3. 結び
マオイストと政府の11年間にわたる紛争の間、多くの子どもたちは悲惨な生活を送りました。カトマンズにあるシャンティ・セワ学校の生徒たちの生い立ちを聞けば、子どもたちがどのような影響を受けたかわかるでしょう。

紛争は何千もの子どもが教育を受ける機会を失わせました。多くの子は、勉強できる場所を探して都会に移り住みました。中には家族と離れ、ひとり寂しく暮らす子どももいました。また、ひとりで田舎を離れた子の中には、勉強の代わりに家事手伝いを強要された子どももいました。両軍の兵士の性的虐待の被害者となった子もいます。

国軍は、マオイストの倍の人を殺しました。一方マオイストは、村人たちに食事を提供するよう強制したり、寄付や彼らのプログラムへの参加を強要しました。彼らのそのような行為が、多くの人々を村から離れざるを得ない状況へと追い込みました。いくつかの村では男性がほとんどいなくなり、妻たちが悲惨な状況で生活しています。都市へ移ることは、生活が苦しくなったように見受けられることもあります。一家族7人もが小さな部屋に窮屈な思いで暮らしていることもあります。

生徒は、彼らの先生や親戚が虐待されるのを見て、おびえました。多くの生徒が、そのようなトラウマを抱えて都市へ移って来ました。現在でも彼らはあまり勉強に集中することができないでいます。このような生徒たちは適切な精神的ケアを受けていません。不幸なことに、何人かの子どもは勉強を再開する代わりに、隣人にも見て見ぬ振りをされ、精神的・肉体的な虐待の危険の下、働かされています。

多くの生徒が、都会で教育を受けるために孤児と偽って都会に送られました。政府がそれを黙認していたことも、記録からわかります。しかし、学校側も生徒の入学を許可する際に、名前や住所など必要な情報を入手するべきです。そして、学校は記録を紙面で残すべきです。

孤児にはカウンセリングが必要であり、様々な理由で移住した子どもたちには教育が必要です。私たちは、小さい子どもが労働力として働かされているのを見て見ぬ振りをするのでなく、本当はその子たちに、彼らの持っている権利について教えてあげるべきなのです。

何人かの子どもが人身売買されたことも明らかになっています。家族は、子どもたちが勉強を続けるために都会に連れて行ってもらうのだと信じ込まされ、子どもたちが売られていたこともあります。両親は子どもをこのような「保護者」に預ける前に、どんな企みがあるのか見極めなければなりません。

停戦後は、両軍とも合意した行動規範に従うことが義務づけられています。子どもはいかなる政治的集会にも参加すべきではありません。私たちは、「子どもをピースゾーンに」という考えを広めるべきです。

シャンティ・セワ・グリハについて
シャンティ・セワ・グリハは、カトマンズのゴウシャラにあるNGOです。ハンセン病患者、その他の貧乏層、身寄りのない人、障害者、孤児を対象に、1992年に設立されました。現在に至るまで、農村ではハンセン病は神のたたりだと考えられているため、ハンセン病患者は社会から抑圧され、受け入れられていません。前世からのたたりを持ってきたと信じられているため、ハンセン病患者は他の人に触ったり近寄ったりもできません。ハンセン病患者が、侮辱や嫌悪、差別に耐えられず自殺をした例は何件もあります。

ハンセン病は、所定の薬を定期的に使うことで治療することの可能な一般的な病気です。ハンセン病を患っている人々も、他の人々と同様、普通の生活を送ることができるのです。このような考えを広めるため、クリシュナ・グルンさんと医師のラメショール・マン・シンさんが、シャンティ・セワ・グリハを設立しました。ドイツ人のマリアナ・ゴシュプリブも協力しました。

ここでは、ハンセン病患者だけでなく障害者も支援しています。シャンティ・セワ・グリハは生活する場所を提供したり、自分の家を出る他なかった人々に仕事を与えます。

およそ1,200人の農村出身者がシャンティ・セワ・グリハの助けで生活を立て直すことができました。その中には、インド人やバングラデシュ人も含まれています。シャンティ・セワ・グリハでは、支援は信仰の一部であり、必要な人に与えられなければならないと信じられています。

シャンティ・セワ・グリハでは、患者の独立心を促し、自尊心を高めるために、様々な種類の職業訓練の機会を与えています。彼らはいろいろなものを生産しています。例えば手漉き紙、宝石、花輪、ダッカ織
[1]の帽子、カーペットや家具、有機栽培の野菜やはちみつも作ります。これらはネパールの国内外で販売されています。

シャンティ・セワ・グリハには自前の診療所があり、そこでは無料の検診を行っています。

シャンティ・セワ・グリハは、人々に現金を与えるよりも、自信をつけてもらうほうが大切だと信じています。団体の使命は、貧しい人の生計を助けることです。また子どもたちを独り立ちさせることが目的です。

シャンティ・セワ・グリハのチャイルド・ケア・センターはガウシャラ
[2]にあり、65人の子どもがいます。11人の生徒は障害者学級に出席しています。すべての子どもから教育を奪うべきではないと信じ、シャンティ・セワ・グリハのソーシャル・ワーカーがブダニルカンタにシャンティ・セワ学校を建てました。そこにはクリニックもあります。ティルガンガには近代的な病院も建てました。

シャンティ・セワ・グリハの哲学は、人々の心が平穏な時だけ、その家族にも平和が訪れ、平和はひとつの家族から他の家族に伝わり、そこからもっと大きいグループへ、そして社会へ、最後には国全体が平和になるというものです。 シャンティ・セワ・グリハ は、すべての人がこうした子どもやその家族を支えるように訴えます。 そういう支えがあって、彼らも簡素ながらも安全な環境で生活することができるのです。

シャンティ・セワ学校
概要

シャンティ・セワ学校は1998年にシャンティ・セワ・グリハによってカトマンズのブダニルカンタに設立されました。最初はハンセン病患者だけの学校でしたが、現在は紛争被害者の子どもたちも入学できます。

学校はブダニルカンタから徒歩25分の距離にあります。学校は木々と緑に囲まれていて、とても静かで美しい環境にあります。新しくやってきた生徒たちは、この環境を見ると、自分たちの抱えている問題を忘れてしまいそうです。

(2006年)現在、88名(男女同数)がこの学校で学んでいます。託児所もあり、14名の乳児が来ています。障害者のクラスもあり、8名の生徒がいます。学校はハンセン病患者のために建てられましたが、現在、ハンセン病患者の生徒は10名だけです。その他17名が経済的に貧しい家庭の子どもたち、13名が紛争被害者です。生徒の中には6名の障害をもつ子どもと、家族の問題を抱えた子ども9名、孤児5名も含まれています。教師は7人です。

生徒の多くは遠隔地出身です。出身郡は、シンドゥパルチョーク、カブレパランチョーク、フムラ、ムグ、ヌワコット、ジャナクプール、ドラカ、マクワンプル、バラ、バグルン、ナワルパラシ、チトワン、サルラヒ、ダーディン、コタン、ボジプール、ソルクンブなどです。また、インド出身の子どももいます。

代表であるクリシュナ・グルンさんによると、経済的に困難な状況にある子どもたち、もしくは/同時に紛争被害者である子どもたちという順で入学できる優先順位が上がります。それぞれ入学を希望する事情を説明する必要があります。

クリシュナ・グルンさんは学校を環境に負荷を与えない空間にしようと考えました。そういうわけで、子どもたちもポリエステルの鞄ではなく、シンプルな布の鞄を使っていますす。計36名のハンセン病患者とその家族が構内に住んでいます。構内で暮らす人は約100名に及びます。シャンティ・セワ・グリハでは学校の生徒全員に、太陽熱パネルを使って料理をした給食を出しています。

鉛筆、ペン、本、ノートやその他の文房具と制服は無料で生徒に供与されます。その資金は外国援助機関が出してくれています。シャンティ・セワ学校の教師であるサビン・カドカさんは「子どもたちに関心をもつ外国の人たちが、学校を支援するために最善を尽くしてくれています」と語ります。

教育方針

2001年からウォルドルフ教育
[3]を新しい教育方針として導入しました。これは、実践的な知識が本物の知識を導くという考え方です。シャンティ・セワ・グリハでは、生徒が平穏な気持ちでいられる場合のみこれが達成できると信じています。したがって、教師の義務は平穏な環境で教育を与えられるようにすることです。ウォルドルフ教育は、適切な知識を分け合うには、神聖な魂、冷静な心、そして教師と生徒の間の強い繋がりが不可欠だと強調しています。これはシャンティ・セワ学校の幼稚園か6年生までのクラスで実践されています。

毎日授業が始まる前に、教師と生徒はお互いを励ますあいさつをし、新しい1日の始まりに感謝します。子どもたちは季節の素材を使って教室を飾り、自分たちの世界を作ります。

シャンティ・セワ学校で教える知識は、他の学校では得られません。各科目は実践的な方法で教えられます。例えば、もし題材が灌漑なら、子どもたちは水路を造って、畑に小麦を撒き、それが育つために水がどんな働きをするのか観察します。

シャンティ・セワ・グリハは、多くの人が人工的な物をめぐって争い、快楽を求める傾向があると思います。それゆえに、シャンティ・セワ・グリハでは生徒たちに、人工的な物についての知識と同時に、自然で精神的な世界についても教えます。教師は人間と魂、すべての生き物、動物、植物と人間の関わりについて教えます。黒人も、白人も、仏教徒も、ヒンドゥ教徒も、キリスト教徒も、みな同じ人間なんだと教えます。そして何より、私たちは神の創造物です。詩や物語を参照しながら、人生は美しいものだと強調します。

シャンティ・セワ学校の子どもたちは、教科書や講義から学ぶだけでなく、実際に見て、感じて、やってみる、実践的な方法からも学びます。このように直接経験して学んだことは、ずっと忘れないものです。生徒は、頭に知識を詰め込むだけなく、精神修養もします。それによって自分のもつ可能性に気づくのです。

シャンティ・セワ学校の教師はインドやネパールの様々な所で研修を受けました。彼らは絵、描写、粘土細工も教えます。子どもたちはダンス、歌、演劇を学び、そしてこれらの技能を他の科目を学ぶ時に生かすこともあります。

教師のひとりケシャブ・リマルさんは、以前はカトマンズの全寮制学校で教えていました。彼はその学校とシャンティ・セワ学校の間の多くの違いを見つけ、これからは教室で生徒に罰を与えるための棒を持ち歩く必要はないのだと感じました。彼は、生徒が彼の指導を理解することができない場合は、彼らの興味をそそるような、やさしい別の方法で教えるそうです。生徒は、彼らの興味に一致した方法で習うと、自分たちの間違いも簡単に発見できるようになります。

シャンティ・セワ学校は、ダサインやティハール、シバラトリなどのお祭りをお祝いします。生徒たちはそれを通してネパールの様々な伝統を学びます。

卒業生のその後
ガネッシュ・プラダンとサンジュ・マジはシャンティ・セワ学校で6年生まで勉強し、現在はカトマンズにある(別の私立学校)サンライト・スクールに通っています。彼らの学費は、シャンティ・セワ・グリハが払っています。彼らはシャンティ・セワ学校での勉強をとても楽しんだと言っています。「僕たちが新しい学校に入った時、僕たちは教科書の中の知識は他の皆より少ないと感じたけど、教科書以外の知識は、他の生徒たちより多いことがわかりました。シャンティ・セワ学校では、先生たちは生徒のニーズに合わせて教えてくれました。でも、今、僕たちは勉強と宿題に追われています。僕たちは英語だけで話さなくてはいけません。もしネパール語を使ったら、罰を受けなくてはいけません。シャンティ・セワ学校では、一度も罰を受けたことはありませんでした」

17歳のスマン・シグデルは、シャンティ・セワ学校で4年間過ごしました。彼は、その前は路上で生活していました。彼は、学校が本当の家族のように愛とケアを与えてくれたと言います。彼はまた、そこで多くのことが学べたことを喜んでいます。現在通っている学校とはずいぶん色々なことが違うそうです。「僕たちは一度も直接知識を学ぶことはありませんでした。もっと、遊びや絵、スケッチや楽しいことをしながら学びました。このような環境は、他の学校にはないものだと思います」

スマンは、現在の学校の規則や規定はとても厳しいと言います。生徒はたくさんの宿題をしなければならず、詰め込み型の勉強をしなければなりません。生徒たちは罰が怖いので、よく予習をします。シャンティ・セワ学校では、子どもたちは友達のように扱われていました。彼は、シャンティ・セワ学校のきれいに飾られた教室や、毎週のように近くの村や森へ出かけていった日のことが忘れられません。

参考文献
Community Study and Welfare Centre (CSWC). A Decade of Disaster, Human and Physical cost of Nepal conflict, 1996-2005, research report. Kathmandu.
INSEC. 2007. Human Rights Year Book 2007.

Shrestha, SK. 2004. Print Media, Coverage on Children’s Issues: A Report. Hatemalo Sanchar, Lalitpur.
नेपाल शान्ति संस्था। आन्तरिक व्यवस्थापनसम्बन्धी वकालत पुस्तिका २००५। ललितपुर।
नेपाल साप्ताहिक। २०६३ असोज ८।
प्रधान, गौरी। २०६० माघ। युद्धको भुमरीमा बालबालिकाहरू। सिविन, काठमाडौँ।
प्राची द्वैमासिक। २०६३ साउन।
हिमाल पाक्षिक। २०६३ कार्तिक १६-३०।

翻訳:木戸稔恵、監訳・訳注・編集:田中雅子


[1] 東ネパールから広がった手織り布。
[2] カトマンズ市内東部。
[3] シュタイナー教育の別名。

空を見上げて-紛争下のストリート・チルドレン-

レワット・ラジ・ティミルシナ著
目次

出版によせて
推薦文-経験と事実の要約
謝辞
まえがき

1. ネパールのストリート・チルドレン
1-1. 概要
1-2. 特徴
1-3. 生計、ごみ問題との関連
1-4. 民族、カースト、階級
1-5. 紛争の影響
1-6. 場所によるストリート・チルドレンの違い-カトマンズとラリトプルの比較から
1-7. 将来の夢
1-8. ストリート・チルドレンのその後

2.Jagaran Forum Nepal (JAFON)
2-1.設立まで
2-2.『僕らの家』

3.路上生活をした青少年たちの語り
3-1.誘拐を恐れて アミト(17歳)
3-2.学校にやってきたマオイスト ビラジ(16歳)
3-3.路上にしか僕の居場所がない シュリ・クリシュナ(22歳)
3-4.マオイストと国軍の板ばさみ モテ(18歳)
3-5.母に疎まれて ラジェス(13歳)

付表:ラリトプルのストリート・チルドレン

出版によせて
この本には、路上で暮らす子どもたちの日々の暮らしと彼らの夢が、ありのままに記されています。きっと路上で暮らす子どもたちに関心のある方々の心に触れることと思います。子どもたち自身が語る生い立ちのほか、家族を離れて路上で暮らすようになった理由、将来の夢、また子どもたちの多様さが聞き取りに基づいて紹介されています。ストリート・チルドレンのための活動にあたっては、かつてストリート・チルドレンだった青年や今もストリート・チルドレンである子どもたちとの協働が不可欠ですが、ここで紹介されている情報もまた、こうした活動にとって役立つに違いありません。

どんな調査も、社会が変化する方向性を示すことを本来の目的としているはずです。しかし、社会変化を目指す団体がその結果を分析し、導かれた結論を実際の活動に取り入れなければ、調査が役に立ったとは言えません。「開発途上国」と呼ばれる私たちの国では、調査によって裏付けられた結論から実践へとつなげることは、まだ一般的ではありません。それゆえ、私たちはこの本が示唆することを活動へと結びつける責任があります。ストリート・チルドレンの実態をあらわにした著者の努力を評価し、本書の出版が成功することを祈ります。

元 中央児童福祉委員会[i]委員
現 セーブ・ザ・チルドレン・ノルウェー・ネパール事務所
子どもの権利保護アドバイザー
シバ・プラサード・ポウデル


推薦文-経験と事実の要約
私がこの本の著者であるレワット・ラジ・ティミルシナさんを紹介された時、彼はまだ若い青年でしたが、年のわりに落ち着いていました。彼自身のストリート・チルドレンとしての人生経験が、彼を分別ある大人にさせたのでしょう。ともに活動するようになり、彼を支える人たちとも知り合う機会を得ました。私たちの国が、レワットさんのような青年たちの勇気と情熱、その献身的な取り組みを結集させることができていたなら、大きな変化を起こしていたでしょう。

路上で暮らす子どもたちに対してレワットさんが続けてきた努力と決意は生半可なものではありません。彼の判断はいずれも彼自身の経験から生まれたものです。レワットさんの最初の著作『路上の人生』ではストリート・チルドレンの生活と彼らを取り巻く者のやりとりが描かれています。本書はさらに深く、子どもたちの隠された事実を明らかにしています。
この本はストリート・チルドレンのために活動する団体が、効果的に事業を計画し、実施するためのヒントを与えています。著者が問いかけているのはとても単純なことです。真実を知ってほしいということだけです。彼の問いが学問的な命題のようであったなら、子どもたちに再び苦しい体験をさせていたかもしれません。この本がそのような形をとっていないことを、私はうれしく思います。ここに込められたメッセージが力強いのは、これまでにも筆者がストリート・チルドレンとしての体験を本や報告書に書いたことがあるからというだけではなく、日夜問わず彼らの生活がよりよくなるために活動を続けているからです。この本では著者自身の経験も綴られています。これはストリート・チルドレンたちの経験と事実の要約なのです。
                        
元 Friends of Needy Children (FNC)[ii]
現 The ISIS Foundation[iii] ネパール事務所長
プラルハード・クマール・ダカル


謝辞
Jagaran Forum Nepal (JAFON) がストリート・チルドレンについて広く社会に知ってもらうための本を出版するにあたり、「平和のための市民による紛争の記録プロジェクト」の一環として支援をして下さった庭野平和財団にまず感謝の気持ちを伝えます。またこの本の舞台である『僕らの家』の運営資金を援助して下さっているシャプラニール=市民による海外協力の会[iv]にも感謝しています。これまで繰り返し助言をして下さったハリ・クリシュナ・ダンゴルさん、クマール・ライさん、ゴパル・ゴラ・チャンドラさん、ラジュ・マハルジャンさん、ラジュ・ラマさん、ビシャル・ラマさんにもお礼を言いたいと思います。

私たちに出版を熱心に勧めてくれた「平和のための市民による紛争の記録プロジェクト」のコーディネーター田中雅子さんにも心から感謝しています。未だ完璧な形とは言えませんが、この本は彼女の夢の一つを実現しようとしたものです。

当初、この本の出版にあたっては路上で暮らす子どもたちの生活をとらえた写真を載せる予定でいましたが、国内・国外での写真の収集を試みたものの、さまざまな理由でネパール語版に写真を掲載することができませんでした。計画通りにはいかなかったものの、カメラを提供して下さったネパールの、また外国にお住まいの支援者のみなさんにお礼を申し上げます。

準備段階から関わったふたりのストリート・チルドレンと、生い立ちの聞き取りや写真の撮影を了解してくれたすべての路上で生活する子どもたちと青年たちにも心から感謝しています。出版までの作業は容易ではありませんでしたが、多くの困難を乗り越えて出版することができたことはこの上ない喜びです。最後に、本が完成するまでの過程を支援して下さったすべてのみなさまに感謝を言葉を捧げます。
Jagaran Forum Nepal (JAFON)代表
レワット・ラジ・ティミルシナ


まえがき
この本の取材には二ヶ月ほどかかりました。多くのストリート・チルドレンが協力してくれたおかげで何とかまとめることができたものの、振り返れば、良い思い出も、悪い思い出もあります。読者のみなさんにもその一部をご紹介しましょう。
生い立ちを尋ねるために子どもたちの後を文字どおり追いかけねばならないことがありました。ある時は彼らが話をするのを嫌がり、包み隠さず事実を話してもらうには根気が必要でした。しかし、聞き手が路上生活の経験者だったことで、何とかやりとげることができました。路上生活の光と陰の両面を盛り込み、子どもたちの生活を記録することは容易ではありませんでした。写真を撮るために真夜中に出かけたこともありました。彼らの多くはシンナー中毒[v]にかかっており、意識がもうろうとしている彼らに写真を撮ることの承諾を得るのは難しいことでした。

多くの援助団体が昼間にストリート・チルドレンの写真を撮っていますが、自分の団体の広報や財源確保に利用するだけで、子どもたちに利益が還元されることがないことに、彼らは不満を持っています。そこで、我々の場合は、路上生活の経験がある者だけが撮影すること、写真が誤用されることはなく、子どもたちのためだけに使われることを約束した上でようやく了解を得ました。写真を撮らせてもらうために、現金やごちそう、服を与えたり、将来見返りとして何かしてあげると約束する団体もあるので、子どもたちの中にはJAFONにも同じような要求をする者がいました。

私たちは子どもたちのさまざまな表情を写真にのこしたいと考えました。そこで、彼ら自身が好きな時に、仲間同士で写真が撮れるよう、30人のストリート・チルドレンと青年たちを対象に、カメラの扱いを教える「写真教室」を開きました。参加者の中から熱心な10人をまず選び、さらに7人にカメラを渡し、仲間の一日を撮影してもらいました。14、15歳のストリート・チルドレンがマオイストの行事のために旗を作っている現場に出くわした者がいましたが、マオイストが撮影を許しませんでした。

準備段階から関わったふたりのストリート・チルドレンは、こうした過程において、筆者、編集者、撮影指導をしてくれた写真家、経済的支援をしくれた団体と同等の貢献をしてくれました。

この本はネパールのストリート・チルドレンを取り巻く状況を10年前と比較する際に役立ちます。10年に及ぶ紛争が彼らの暮らしにどんな影響を与えたか、国家とマオイストの紛争によって彼らが路上で暮らさざるを得なくなる引き金要因とは何か、現在のストリート・チルドレンはどんな夢や希望を抱いているのか、彼らは朝から夜までどのように一日を過ごしているのか、政治デモや交通ストライキ、外出禁止令が出た時に彼らはどう対処しているのかといった疑問に、本書は答えようとしました。この本はストリート・チルドレンのために活動するすべての団体にとって役立つことでしょう。

[i] Central Child Welfare Board (CCWB) は、ネパール政府、女性・子ども・社会福祉省内で子どもの権利の保護を目的に設置された委員会。http://ccwb.gov.np/
[ii] Friends of Needy Children (FNC)は、1996年に設立されたネパールのNGOで、子どもや青年が自分の権利を享受できる社会をつくることを目指している。http://www.fncnepal.org/
[iii] The ISIS Foundationは、1997年に設立されたアメリカのNGOで、ネパールとウガンダにおいて子どもの保健と教育分野の支援をしている。ネパール国内ではカトマンズのほか、カルナリ地方のフムラ郡で活動している。http://www.isis.bm/
[iv] 1972年に設立された日本のNGO。ネパールのほかバングラデシュとインドで活動している。http://www.shaplaneer.org/
[v] 靴底を修理する接着剤など手軽に入手できるものを利用している。ストリート・チルドレンのシンナー中毒の実態についてはCWIN(2002)の調査結果を参照のこと。
1. ネパールのストリート・チルドレン
1-1. 概要

ネパールのストリート・チルドレンの歴史はよくわかっていません。いつどんな状況で路上で暮らす子どもが現れたのか、どの団体にも記録が残っていません。彼らに関する詳しい研究がない理由は、具体的な資料が得られにくいからです。ストリート・チルドレンはなぜネパール語で「カテ」と呼ばれるのか、どうして路上で生活するようになったのか、誰が最初に彼らへの支援を始めたのか・・・・。多くの疑問がわいてきますが、長くストリート・チルドレンのために活動してきた団体にさえ、これらの質問には答えられません。

過去の話はともかく、多くの団体は子どもたちの現状すら把握できていません。2002年に出版されたCWIN[i]の報告書によると、ネパール全体でのストリート・チルドレンの人口は約5,000人でした。その後新たな調査は行われておらず、各団体ごとに異なった統計を出しており、どの数字を信用すればよいか判断しかねます。前述の報告書によれば、当時カトマンズでは約500~600人の子どもたちが路上にいました。他団体の話[ii]では、ポカラに250人[iii]、ダランとビラトナガルに200人ずつ[iv]、ナラヤンガート、ブトワルに200人ずつ[v]の子どもたちがいると言います。

記述された歴史がないとは言え、25年ほど前からネパールの子どもたちが路上生活を送り始めたと推察できます。その頃、国内外のさまざまな団体がそういう子どもたちについて注目し始めたからです。このように20年以上にわたって、外国の団体がネパールの団体とともにストリート・チルドレンのために活動しています。今では、ストリート・チルドレンと関わる団体が増えましたが、その成果は必ずしもかんばしくありません。その多くが子どもたちにとって何が必要なのか十分把握しないで仕事を始めているように見えます。これらの団体は子どもたちが本当に望んでいることを未だ知らないままでいるようです。

この20年間で、ストリート・チルドレンのためという名目で、30カロール・ルピー[vi]相当の援助金が使われたと推測されますが、問題は解決していません。8~10年前もネパールには5,000人ほどのストリート・チルドレンがいました。過去10年間で彼らのために活動する団体の数が3~4倍に増えたので、ストリート・チルドレンの人数は減っていかなければならないはずですが、現在も人数に変わりはないと聞きます。活動団体の増加につれて援助額も増えているにも関わらず、効果が現れていないのでしょうか。この事実は、ストリート・チルドレンのための活動が未だ有効でないということを物語っています。あるいはこれらの団体は8~10年前の統計を未だに使い続けているのでしょうか。

数年前に中央児童福祉委員会がJAFONを含む団体やストリート・チルドレン自身の協力を得て調査を試みました。カトマンズのストリート・チルドレンの数を740人とする統計を出したものの、それも不十分な調査でした[vii]。ストリート・チルドレンの増減を断定するのは、大変難しいことなのです。

私たちが、ストリート・チルドレンのために活動する国内外の団体に訴えたいのは、まず適切で長期的な計画が必要だと言うことです。現在すでに実施している方針と事業計画の修正も必要でしょう。個人にも、団体にも、また国家にも資金は必要です。しかし、それは本来の目的に沿って用いられるべきです。適切な政策や計画がなければ、どれだけ多くのお金があっても成果を挙げることはできません。また、ストリート・チルドレンを支援する各団体は共通の理解に基づいて計画を実施し、それを進化させていく必要があります。

1-2. 特徴
現在ストリート・チルドレンの人口は減ることなく、むしろ増え続けていると思われます。数年前まで、路上に子どもたちがやってくる原因は貧困にあると言われてきましたが、次第にその理由も多様化しています。子どもに対する両親の無関心、友達の誘惑、家庭内暴力などを理由に子どもたちが路上に出てきています。裕福な家庭の子どもが路上にやってくる場合もあります。

10年ほど路上生活をしている者と最近そうなった子どもの間で最も異なるのは、技術の取得に対する意欲です。技術訓練の機会を増やすことは、問題解決の糸口になり得るようです。もう一つ重要な点は、近年ストリート・チルドレンになった子どもたちの中には、学校教育を受けたことのある子が多いということです。現在のストリート・チルドレンのほとんどが読み書きができますし、8年生まで修了して路上に来た子どももいます。彼らの多くは勉強が嫌いで家を出て路上に来ています。一般の学校教育に興味を失ったからです。彼らは再び学校に行くよりも、手に職をつけることができる技術訓練に関心を示すでしょう。とは言え、教育支援に意味がないと断言するつもりはありません。学校に通い続けることを望むストリート・チルドレンも少なくはないからです。私たちは、一般の学校教育と技術訓練のいずれも重要だと言いたいのです。 

紛争によって家族が国内避難民となり、子どもたちが路上に来る傾向が見られます。首都圏にあるカトマンズと隣接するラリトプルのストリート・チルドレンの人口が特に増えています。子どもたちは一旦都市での生活に慣れると、紛争が終結し村での安全が確保されても、路上で楽しむ癖がつき、村に帰りたがりません。経済的に問題を抱えた家庭の子どもたちは、一旦都会に出るとその誘惑に弱いのです。

大まかに分けると2種類のストリート・チルドレンがいます。昼夜ともに路上で過ごす子どもと、昼は路上で過ごすものの、夜は家族の所に帰る子どもです[viii]。前者については特定の地域で活動するたいていの団体が人数を把握していますが、後者について把握するのは非常に困難です。また最初は夜になると家に帰っていた子どもも、夜、路上で過ごす子どもたちと親しくなるにつれ、家に帰らなくなっていく傾向があります。

路上で生活する子どもや青年たちは、お互いを信頼していますが、見知らぬ人は信用しません。そういう人と親しくすることも好きではありません。それでも、彼らは一度信頼関係ができるとずっと信頼し続けるのです。一度心を開いた後は、良い事であれ悪い事であれ、自分の個人的な秘密を打ち明けるのもためらいません。最初はとても恥ずかしがっていた子どもも、一旦話し始めると打ち解けます。その一方で、あなた自身が彼らにどれだけ心を開いても、彼らがあなたを同等だと感じることはなく、彼らはあなたから何らかの利益が得られないか探しているのです。そのため、一般の人からストリート・チルドレンが荷物やお金を奪い取るという事件が起きるのです。しかし、彼らも路上生活に疲れ、安定した暮らしをしたいと望む日が来ます。その時、彼らはあなたを探します。あなたの支援を受けることができたら、彼らは路上生活をやめ普通の市民として暮らすことができます。彼らの中には良い道に進む子もいれば、一般の人たちになかなか相手にされないことに嫌気がさして、再び路上生活に戻っていく子もいます。

[i] Child Workers in Nepal Concerned Centre(CWIN)は、1987年に設立されたネパールのNGOで、子どもの権利と児童労働に関するロビー活動では草分け的存在。http://www.cwin.org.np/
[ii] 本書のネパール版を執筆した2006年に、地方で活動する各団体に電話で行ったインタビューによる。
[iii] 西部の観光都市。1997年に設立された地元NGO、Child Welfare Scheme Nepal (CWSN)による。http://www.childwelfarescheme.org/
[iv] ともに東部の都市。1993年に設立された地元NGO、Under Privileged Children Association (UPCA)による。http://www.upca.org.np/
[v] ともに中部の都市。2004年に設立された地元NGO、Child Protection Centers and Services (CPCS)による。http://www.cpcs-int.org/
[vi] 1カロールは、1千万ルピー。2008年1月現在、1ルピーは約1.53円。
[vii] ストリート・チルドレンの中には寝る場所を求めて転々とする子どもが多いため、広域にわたる一斉調査を行わない限り、正確な人数を把握することは極めて難しい。
[viii] 生活のすべてが路上にある子どもはChildren of Street、家があり家族のもとに帰るが多くの時間を路上で過ごす子どもはChildren on Streetと区別して呼ばれる。CWIN(2002)参照。
1-3. 生計、ごみ問題との関連
ストリート・チルドレンの中には、バスやテンプーなど公共の乗り物で車掌[i]として働いたり、食堂で皿洗いの仕事をする者もいますが、多くはごみとして捨てられる牛乳や油の入ったプラスチックの袋、割れたプラスチックのバケツ、ガラス瓶、その他さまざまな種類の銅、鉛、アルミニウムなど資源ごみを拾って生計を立てています。彼らは私たちの家のまわりや道端のごみの中からこれらのものを集め、資源回収業者に売るのです。この仕事をする子どもたちは、夜明け前に起きて資源ごみを探しに出かけます。午前中集めたものを売った後、午後は映画を観たり遊んで過ごします。再び夕方から夜中までごみを探して歩き、真夜中になって路上や回収業者の集積場、また施設などで眠ります。

実入りが良いときは、肉のカレーを食べたり、トランプや、映画、酒、また衣類やシンナーを買うのに稼ぎを使ってしまいます。ストリート・チルドレンは普通の貧しい家の子どもより、贅沢をしているように見えます。ネパール人のほとんどは祝祭日の時だけ肉を食べますが、彼らが普段から肉を食べていることを知って驚く人も少なくありません。お金が足りるなら、彼らは肉だけ食べてお腹いっぱいにしたいほどです。毎日映画を見たり娯楽にふけること、むしゃむしゃと何か食べ続けることが好きです。そうしないと気が晴れないのです。

ごみを探し歩く彼らですが、免疫力が強いのか、病気になる子どもは意外に少ないです。道端や私たちの家のまわりからストリート・チルドレンがごみを拾わなくなったら、私たちのまわりはどうなっていたでしょうか。コレラ菌など多くの病原菌が広がっていたかもしれません。ストリート・チルドレンが一般住民を健康被害から遠ざけ、自治体のごみ回収の一端を担っていると考えることはできないでしょうか。しかし、誰もストリート・チルドレンがごみ回収に貢献しているとは考えないのです。ストリート・チルドレンは「カテ」、時には泥棒とまで呼ばれ、見下されています。自治体が彼らのための活動をすることもありません。彼らの働きを評価し、ストリート・チルドレンの健康と安全に役立つような教育や技術訓練を自治体が行うことが必要です。彼らは目に見える働きをしているのですから、一般住民もストリート・チルドレンに対する偏見を捨てなければいけません。自治体のごみ回収が不十分な現状では、ストリート・チルドレンなしでごみの分別や資源ごみの回収はできません。彼らが売った資源ごみを売買することで多くの人が仕事を得ています。しかし、ストリート・チルドレンが大きな利益を得ることはありません。資源回収業者たちも、彼らに対して冷たいです。みな自分の利益だけを考えているのです。ストリート・チルドレンに対して、感謝の気持ちを持っていません。ストリート・チルドレンが資源ごみを回収しなかったら、自治体はごみの分別にどれだけお金をかけることになるでしょうか。これは真剣に考えなければならない問題です。彼らはごみの分別や環境にとって重要な貢献をしているのです。

年少の頃から、道端や住宅街で麻袋を担いでごみを集めていた子どもたちは、青年となった今、警笛を鳴らしながら住宅街でごみ回収をしています[ii]。仕事のやり方が少し違うだけですが、ストリート・チルドレンのほうは相変わらず見下されています。以前は、戸別回収サービスが少なかったため、路上にごみを捨てる人が多かった上、自治体の回収も遅れがちでした。ストリート・チルドレンがプラスチックや金属を集め、お金を稼ぐことはそれほど難しくありませんでした。最近はごみの路上投棄が禁止されており、自治体も早く回収するようになったので、彼らは仕事がしにくくなっています。この仕事で食べていけなくなると、ストリート・チルドレンは悪いことにも手を染めるようになります。盗み、強奪、売春などをしてしまう可能性があるのです。また、路上で物乞いをする子もいます。廃棄物処理の仕組みを改善するのと同時にストリート・チルドレンの生計のことを忘れてはいけません。彼らの仕事を奪ってしまうと、彼らが悪事を働いてしまい、国にとっても問題となるでしょう。こういう点も政府が対策を考えるべきです。

[i] テンプーはオート三輪車の総称。カトマンズとラリトプルで走行しているものはいずれも充電式電気自動車。車掌はネパール語で「カラシ」と呼ばれ、出発時に客を呼び込み、走行時に停車を知らせ、乗車料金の徴収も行う。
[ii] 行政によるゴミ回収システムが確立していないネパールでは、NGOや民間業者が各戸を訪問し、警笛で知らせながらゴミを回収している。
1-4. 民族、カースト、階級
ストリート・チルドレンたちは互いの出自をあまり気にしません。初対面で相手の民族やカーストを表す苗字を尋ねることはありません。それでも一緒に生活するうちに出自がわかり、カースト名で呼び合う者もいます。バフン[i]の友だちに、「バフン」と呼びかけたり、ボテ[ii]の仲間に「ボテ」と声をかけることもあります。しかし、カミやダマイ[iii]の仲間に対して同じようにカースト名で呼ぶことはしません。子どもたちも社会の常識は理解しています。

カーストによる上下関係で差別することはないですが、相手の出自を知ったことで、からかいの材料にすることはあります。「君は他のカーストの僕らが触ったものは食べないよね」と言われたバフンの少年が、「触って僕の分も食べてしまうつもりかい?」と笑いながら返事をすることがあります。このようにカーストに由来することで冗談を言い合ったりすることはありますが、これはふざけているだけで、相手を傷つけたり、差別するわけではありません。

子どもたちが路上生活を始める要因として民族・カーストや宗教が、経済的な問題以外にどういう影響を及ぼしているのか調査が行われたことはありません。それでも、彼らのその後の人生においても民族・カースト、宗教は重要な意味をもつようですから、こうした出自の背景とストリート・チルドレンとなる因果関係ついて調査をする必要性があるでしょう。

子どもから青年になるにつれ、民族・カーストの話はだんだんしなくなります。路上生活をする青年たちはカーストの異なる相手と結婚することがあります。結婚しても路上生活を続けている夫婦もいますし、路上で子どもが産まれた例もあります。路上生活をしていた青年が富と財産、社会的階級という境界を越えて結婚した者もいますが、うまくいかなかった者もいます。約12~13年前からカトマンズで路上生活を送っていたある青年の悲しい恋物語を紹介しましょう。彼が路上で暮らすうちに、カトマンズに家がある少女との間に愛が芽生えました。何ヶ月かの恋愛の後、少女の家族がふたりを引き離そうとしたのでポカラへ駆け落ちしました。少女の家族はポカラから少女を探し出し、カトマンズへ連れ帰って、他の男性と結婚させました。このような話はよく聞きます。一方、裕福な家庭でも、両親が娘の選択を受け入れる場合もないわけではありません。結婚後、両親は自分の娘と結婚した青年が仕事に就けるよう支援することもあります。路上で過ごした青年たちの中にも、順調に結婚生活を送る者もいるのです。

1-5. 紛争の影響
ストリート・チルドレンはネパールの大きな問題ですが、他の問題の影に隠れがちです。この分野で活動する団体の影響力が小さいこともその理由のひとつですが、国家の他の問題とより複雑に絡みあっているため解決が難しいからです。1996年以後、路上にやってきた子どもの中には、紛争の影響を受けて都市に出てきた者も少なくありません。村では多くの子どもたちがマオイストに連れ去られ、逆に国軍からはマオイストのスパイではないかと疑われました。村人たちは両者の板ばさみとなって苦しんできました。子どもたちは自分の意志で、あるいは子どもの安全を願う両親に半ば強制されて村を離れます。彼らは、自分で逃げてきたり、家族と相談の末、町にやって来ます。仕事が見つからない場合の選択肢の一つが路上生活なのです。子どもたちの中には、マオイストと何日か行動をともにした末、逃げてきた例もあります。多くの子どもがマオイストを恐れて町へやって来ます。彼らが望んでも簡単に村に戻ることはできません。

この紛争によって、多くの村人が避難民として都市へ移住しました。両親と一緒に都市に来た子どたちの中には、生活の糧を得るために路上生活を始める子もいます。両親は日々の生計を立てるのに忙しく、子どもの面倒を見ることができません。その結果、子どもたちは昼間、自ら働くようになります。両親を助けるためだと言って、自ら路上にやってくる子もいます。他の子どもたちと接するうちに、次第に昼夜を路上で過ごすストリート・チルドレンとなっていくのです。

2006年4月の第二次民主化運動も、ストリート・チルドレンたちの生活を苦しめました。外出禁止令が出ているときは、屋外にいることが許されません。生活がとても不安定になりました。交差点だけでなく路地にも武装警察や国軍が配置され、いつ銃弾が飛んでくるかわかりません。子どもたちは何日間も、外に出ることができませんでした。ストリート・チルドレンはその頃どこで過ごしていたのでしょう。断定はできませんが、彼らは町のどこかのごみ集積場や、団体の施設で過ごしていたと考えられます。居場所だけでなく、彼らには、もっと深刻な問題がありました。生活の糧を得ることができなくなったのです。デモが行われていた期間中、彼らは資源ごみを集める仕事ができませんでした。稼ぎがなければお腹をすかせて過ごさざるを得ませんでした。

その頃、実際に群衆の中で国軍兵に押さえつけられた子どももいました。外出禁止令の最中に外に出る人々を、国軍が追いかけてきて殴ります。シバ・ラマにとってそれは軍から暴力を受けた悲しい出来事です。彼は7歳から路上で生活していますが、昔よりも現在の方が、軍や警察の態度が厳しくなったと言います。夜、プラスチックを拾いに行くと軍や警察からマオイストではないかと疑われます。「僕はマオイストじゃない」と言うと逆に怒られ、「カテ」と言って怒鳴られた、と彼は言います。国軍兵が彼らに「マオイストとどれくらい頻繁に会うのか」と尋ねることもありました。また、マオイストも路上にいる青少年を彼らの集会に強引に連れて行きました。

留置場に入れられたストリート・チルドレンもいます。例えば、盗み、ケンカ、麻薬等を理由に捕まえられたのです。留置場に入っている子どもたちは警察官から「お前はマオイストではないか」と責められ、とても怯えています。紛争によってストリート・チルドレンはさらに苦悩を負ったのです。

この分野で活動する団体と警察の間で何度も話し合いをしました。警察は、マオイストが青少年を兵士として使っていることばかり言いますが、私たちから見れば、ストリート・チルドレンは、マオイストだけでなく国軍からも嫌がらせを受けています。マオイストに対して不満をもつのと同様、彼らは国軍に対しても恐れを抱いています。私たちは連日報じられる紛争の実態を知っています。そのため、マオイスト側と政府側のどちらか一方の責任であるとは絶対に言えません。

1-6. 場所によるストリート・チルドレンの違い-カトマンズとラリトプルの比較
一般に、ストリート・チルドレンはみな同じだと思われています。路上で生活することは同じように暮らしていると誤解されがちですが、生活場所によって状況は異なります。ネパールの主要都市で路上生活を送る子どもたちを取り巻く環境がそれぞれ違うからです。都市によって便利さや人口規模に差があります。ある町は設備に恵まれ、別の町では人々の生活スタイルが開放的で、食べ物がより現代的である、といった差もあるでしょう。こうした条件によって、ストリート・チルドレンの生活スタイルも決まるのです。

遠く離れた都市を比較してみなくても、同じ首都圏にあって隣り合ったカトマンズとラリトプルのストリート・チルドレンの生活スタイルを比較してみても、大きな差が見られます。2004年から2006年までの間にJAFONと何らかの形で関わりのあったストリート・チルドレンは、ラリトプルに約200人、カトマンズには400人いました。彼らの違いを紹介しましょう。

ラリトプルでは学校教育を受けたことのあるストリート・チルドレンが多く見られました。ストリート・チルドレンの食事の回数にも違いがありました。カトマンズの子どもは昼間2、3回食べることができます。公的な団体の行事が多いため、食事にありつける機会も多いというのです。多くの団体はカトマンズでストリート・チルドレンのための活動をしています。メディアもカトマンズにおけるストリート・チルドレンについて扱うことが多いため、カトマンズの子どもたちはさまざまな人々と接触があるのです。

もう一つ興味深いのは、子どもの行動範囲についてです。カトマンズの子どもたちは頻繁にラリトプルに行きますが、一方ラリトプルの子どもたちはカトマンズに行くことが極めて少ないという点です。カトマンズにはストリート・チルドレンの数が多く、資源ごみ回収で生計を立てる彼らにとって十分なだけのプラスチックが拾えず、ラリトプルまでやって来るのです。

ラリトプルの子どもたちは家族と連絡を取っていますが、カトマンズの子どもたちはそれほど連絡を取っていません。ラリトプルでは年少のストリート・チルドレンの多くが近郊の村からやって来ています。彼らは自分の家に帰ることも難しくありません。ダサインやティハール[iv]の祝祭日に、ラリトプルの子の大部分は帰省します。彼らの両親も路上で商売をして暮らしています。たとえ家族のほうが子どもの心配をしていなくても、彼らのほうから両親に会うために家に帰ります。一方、カトマンズで路上生活をしている子どもたちは、ネパール各地から出て来ているので、家に戻るのも困難です。特に紛争への恐怖心から、多くの子どもたちは村へ行くのを怖がっていました。

1-7.  将来の夢

路上生活でお金を稼ぐこと経験をしたために、路上生活をやめた後も、彼らは自分で稼ぎたいと考えます。ストリート・チルドレンにもお金を儲けたい、有名になりたいといった夢があります。だから1日12時間以上の労働も苦にしません。社会一般の人たちと同じように生活することを望んでいるだけです。彼らは警察官と給料の少ない仕事には興味がないと言います。ストリート・チルドレンにとって一番人気のある職業はタクシーの運転手です。稼ぎが多いと思われているからです。裕福な家庭の娘と結婚する、映画の俳優になる、という夢をもつ者もいます。ネパールの階級制度に反発する彼らの姿が浮かんでいます。人気の高い職業、仕事は以下のとおりです。

運転手、アーティスト、洋品店や食堂などの商店主、コック、建築業、水道管工事、農業、外国への出稼ぎ、自分でNGOを立ち上げてて仲間を支援する、兵士になる。

1-8. ストリート・チルドレンのその後
かつて路上生活をしていた子どもの中には、路上生活を抜け出した者も少なくありませんが、現在の支援の方法には限界があります。多くの団体が18歳未満のストリート・チルドレンのために活動をしていますが、18歳以上の青年たちはその対象になっていません。18歳になったとたん、子どもたちは支援を受けることができなくなります。路上で暮らす子どもにとって、現状の支援は一過性のものに過ぎず、長期的な解決になっていません。

それでも、年少の頃に受けた支援によって自分の人生を変えたという青年の例もありますし、18歳になって自分の力で路上生活をやめた者もいます。多くの街でかつてのストリート・チルドレンが自立した例が見られます。路上生活をやめ、新しい生活を送る青年たちはさまざまな仕事をしています。その多くは運転手です。その次が衣類の商売、公務員、兵士となっています。中には、民間企業で働く者もいます。またストリート・チルドレンを支援する団体に就職したり、自分で団体を設立した青年もいます。

[i] ヒンドゥの最上位カースト
[ii] 本来チベット人を意味し、モンゴロイド系住民一般を指すが、呼ばれる側は蔑称だと感じることがある。
[iii] いずれもヒンドゥの不可触カースト(ダリット)で、カミは鍛冶屋、ダマイは仕立屋および楽士。
[iv] ダサイン、ティハールともに秋に行われるヒンドゥ教の祭礼で、公的機関は長期の休日となる。
2. Jagaran Forum Nepal (JAFON)
2-1.設立まで

現在ストリート・チルドレンのために活動する団体は数多くあります。JAFONもその一つとして2000年に設立されました。JAFONは運営方法などさまざまな点で他団体と違います。代表である私自身がストリート・チルドレンだったことにその理由があります。私が路上生活を送っていた頃の物語はとても長く、苦闘の末、ここまでたどりついたのです。これまでも多くの人々に影響を与えてきたと自負しています。そんな努力があってこそ、JAFONが多くのストリート・チルドレンとつながりをもてたのだと思います。

私の家はシラハ郡[i]にありました。両親のけんかがもとで7歳の時、家を出なければなりませんでした。その後両親は別居しました。母は私を学校に行かせるため、ビルガンジ[ii]に引っ越しました。母は学校で教員の職を得ましたが、私は町で友だちと過ごすことが増え、勉強するより彼らと一緒に映画をみたり遊びまわるようになりました。同年配の少年たちと一緒にいる時間が長くなり、家に帰らなくなりました。

ビルガンジに来て4年後のある日、カトマンズではお金を稼げると考え、私たち12人は連れ立ってカトマンズにやって来ました。知り合いの資源回収場があるダルコ[iii]に住むことになりました。私たちが拾い集めたプラスチックや金属は、1キロ12~14ルピーで売れました。6ヶ月間資源ごみ回収の仕事をしたあと、バグ・バザール[iv]に移りました。それが12年間の路上生活の始まりでした。 

1992年頃のある日、私は友達と一緒にCWINが運営する施設に行きました。CWINはアロハン(Aarohan)[v]という演劇グループと一緒に活動していました。ストリート・チルドレン自身も出演することになり、私も出演者のひとりに選ばれました。アロハンから1ヶ月にわたる演技指導を受けて、私たちは路上生活の劇を準備しました。スニル・ポカレルさんが演出し、私たちストリート・チルドレンが出演した『都会に生きる市民権のない者たち』という劇はさまざまな場所で公演されました。

それから約1年後、私はCWINを去り、友だちと一緒に再び路上生活を始めました。その後、アロハンがストリート・チルドレンの宿泊施設を造ったので、そこに住むことになりました。アロハンを通じてストリート・チルドレン関係の仕事をもらったので、10ケ月後、ホステルでの生活をやめました。同じような仕事でポカラにも行きました。

ストリート・チルドレンに関わる多くの団体と仕事をする機会を得た私は、ある日、自分でもこういう団体を運営できるのではないかと考えました。私もストリート・チルドレンの友人たちも、既存の団体の活動に納得していませんでした。そこで1998年、友人と一緒にJAFONの前身であるJagaran Groupを設立しました。それから2年後の2000年にJAFONを設立しました。

JAFONはさまざまな活動を通じて、路上生活をする子どもたちがいなくなるように社会に働きかけててきました。現在はラリトプルの事務所を拠点に、カトマンズとラリトプルのストリート・チルドレンの支援をしています。

事務所がまだアラムナガル[vi]にあった頃の奮闘の日々は忘れがたいものです。資源ごみ回収を通じて事業収入を得ることを目標にしていました。路上に住む子どもや青年にできる仕事をつくり、そこから得られた収益で他のストリート・チルドレンのための活動を行おうと考えたのです。青年二人が近隣の家庭を戸別訪問しごみの有料回収を始めました。7軒の訪問からスタートしましたが、400軒へと利用者が増えました。この事業は現在も続いており、2008年1月現在9名の元ストリート・チルドレンを含む14人が働いています。

[i] タライ平野東部の郡。
[ii] インド国境沿いの都市。
[iii] カトマンズ内ビシュヌマティ川沿いの地区。資源ごみ回収業者の集積場が多い。
[iv] カトマンズ市内中央の商業地区。
[v] Aarohanは1982年に設立された演劇グループ。カトマンズにある自前の劇場での公演以外に、ネパール各地のグループとの創作活動も行っている。ネパールを代表する演出家・俳優のスニール・ポカレルが主宰。http://www.aarohantheatre.org/
[vi] カトマンズ市内の中央官庁があるシンハ・ダルバールの裏にある。
2-2. 『僕らの家』
2005年から、JAFONは新しい活動を始めました。『僕らの家』というストリート・チルドレンが大人たちの干渉を受けることなく、安心して立ち寄り、生活できる場の運営です。ラリトプルのクンベシュワル寺院の近くで建物を借りています。この活動は、シャプラニール=市民による海外協力の会という日本のNGOの支援を受けています。宿泊施設としてだけでなく、子どもたちが利用できるサービスを提供しています。例えば、病気になったとき医療施設に行くための補助、テレビなど娯楽を楽しめる部屋、スポーツ用品、安心して食べられる安価な食事の提供、稼いだお金を貯金する仕組み、読み書きや計算を習う教室、資源回収場の運営-よその回収業者は子どもたちに妥当なお金を与えないことがあるから-です。他には、ストリート・チルドレンに対する啓発活動、技能訓練、運転免許証や市民権証取得のための支援を行い、ときには芸術家と協働することもあります。

施設の運営すべてを援助に頼るのではなく、いずれ自己資金で活動できるよう、食堂と回収場を自ら経営しています。彼らは自分たちの稼ぎから食事代を払っています。25ルピーあれば『僕らの家』の食堂で食事ができます。ほとんど子どもたちは食扶持は自分で稼ぐ習慣が身についています。

『僕らの家』として借りている2階建ての建物には、部屋が11あります。事務所のほかに、子どもたちがテレビを見る娯楽の部屋、教室として使う部屋などがあります。寝室は三つで、うち二つは年少の子ども、一つが年長の子どもの部屋です。彼らの持ち物を置く部屋が別にあります。台所と食堂、職員の控え室があります。屋外でからだを洗うために、いつも石鹸が用意してあります。薬も常備しています。