会うこともありました。マオイストは僕たちに「君たちも一緒においで」と声をかけます。一方、国軍は「君の村ではマオイストは誰かい?」と尋ねます。何度か、国軍兵が道で僕たちをマオイストと疑い、検査をしました。そんな怖い体験が続いたので僕の友達の大半は村から逃げて、町に行ったのです。

ある日の話です。僕は両親と畑に出ていました。そこへ何人かのマオイストが来て両親に言いました。「あなたの息子はもう大きい。この子を連れて行くからな」。両親は止めようとしましたが、マオイストは両親に言い聞かせました。「怖がるな。お前の息子は人民解放軍の兵士にはしない。炊事係にするだけだ」。僕は彼らについていきました。両親は何もすることができなかったのです。炊事係だと言われていたのに、僕は荷物運びをさせられました。結局僕は2ヶ月間マオイストの荷物を運びました。

ある日の夕方のことです。マオイストのグループのひとつがジャングルを通って移動する途中、僕も彼らと一緒にいました。ところが、国軍と偶然出会ってしまい、大きな戦闘になりました。僕は逃げ出し、そこからまっすぐラガンケルに着きました。その後、僕はラガンケルのある食堂で働き始めましたが、そこでは夜11時まで仕事をしなければならず、僕は給料をもらわず逃げました。そして荷物運びの仕事をするようになりました。その仕事を始めてから、路上で寝るようになりました。路上では多くの友達と出会いました。テンプーで客を呼び込む仕事とプラスチックを拾う仕事もするようになり、友達が僕をある施設に連れて行きました。それが『僕らの家』です。僕はここで生活するようになりました。

僕は時々、マオイストといた日々を思い出します。その頃、彼らは僕に銃の使い方も教えました。銃で金持ちを殺して彼らの金を奪ってやりたいと考えたものです。僕はこのごろ、村をよく思い出します。友達と遊びに行ったり、魚釣りに行ったり、時々ピクニックに行ったことを思い出すと、楽しくなります。しかし今も僕は路上で生活しています。それは楽しいことではありません。

原著者注:インタビューをした5ヵ月後、彼は『僕らの家』から出て行きました。今、彼がどこにいるかはわかりませんが、この話は彼が『僕らの家』にいた頃に話してくれたものです。

3-5.母にうとまれて ラジェス(13歳)
僕の名前はラジェス・ハマル、13歳です。2年前に家を出ました。僕はラガンケルの私立学校で5年生まで勉強しました。しかし5年生の時、学校を辞めて家出をし、タパタリの食堂で働き始めました。

父はテンプーの運転手で母は畑仕事をしていました。兄は小さい頃から腕白で、妹はまだ小さく、僕たち一家は貧しくて生活が大変でした。母はいつも僕を殴ったり、蹴ったりしました。母は父にも僕を悪く言い、父は僕をベルトで叩くのでした。5歳の時、僕はテンプーにひかれたことがあります。そのせいなのか、僕の思考は混乱し、何かおかしくなった気がします。心の中でもいろんな思いがめぐっていました。そんな僕に母は「出て行きなさい」と言いました。だから、ある日家から逃げたのです。

僕は何ヶ月か食堂で働きました。月給は700ルピーで寝る場所も与えてくれました。しかし何ケ月かするとは給料がもらえなくなり、兄の友達に助けてもらって、給料を支払ってもらってから食堂の仕事を辞めました。僕自身は勉強する習慣がなくなっていましたし、家も出ていましたが、食堂での稼ぎは妹の学費に使いました。

食堂にいた頃は、寝る場所に困りませんでしたが、辞めてから僕は路上で寝るようになりました。路上で過ごした最初の夜のことは今でも記憶に残っています。ラガンケルのバスターミナルに休憩用のベンチがあり、たくさんの男の子たちと一緒に僕もそこで眠りました。お金を稼ぐためプラスチックも拾い始めました。

友達と歩きながら薬物に手を出すようになりました。僕は初めてシンナーを吸った日のことを今も思い出します。ある日友達が、道端に座って、接着剤の箱を置いて吸っているのを見ました。僕がそれを拾って逃げると、彼は追いかけてきました。遠くのほうまで行って、牛乳が入っていたプラスチックの袋にそれを入れて吸ってみました。一瞬、僕は何もわからなくなりました。シンナーはとても刺激が強いようでしたが、一度吸った後、僕にとって気持ちの良いものとなりました。こうして毎日、シンナーを吸うようになりました。意識も朦朧となり、何もわからなくなります。癖になるとやめるのは難しいです。店で買うことができるので、みんな簡単に買って使っています。

僕は音楽が好きです。僕が一番好きな音楽はナラヤン・ゴパルの唄『人生は恋次第』です。この曲の歌詞はとても良いと思います。このラブ・ソングが好きになりました。僕はこのような曲が好きです。僕は歌を唄うのも好きです。ウディト・ナラヤン、ラジュ・ラマの曲も唄えます。『僕らの家』のある兄さんは、僕に歌を教えてくれます。彼は上手に唄います。彼の声を聞くと僕も唄いたくなります。僕は歌手になりたいと思っていますが、僕たちのような者がどうしたら歌手になることができるでしょう。ギターも習いたいです。

昔はマリファナなど他の薬物も使用していましたが、『僕らの家』に来てから止めました。でも煙草を吸わずにいることはできません。小さい頃からの習慣をどうやって止められるでしょう。僕は母から煙草を吸うことを習ったのです。一緒に部屋にいる時、母の煙草の煙をどれだけ吸ったことか。そして、どんな味だろうと味見をし、習慣となってしまったのです。

僕は『春』という映画に出演しています。タパタリの食堂で働いていた頃、そこによく来ていたある俳優と知り合いました。ある日彼のお兄さんが僕に「映画に出てみないかい?さあ、行こう」と誘いました。映画に出演できると聞いた時はとても嬉しくて、僕は「出演します」と言い、すぐ連れて行ってもらいました。自動車修理工場で働く若者、俳優シバ・ハリ・ポウデルの弟となって出演しました。歩道に座り牛乳の袋にボールペンの軸のプラスチックをストロー代わりして、シンナーを吸っている様子を演じました。本当にシンナーを吸わせてはもらうわけにはいかず、そのように演じただけでした。ラジェス・ハマルやジャル・サハといった俳優たちもその時に知り合いました。彼らは僕を忘れているでしょうが、見かけたら僕のほうから声をかけます。

『僕らの家』に来て一年が経ちます。今はもう路上で生活したくありません。路上生活ではテレビを見たくても、テレビを売っている店にのぞきに行かなくてはなりません。『僕らの家』にはテレビがあるので、よく見ています。映画で俳優や女優が踊っているところを見ると、僕もこんなふうになっていたらよかったのにと思います。

昔はからだも洗っていませんでしたが、今は週1回は水浴びをします。ここでは、水浴びや洗濯のための石鹸もあります。昼間はボードゲームで遊びます。でもシンナーを吸う習慣は未だに止やめられません。友達が隠して持ってくるので、吸いたくなるのです。

最近はあまり外を歩き回りません。僕は一日中『僕らの家』にいます。時々、職員のお兄さんの自転車を借りて、ボダナートの方まで行きます。そこに僕の祖母の弟が住んでいます。高齢ですが、会うととても嬉しいです。僕が行くとすぐ「元気だったかい」と聞いてくれます。おじさんも貧しいですが、僕は大好きです。時々、自転車でタパタリやタメルにも遊びに行きます。町に出ると楽しくなります。いろんな人々、大きな家や店を見ているとうきうきします。路上の子どもたちを見かけるのはとても悲しいです。どうして彼らは路上で生活しているんだろうかと考えさせられます。路上で暮らすのは大変です。多くの人たちに軽蔑され、警察にさえも嫌な思いをさせられます。バスも、轢き殺さんばかりのスピードで走ってきます。町でこんな光景を見ると悲しくなります。

僕はテンプーの車掌の仕事もしていました。その仕事で毎日5ルピーずつ貯めていました。一日中働いた後、夕方、あるNGOのお姉さんが5ルピーを預かってくれるのです。僕の貯金は1,500ルピーになりました。しかし、父が病気になったのでお金を下ろし、薬を買ってあげました。今も父は病気なので働けません。母はマンガル・バザールで焼きとうもろこしを売っています。雨が降るとなぜか僕は両親のことが心配になります。両親を思い出し、心の中でたくさんの思いがめぐるのです。

僕の昔の家はデュンゲカルクの村にありました。今も村の思い出がよみがえります。村のことを思い出すと嬉しくなり、楽しくもなります。村では果物をもぎ、食べていました。とても楽しかったです。他の人の結婚式に行ってはお腹いっぱい食べ、一つのポケットに炊き込みご飯、もう一つのポケットにおかず、また別のポケットにお菓子を入れて持ち帰り、翌日の学校のおやつの時間に食べました。結婚式で他の人の目を盗んで、僕たちは甘いお菓子もたくさん持って帰りました。

『僕らの家』での生活は楽しいです。この間、ここの職員のお兄さんがコンピューターを買って来たのが嬉しかったです。「僕たちの施設にもコンピュータが来た!」と、みんな面白がりました。ここで暮らすのは楽しいです。みんな僕を愛してくれます。でも時々、お兄さんたちに叱られると泣きたくなります。でもそれはごくたまに感じるだけで、普段は、まずまずだと思っています。いつも嬉しいことばかり、というわけには行きません。いろいろなことが起きますから。

<邦訳参考文献>
CWIN (2002), Glue Sniffing: Among Street Children in the Kathmandu Valley, CWIN, Kathmandu

翻訳:吾妻佳代子、監訳・訳注・編集:田中雅子

Stories of women survivors

Original Nepali version by Aruna Chaudhary and Bhagwati Nepal
Original Nepali version edited by Krishna Sarbahari
English translation by Dharana Nepal
Edited by Marty Logan
Table of contents

Preface
Foreword
Acknowledgment

1 The Condition of Women in Nepal
1.1 Background
1.2 Women in Conflict
1.3 The pain of domestic violence
1.4 Girl Trafficking
1.5 Dalit and other marginalised women
1.6 The after-effects of war

2 Mahila ko Haat

3 Collaborating Partner: Navajyoti Training Center

4 Follow-up Study
4.1 Objectives
4.2 Selection of participants
4.3 Methodology

5 Women after the training
5.1 Shanti brought peace
5.2 Lila rescued trafficked girls from Mumbai
5.3 Positively turned Hira
5.4 Chandani’s challenges
5.5 Devimaya changes her society from her house
5.6 Aruna becomes a role model
5.7 Meena’s wish

6 Conclusion
6.1 Status of participants
6.2 Recommendations
6.3 Messages from ex-trainees