2.4 生まれ変わったジャヤ
「ドラカ郡のチャリコット[i]で、マオイストが警察署を攻撃するという噂がありました。その村で私の両親は小さな食堂を経営していました。私たちは持ち家がなく、家を借りて生活していました。マオイストが攻撃してくることを知っていても、逃げられませんでした。他に行くところがなかったからです。私は朝と夜は母の仕事を手伝い、午後は学校に通いました。学校の名前はパシュパティ・カンヤ・マンディール学校です」
この文章は、ドラカのチランカ村出身のグルパ・ジャヤ・カドカが書きました。彼女の村へ行くには、チャリコットから丸一日歩かなければなりません。道が整備されていないのです。
2005年4月9日の夜、ジャヤの生活は大きく変わりました。彼女は4人の弟と母親と寝ていました。彼女の父親は竹を切りに出かけていました。真夜中に突然、ものすごい爆発によって起こされました。人々は叫び、あちこち走り回りました。すぐに、マオイストと治安部隊の戦いが始まったのだと分かりました。「私たちはその時、本当に怖かったです。それから弾丸が私のところに来て、足元で爆発しました。私は母に何か言ったように思いますが、すぐに気絶しました」と、ジャヤはその時の様子を語りました。
ジャヤの母、ドゥルガ・カドカもその夜のことを思い出して、話してくれました。「ジャヤは『お母さん!私の足が片方ない!』と叫びました。私は5人の子どもをベッドの下に押し込みました。それから、こんな危ないところにいられないと思い2人の息子を抱え、ジャヤに他の2人を連れてくるように言いましたが、彼女は意識がありませんでした。真っ暗でしたが、彼女の洋服が濡れているのは分かりました。私は、彼女が恐怖でお漏らしをしたのだと思いました。しかし、あとでまた彼女が『お母さん、本当に足がないの!』と言ったので、もう一度見てみると、彼女の洋服は血でびっしょりと濡れていたのです。私はひどく驚きました」
「私の心臓は、数秒間止まったと思います。その夜は、まるで一晩が百年だったかのようにとても長く感じました。私は朝になるのを待てず、子どもたちをつれて友人の家へ向かって歩きました。私はただ歩きました。戦闘の危険を意識していませんでした。子どもたちを抱え20分ほど歩き、友人の家へ着きました」
友人がジャヤの足を布で縛ってくれました。翌朝、ドゥルガはジャヤを軍の駐屯地へ連れて行き、助けを求めました。ジャヤは軍のヘリコプターでカトマンズへ連れて行かれました。チャウニ[ii]の軍病院で彼女は適切な治療を受けることができました。
それから、ジャヤの新しい生活が始まりました。
事件の後、ジャヤの両親は村を離れることにしました。2006年6月5日にジャヤと家族はカトマンズに引越し部屋を借りました。
ジャヤの叔父の計らいで、彼女はシャンティ・セワ学校で学ぶ機会を得ました。彼女は授業料を払う必要はなく、昼食も出してもらえました。現在、彼女は6年生です。彼女の弟たちはカトマンズの別の学校に通っています。
はじめは、ジャヤの両親はバグマティ川で砂を取って売る仕事をしていましたが、それは季節労働だったので、ジャヤの母親は道ばたで小さな店を開きました。彼女の稼ぎで彼らの出費のすべてを賄わなければなりません。出費の中には家族7人が住む暗くて狭い部屋の家賃1,200ルピーも含まれています。彼女は日に100~150ルピー稼いでいますから、何とか足りています。
長女であるジャヤがしなくてはならない仕事も多いです。彼女は5時に起きて、学校へ行く前に前日使った食器を洗い、弟たちの朝食の準備をします。放課後は夕食を準備し、弟たちの宿題を手伝います。毎週木曜日は弟たちをお風呂に入れ、時間がある時には、彼女はパシュパティナート寺院を訪れます。
ジャヤは以前は医者になりたいと思っていましたが、彼女が怪我をして病院にいた時、それは簡単なことではないと思いました。今は、彼女の先生のサジャナのような良い先生になりたいと思っています。そして、教育を受けていないすべての子どもたちに教育の光を与えてあげたいそうです。
彼女が足を失った日が彼女の人生で最も忘れられない瞬間です。しかし、シャンティ・セワ学校で他の生徒の悲しい話を聞いた後、彼女は自分のけがについて気にしなくなりました。彼女はシャンティ・セワ学校で勉強できてとても幸せだそうです。村の学校よりも実践的な指導を受けることができ、とても明るい雰囲気だからです。
病院にいた時、ジャヤは人生はこの先真っ暗だと思っていましたが、シャンティ・セワ学校に入ってから彼女は幸せになりました。「私の新しい生活は、前の生活よりもずっと明るいです。そして私はひとりではありません。多くの子どもたちが紛争中の戦闘の犠牲者なのです」と、ジャヤは語ります。
2.5 「夢は医者になること」プラティバプラティバ・ルインテルはモラン郡[i]出身の13歳です。ブダニール・カンタにあるシャンティ・セワ学校の4年生です。彼女は、カトマンズのガウリガート[ii]に家族で部屋を借りて住んでいます。
2006年8月17日、雨の中、私たちはプラティバの帰りを待っていました。スクールバスから降りた彼女は傘を持っておらず、急ぎ足で歩く彼女を私たちが追いかけました。私たちは彼女の両親に会うため、一家が借りている部屋を訪れました。
「あなたが住んでいる部屋はなんて遠いの?」と尋ねる私に、「何て返事をすればいいのかわかならいけど、私にも遠く感じるわ」とプラティバが答えました。
30分ほど歩いて、ようやく彼女たちの部屋に着きました。部屋には母親のインディラしかいませんでした。父親は日雇い労働をしていて、まだ戻っていませんでした。大きな窓があるおかげで、部屋は明るかったです。
プラティバの妹バルクマリも、シャンティ・セワ学校の4年生です。私たちはバルクマリに将来何になりたいか尋ねました。「何になりたいかって言われても、そんなことまだ考えたことがないな」という返事でした。プラティバに同じ質問をしてみると、しっかりした答えが返ってきました。「私はお医者さんになりたいです。私たちの学校にはハンセン病にかかっている人がいます。病気を患っている人たちの苦しみを見て医者になろうと決めたのです」
母親のインディラは、近所の家で洗濯をする仕事を終えて帰ってきたところです。「娘は医者になりたいと言うけれど、毎日食べさせていくのがやっとです。本や鉛筆、ノートを買ってあげることさえできなかったんです。どうしたら彼女の夢を叶えてやれると言うのでしょう」
インディラは以前、3人の娘を近所の公立校に通わせていました。しかし、在籍料を払えなかったので学校を続けることができませんでした。彼女はどうしたら子どもたちに教育を受けさせることができるのか悩んでいました。そんな時、近所の人がシャンティ・セワ・グリハのことを教えてくれました。早速申し込むと、幸運にも彼女の子どもたちは入学を許可されました。彼女はこの学校の教え方が気に入っています。末息子も来年から同じ学校に通わせたいと思っています。子どもたちは学校で朝食も出してもらえるし、良い教育を受けていると思っています。
プラティバの家族は、モラン郡の村で小さな茅葺の家に住んでいましたが、両親は仕事を求めて市場のある町に引っ越しました。父親が日雇いの仕事をしている間、母親はジャングルに行って薪を集め、市場で売りました。彼らは13~4年の間そこで生活しましたが、市場がとても小さかったのでそこで毎日仕事を見つけるのは困難でした。しばらくして、ジャングルで勝手に木を切ることが禁止されました。マオイストによる武装闘争が活発になってきた時、プラティバの両親はその町を去ることに決めました。
プラティバは、彼女が村にいた頃のマオイストの様子について説明してくれました。「マオイストは夜やって来て、ごはんを作れと言いました。私の母は何度も彼らのために料理をしました。彼らが武器を見せて私たちを脅すので、とても怖かったです。だから、私は両親に、村から出て行こうよと言いました」
プラティバの叔父はカトマンズに住んでいました。彼の計らいで、2004年12月、カトマンズに引っ越しました。プラティバの母は言います。「私たちのような貧乏人は、どこで暮らしても大変です。カトマンズでは村ほど仕事を探すのが難しくありません。食器洗いや洗濯の仕事をすれば、日に100ルピー稼げます。子どもたちは村にいた頃よりずっと幸せそうです。叔父さんにもしょっちゅう会えます。今私たち家族は、この新しい場所で落ち着いて暮らしています」
プラティバは村の学校のことを思い出します。「あの学校で教え方はあまりよくなかったです。だから、私たちはよく試験に落ちました」とプラティバが言うと、妹のバルクマリも「カトマンズの学校の教え方が好きです。シャンティ・セワ学校はとてもきれいで、部屋の壁に飾りがあるし、校庭には花がいっぱい咲いてます」と言います。
カンチャン・ポカレルという女の子がプラティバと同じ家に住んでいて、プラティバの宿題を手伝ってくれます。彼女はプラティバたちのことを「あの子たちは英語が苦手です。村の学校で勉強していたせいでしょうね」といいます。
家にはテレビがないので、隣の家がテレビをつけると、それを窓からのぞき見しています。「お金が充分にあったら、私たちもテレビを買いたいです」と、プラティバの母親は言います。それでも、娘が学校で習ってきた歌や詩の朗読を聴くと、とても幸せな気分になれます。
プラティバの家から戻っても、ひとつのことが私の頭を離れませんでした。「果たしてプラティバの医者になりたいという夢は叶うのだろうか」
2.6 ムグを思い出すラマンラマンは父親に会いたくてたまりません。彼が6歳の時、マオイストが父親を殺しました。父親がマオイストに加わるのを拒んだからです。ラマンが覚えているのは、その時の母親の泣き顔だけです。ラマンは平均的な農家に生まれました。父親がすべての責任を背負っていましたから、彼の死によって家族はひどい困窮に陥りました。
「お父さんが死んでから、お母さんは苦労の連続でした。畑と家畜、家事と子どもの世話のすべてをひとりでこなすのはとても大変でした。お金がなかったので、お母さんは僕たちを学校に通わせることができませんでした。お父さんの死は、お母さんを不安にさせました。いつもお母さんは、次は子どもたちがマオイストに取られてしまうんじゃないかと心配していました」。今は9歳になったラマンはその頃を思い出して言いました。
ラマンはマオイストが村人をどんなに酷く扱ったか今でも覚えています。彼はある事件について語ってくれました。「ある日、僕と友達が学校に向う途中、マオイストに会いました。彼らは僕たちに、学校は閉まっていると言ったので、僕たちは彼らについて行かざるを得ませんでした。彼らは僕たちを1日中拘束し、彼らの活動について講義しました。すごく怖かったですが、翌日村に帰ることができました」
マオイストを装った他の人たちも、彼の一家を苦しめました。ラマンの母は、彼を紛争の恐怖のない平和な環境で過ごさせたいと思い、ラマンを村から逃げさせることに決めました。彼は母親のいる村から離れたくなかったのですが、母親は彼に、町に行かなければきちんとした教育を受けられなくなると説きました。そして、カトマンズに行く予定だった村人のひとりにラマンを預け、家族は涙ながらに別れたのです。
カトマンズに着いた時、ラマンを連れてきた男性は彼をシャンティ・セワ学校の3年生に入学させました。当初ラマンはこの学校の環境は変わっていると思いましたが、徐々に慣れました。現在彼はシャンティ・セワ・グリハの一員であることを喜んでいます。そこには友達がいっぱいいて、先生たちは彼をとてもかわいがってくれます。
ラマンはいつも「すべての子どもが両親と一緒に暮らせるように。僕のように離れて暮らすべきじゃない」と祈っています。彼はすべての人々が一緒に平和に暮らして欲しいと思っています。ラマンはサッカーが好きです。そして、彼の村からの訪問者が来る時が、一番幸せです。
2.7 都会の生活に心を動かされたムクルとシバラジ「お兄さんと僕は、カブレ郡[i]の学校の3年生でした。マオイストのせいで学校で良い教育は受けられませんでした。マオイストはよく僕たちのクラスに来て、無意味な演説をしました。彼らは先生たちに寄付を要求していました」
「ある日、先生のひとりがマオイストを無視したところ、その先生は、僕たちの目の前でひどく殴られました。先生はとても怖がっていました」。ムクル・シャルマは村の学校の様子を説明してくれました。現在、ムクルは家族と一緒にカトマンズに住んでいます。彼らの家は暗くて狭く、十分な広さがありません。
最初、ムクルの父親がカトマンズに来ました。4ヶ月後、母親のショバは家長が不在のまま村で生活するのは大変だと言い、カトマンズに来ました。彼らが村を出たのは「ネパール・バンダ」と呼ばれる国全体のストライキの日でした。
家族は朝4時に起きて出発しました。夜8時半まで歩き、ようやくカトマンズに着きました。ムクルは、カトマンズが初めてちらっと見えたとき、まるで夢の中にでもいるかのようにとても幸せに思いました。しかし、長旅でとても疲れていたので、少し具合も悪かったです。
ムクルが彼らの旅について話す時、とても活き活きとしていましたが、兄のシバラジは心ここにあらず、という感じでした。シバラジは片目が見えず、それほど行動的ではないのです。
ムクルは話し続けました。「村で僕たちが住んでいた家は壊れてしまいました。だから、僕たちは近所の人の小屋に寝泊りしていましたが、何ヶ月か後、そこも壊れてしまいました。それから近所の別の人の小屋に住まわせてもらっていました。でも、すぐあとで、お母さんが僕たちをカトマンズに連れて来てくれました。都市の生活は村の生活よりずっといいです。ね、お兄さん?」ムクルはシバラジにいいました。シクラジは微笑んだだけでした。
息子たちが話している間、母親は苦笑しながら付け加えました。「たぶんこの子の話を信じられないでしょう。でも、本当なんですよ。私たちは本当に村に家がないんです。ムクルの父親は3人兄弟でした。相続する土地について尋ねたとき、義父は75,000ルピーのローンを見せたんです。義父には借金があり、それを3人の息子に分けたんです。ムクルの父親も75,000ルピー払うことになっていました。そこで、私たちは家を出ることに決めました。9,000ルピー貯めるのに、必死で働きました。そのお金で私たちは3ロパニ[ii]の土地を買い、私の叔父が小さな家を建てるのを手伝いました。しかし、不幸なことに、11年後に地主が土地を奪い返したのです。それから、私たちは他人の小屋に住まわせてもらうためにお願いしなければならなかったのです」
ムクルの父親は、このいかさま地主から土地を返してもらうためにマオイストの助けを借りようとしました。しかし、彼らは助ける代わりに、父親にマオイストに加わるよう強制しました。これが、彼らが村を去った理由です。
カトマンズで、ムクルの両親はパシュパティ開発基金[iii]の事務所の労働者として働いています。ある日、ムクルの母親はシャンティ・セワ学校の先生に出会いました。彼女は先生に話を聞いてもらいました。その先生は彼女に子どもをシャンティ・セワ・グリハに送るようすすめました。そのおかげで、彼らはシャンティ・セワ学校で勉強する機会を得たのです。
学校では、サタン・バンダリがムクルの親友になりました。ムクルは言います。「サタンが家族を思い出して泣きはじめた時、僕もすごく悲しくなって、涙がこぼれました。でも、僕たちほど幸運な子どもはそういないんだよ、と言って彼をなぐさめました。僕たちはこんなにきれいなところで勉強する機会を与えられたんです。でも、多くの子どもたちは村の普通の学校で勉強する機会さえないんです」
彼なりの方法で、ムクルは心に傷を負った他の友達も慰めます。ムクルはとても賢い子ですが、まだ将来何になりたいかは分かりません。
ムクルはよく彼の村と友達を思い出しますが、それでも村の生活よりカトマンズの生活がずっと気に入っています。ここでは、マオイストを怖がる必要がありませんから。彼は「僕は村には戻りたくない」と言います。
ムクルの母親は言います。「雨宿りできる小屋さえあれば十分です。私たち家族は、この小さい部屋に毎月1,300ルピー払っています。村にいたなら、これは払わなくていいお金です。でも、村ではほとんど仕事がなく、あったとしても日に30ルピーしか稼げませんでした。でも、ここでは私は日に100ルピーは稼げます。村の人たちは、私たちを助けて村に帰れるようにしたいと言っていますが、今の私たちは戻りたくないです。私は、子どもたちにここでなんとかして教育を受けさせます」
ムクルは「僕たちの学校の誕生日はいつなの?」と聞きました。学校で友達の誕生日を祝うことは彼にとってはまったく新しいことでした。村では、誰も誕生日を祝いませんでした。
ムクルの母親は私たちにお茶を飲むようすすめてくれました。その時、ムクルのお兄さんがカップを割ってしまいました。母親は言いました。「コップが割れたって構いません。ただ私は、子ども達の幸運が壊れないように神に祈るだけです」
3. 結び
マオイストと政府の11年間にわたる紛争の間、多くの子どもたちは悲惨な生活を送りました。カトマンズにあるシャンティ・セワ学校の生徒たちの生い立ちを聞けば、子どもたちがどのような影響を受けたかわかるでしょう。
紛争は何千もの子どもが教育を受ける機会を失わせました。多くの子は、勉強できる場所を探して都会に移り住みました。中には家族と離れ、ひとり寂しく暮らす子どももいました。また、ひとりで田舎を離れた子の中には、勉強の代わりに家事手伝いを強要された子どももいました。両軍の兵士の性的虐待の被害者となった子もいます。
国軍は、マオイストの倍の人を殺しました。一方マオイストは、村人たちに食事を提供するよう強制したり、寄付や彼らのプログラムへの参加を強要しました。彼らのそのような行為が、多くの人々を村から離れざるを得ない状況へと追い込みました。いくつかの村では男性がほとんどいなくなり、妻たちが悲惨な状況で生活しています。都市へ移ることは、生活が苦しくなったように見受けられることもあります。一家族7人もが小さな部屋に窮屈な思いで暮らしていることもあります。
生徒は、彼らの先生や親戚が虐待されるのを見て、おびえました。多くの生徒が、そのようなトラウマを抱えて都市へ移って来ました。現在でも彼らはあまり勉強に集中することができないでいます。このような生徒たちは適切な精神的ケアを受けていません。不幸なことに、何人かの子どもは勉強を再開する代わりに、隣人にも見て見ぬ振りをされ、精神的・肉体的な虐待の危険の下、働かされています。
多くの生徒が、都会で教育を受けるために孤児と偽って都会に送られました。政府がそれを黙認していたことも、記録からわかります。しかし、学校側も生徒の入学を許可する際に、名前や住所など必要な情報を入手するべきです。そして、学校は記録を紙面で残すべきです。
孤児にはカウンセリングが必要であり、様々な理由で移住した子どもたちには教育が必要です。私たちは、小さい子どもが労働力として働かされているのを見て見ぬ振りをするのでなく、本当はその子たちに、彼らの持っている権利について教えてあげるべきなのです。
何人かの子どもが人身売買されたことも明らかになっています。家族は、子どもたちが勉強を続けるために都会に連れて行ってもらうのだと信じ込まされ、子どもたちが売られていたこともあります。両親は子どもをこのような「保護者」に預ける前に、どんな企みがあるのか見極めなければなりません。
停戦後は、両軍とも合意した行動規範に従うことが義務づけられています。子どもはいかなる政治的集会にも参加すべきではありません。私たちは、「子どもをピースゾーンに」という考えを広めるべきです。
マオイストと政府の11年間にわたる紛争の間、多くの子どもたちは悲惨な生活を送りました。カトマンズにあるシャンティ・セワ学校の生徒たちの生い立ちを聞けば、子どもたちがどのような影響を受けたかわかるでしょう。
紛争は何千もの子どもが教育を受ける機会を失わせました。多くの子は、勉強できる場所を探して都会に移り住みました。中には家族と離れ、ひとり寂しく暮らす子どももいました。また、ひとりで田舎を離れた子の中には、勉強の代わりに家事手伝いを強要された子どももいました。両軍の兵士の性的虐待の被害者となった子もいます。
国軍は、マオイストの倍の人を殺しました。一方マオイストは、村人たちに食事を提供するよう強制したり、寄付や彼らのプログラムへの参加を強要しました。彼らのそのような行為が、多くの人々を村から離れざるを得ない状況へと追い込みました。いくつかの村では男性がほとんどいなくなり、妻たちが悲惨な状況で生活しています。都市へ移ることは、生活が苦しくなったように見受けられることもあります。一家族7人もが小さな部屋に窮屈な思いで暮らしていることもあります。
生徒は、彼らの先生や親戚が虐待されるのを見て、おびえました。多くの生徒が、そのようなトラウマを抱えて都市へ移って来ました。現在でも彼らはあまり勉強に集中することができないでいます。このような生徒たちは適切な精神的ケアを受けていません。不幸なことに、何人かの子どもは勉強を再開する代わりに、隣人にも見て見ぬ振りをされ、精神的・肉体的な虐待の危険の下、働かされています。
多くの生徒が、都会で教育を受けるために孤児と偽って都会に送られました。政府がそれを黙認していたことも、記録からわかります。しかし、学校側も生徒の入学を許可する際に、名前や住所など必要な情報を入手するべきです。そして、学校は記録を紙面で残すべきです。
孤児にはカウンセリングが必要であり、様々な理由で移住した子どもたちには教育が必要です。私たちは、小さい子どもが労働力として働かされているのを見て見ぬ振りをするのでなく、本当はその子たちに、彼らの持っている権利について教えてあげるべきなのです。
何人かの子どもが人身売買されたことも明らかになっています。家族は、子どもたちが勉強を続けるために都会に連れて行ってもらうのだと信じ込まされ、子どもたちが売られていたこともあります。両親は子どもをこのような「保護者」に預ける前に、どんな企みがあるのか見極めなければなりません。
停戦後は、両軍とも合意した行動規範に従うことが義務づけられています。子どもはいかなる政治的集会にも参加すべきではありません。私たちは、「子どもをピースゾーンに」という考えを広めるべきです。

シャンティ・セワ・グリハについて
シャンティ・セワ・グリハは、カトマンズのゴウシャラにあるNGOです。ハンセン病患者、その他の貧乏層、身寄りのない人、障害者、孤児を対象に、1992年に設立されました。現在に至るまで、農村ではハンセン病は神のたたりだと考えられているため、ハンセン病患者は社会から抑圧され、受け入れられていません。前世からのたたりを持ってきたと信じられているため、ハンセン病患者は他の人に触ったり近寄ったりもできません。ハンセン病患者が、侮辱や嫌悪、差別に耐えられず自殺をした例は何件もあります。
ハンセン病は、所定の薬を定期的に使うことで治療することの可能な一般的な病気です。ハンセン病を患っている人々も、他の人々と同様、普通の生活を送ることができるのです。このような考えを広めるため、クリシュナ・グルンさんと医師のラメショール・マン・シンさんが、シャンティ・セワ・グリハを設立しました。ドイツ人のマリアナ・ゴシュプリブも協力しました。
ここでは、ハンセン病患者だけでなく障害者も支援しています。シャンティ・セワ・グリハは生活する場所を提供したり、自分の家を出る他なかった人々に仕事を与えます。
およそ1,200人の農村出身者がシャンティ・セワ・グリハの助けで生活を立て直すことができました。その中には、インド人やバングラデシュ人も含まれています。シャンティ・セワ・グリハでは、支援は信仰の一部であり、必要な人に与えられなければならないと信じられています。
シャンティ・セワ・グリハでは、患者の独立心を促し、自尊心を高めるために、様々な種類の職業訓練の機会を与えています。彼らはいろいろなものを生産しています。例えば手漉き紙、宝石、花輪、ダッカ織[1]の帽子、カーペットや家具、有機栽培の野菜やはちみつも作ります。これらはネパールの国内外で販売されています。
シャンティ・セワ・グリハには自前の診療所があり、そこでは無料の検診を行っています。
シャンティ・セワ・グリハは、人々に現金を与えるよりも、自信をつけてもらうほうが大切だと信じています。団体の使命は、貧しい人の生計を助けることです。また子どもたちを独り立ちさせることが目的です。
シャンティ・セワ・グリハのチャイルド・ケア・センターはガウシャラ[2]にあり、65人の子どもがいます。11人の生徒は障害者学級に出席しています。すべての子どもから教育を奪うべきではないと信じ、シャンティ・セワ・グリハのソーシャル・ワーカーがブダニルカンタにシャンティ・セワ学校を建てました。そこにはクリニックもあります。ティルガンガには近代的な病院も建てました。
シャンティ・セワ・グリハの哲学は、人々の心が平穏な時だけ、その家族にも平和が訪れ、平和はひとつの家族から他の家族に伝わり、そこからもっと大きいグループへ、そして社会へ、最後には国全体が平和になるというものです。 シャンティ・セワ・グリハ は、すべての人がこうした子どもやその家族を支えるように訴えます。 そういう支えがあって、彼らも簡素ながらも安全な環境で生活することができるのです。
シャンティ・セワ学校
概要
シャンティ・セワ学校は1998年にシャンティ・セワ・グリハによってカトマンズのブダニルカンタに設立されました。最初はハンセン病患者だけの学校でしたが、現在は紛争被害者の子どもたちも入学できます。
学校はブダニルカンタから徒歩25分の距離にあります。学校は木々と緑に囲まれていて、とても静かで美しい環境にあります。新しくやってきた生徒たちは、この環境を見ると、自分たちの抱えている問題を忘れてしまいそうです。
(2006年)現在、88名(男女同数)がこの学校で学んでいます。託児所もあり、14名の乳児が来ています。障害者のクラスもあり、8名の生徒がいます。学校はハンセン病患者のために建てられましたが、現在、ハンセン病患者の生徒は10名だけです。その他17名が経済的に貧しい家庭の子どもたち、13名が紛争被害者です。生徒の中には6名の障害をもつ子どもと、家族の問題を抱えた子ども9名、孤児5名も含まれています。教師は7人です。
生徒の多くは遠隔地出身です。出身郡は、シンドゥパルチョーク、カブレパランチョーク、フムラ、ムグ、ヌワコット、ジャナクプール、ドラカ、マクワンプル、バラ、バグルン、ナワルパラシ、チトワン、サルラヒ、ダーディン、コタン、ボジプール、ソルクンブなどです。また、インド出身の子どももいます。
代表であるクリシュナ・グルンさんによると、経済的に困難な状況にある子どもたち、もしくは/同時に紛争被害者である子どもたちという順で入学できる優先順位が上がります。それぞれ入学を希望する事情を説明する必要があります。
クリシュナ・グルンさんは学校を環境に負荷を与えない空間にしようと考えました。そういうわけで、子どもたちもポリエステルの鞄ではなく、シンプルな布の鞄を使っていますす。計36名のハンセン病患者とその家族が構内に住んでいます。構内で暮らす人は約100名に及びます。シャンティ・セワ・グリハでは学校の生徒全員に、太陽熱パネルを使って料理をした給食を出しています。
鉛筆、ペン、本、ノートやその他の文房具と制服は無料で生徒に供与されます。その資金は外国援助機関が出してくれています。シャンティ・セワ学校の教師であるサビン・カドカさんは「子どもたちに関心をもつ外国の人たちが、学校を支援するために最善を尽くしてくれています」と語ります。
教育方針
2001年からウォルドルフ教育[3]を新しい教育方針として導入しました。これは、実践的な知識が本物の知識を導くという考え方です。シャンティ・セワ・グリハでは、生徒が平穏な気持ちでいられる場合のみこれが達成できると信じています。したがって、教師の義務は平穏な環境で教育を与えられるようにすることです。ウォルドルフ教育は、適切な知識を分け合うには、神聖な魂、冷静な心、そして教師と生徒の間の強い繋がりが不可欠だと強調しています。これはシャンティ・セワ学校の幼稚園か6年生までのクラスで実践されています。
毎日授業が始まる前に、教師と生徒はお互いを励ますあいさつをし、新しい1日の始まりに感謝します。子どもたちは季節の素材を使って教室を飾り、自分たちの世界を作ります。
シャンティ・セワ学校で教える知識は、他の学校では得られません。各科目は実践的な方法で教えられます。例えば、もし題材が灌漑なら、子どもたちは水路を造って、畑に小麦を撒き、それが育つために水がどんな働きをするのか観察します。
シャンティ・セワ・グリハは、多くの人が人工的な物をめぐって争い、快楽を求める傾向があると思います。それゆえに、シャンティ・セワ・グリハでは生徒たちに、人工的な物についての知識と同時に、自然で精神的な世界についても教えます。教師は人間と魂、すべての生き物、動物、植物と人間の関わりについて教えます。黒人も、白人も、仏教徒も、ヒンドゥ教徒も、キリスト教徒も、みな同じ人間なんだと教えます。そして何より、私たちは神の創造物です。詩や物語を参照しながら、人生は美しいものだと強調します。
シャンティ・セワ学校の子どもたちは、教科書や講義から学ぶだけでなく、実際に見て、感じて、やってみる、実践的な方法からも学びます。このように直接経験して学んだことは、ずっと忘れないものです。生徒は、頭に知識を詰め込むだけなく、精神修養もします。それによって自分のもつ可能性に気づくのです。
シャンティ・セワ学校の教師はインドやネパールの様々な所で研修を受けました。彼らは絵、描写、粘土細工も教えます。子どもたちはダンス、歌、演劇を学び、そしてこれらの技能を他の科目を学ぶ時に生かすこともあります。
教師のひとりケシャブ・リマルさんは、以前はカトマンズの全寮制学校で教えていました。彼はその学校とシャンティ・セワ学校の間の多くの違いを見つけ、これからは教室で生徒に罰を与えるための棒を持ち歩く必要はないのだと感じました。彼は、生徒が彼の指導を理解することができない場合は、彼らの興味をそそるような、やさしい別の方法で教えるそうです。生徒は、彼らの興味に一致した方法で習うと、自分たちの間違いも簡単に発見できるようになります。
シャンティ・セワ学校は、ダサインやティハール、シバラトリなどのお祭りをお祝いします。生徒たちはそれを通してネパールの様々な伝統を学びます。
卒業生のその後
ガネッシュ・プラダンとサンジュ・マジはシャンティ・セワ学校で6年生まで勉強し、現在はカトマンズにある(別の私立学校)サンライト・スクールに通っています。彼らの学費は、シャンティ・セワ・グリハが払っています。彼らはシャンティ・セワ学校での勉強をとても楽しんだと言っています。「僕たちが新しい学校に入った時、僕たちは教科書の中の知識は他の皆より少ないと感じたけど、教科書以外の知識は、他の生徒たちより多いことがわかりました。シャンティ・セワ学校では、先生たちは生徒のニーズに合わせて教えてくれました。でも、今、僕たちは勉強と宿題に追われています。僕たちは英語だけで話さなくてはいけません。もしネパール語を使ったら、罰を受けなくてはいけません。シャンティ・セワ学校では、一度も罰を受けたことはありませんでした」
17歳のスマン・シグデルは、シャンティ・セワ学校で4年間過ごしました。彼は、その前は路上で生活していました。彼は、学校が本当の家族のように愛とケアを与えてくれたと言います。彼はまた、そこで多くのことが学べたことを喜んでいます。現在通っている学校とはずいぶん色々なことが違うそうです。「僕たちは一度も直接知識を学ぶことはありませんでした。もっと、遊びや絵、スケッチや楽しいことをしながら学びました。このような環境は、他の学校にはないものだと思います」
スマンは、現在の学校の規則や規定はとても厳しいと言います。生徒はたくさんの宿題をしなければならず、詰め込み型の勉強をしなければなりません。生徒たちは罰が怖いので、よく予習をします。シャンティ・セワ学校では、子どもたちは友達のように扱われていました。彼は、シャンティ・セワ学校のきれいに飾られた教室や、毎週のように近くの村や森へ出かけていった日のことが忘れられません。
参考文献
Community Study and Welfare Centre (CSWC). A Decade of Disaster, Human and Physical cost of Nepal conflict, 1996-2005, research report. Kathmandu.
INSEC. 2007. Human Rights Year Book 2007.
Shrestha, SK. 2004. Print Media, Coverage on Children’s Issues: A Report. Hatemalo Sanchar, Lalitpur.
नेपाल शान्ति संस्था। आन्तरिक व्यवस्थापनसम्बन्धी वकालत पुस्तिका २००५। ललितपुर।
नेपाल साप्ताहिक। २०६३ असोज ८।
प्रधान, गौरी। २०६० माघ। युद्धको भुमरीमा बालबालिकाहरू। सिविन, काठमाडौँ।
प्राची द्वैमासिक। २०६३ साउन।
हिमाल पाक्षिक। २०६३ कार्तिक १६-३०।
翻訳:木戸稔恵、監訳・訳注・編集:田中雅子
目次出版によせて
推薦文-経験と事実の要約
謝辞
まえがき
1. ネパールのストリート・チルドレン
1-1. 概要
1-2. 特徴
1-3. 生計、ごみ問題との関連
1-4. 民族、カースト、階級
1-5. 紛争の影響
1-6. 場所によるストリート・チルドレンの違い-カトマンズとラリトプルの比較から
1-7. 将来の夢
1-8. ストリート・チルドレンのその後
2.Jagaran Forum Nepal (JAFON)
2-1.設立まで
2-2.『僕らの家』
3.路上生活をした青少年たちの語り
3-1.誘拐を恐れて アミト(17歳)
3-2.学校にやってきたマオイスト ビラジ(16歳)
3-3.路上にしか僕の居場所がない シュリ・クリシュナ(22歳)
3-4.マオイストと国軍の板ばさみ モテ(18歳)
3-5.母に疎まれて ラジェス(13歳)
付表:ラリトプルのストリート・チルドレン

出版によせて
この本には、路上で暮らす子どもたちの日々の暮らしと彼らの夢が、ありのままに記されています。きっと路上で暮らす子どもたちに関心のある方々の心に触れることと思います。子どもたち自身が語る生い立ちのほか、家族を離れて路上で暮らすようになった理由、将来の夢、また子どもたちの多様さが聞き取りに基づいて紹介されています。ストリート・チルドレンのための活動にあたっては、かつてストリート・チルドレンだった青年や今もストリート・チルドレンである子どもたちとの協働が不可欠ですが、ここで紹介されている情報もまた、こうした活動にとって役立つに違いありません。
どんな調査も、社会が変化する方向性を示すことを本来の目的としているはずです。しかし、社会変化を目指す団体がその結果を分析し、導かれた結論を実際の活動に取り入れなければ、調査が役に立ったとは言えません。「開発途上国」と呼ばれる私たちの国では、調査によって裏付けられた結論から実践へとつなげることは、まだ一般的ではありません。それゆえ、私たちはこの本が示唆することを活動へと結びつける責任があります。ストリート・チルドレンの実態をあらわにした著者の努力を評価し、本書の出版が成功することを祈ります。
元 中央児童福祉委員会[i]委員
現 セーブ・ザ・チルドレン・ノルウェー・ネパール事務所
子どもの権利保護アドバイザー
シバ・プラサード・ポウデル
推薦文-経験と事実の要約
私がこの本の著者であるレワット・ラジ・ティミルシナさんを紹介された時、彼はまだ若い青年でしたが、年のわりに落ち着いていました。彼自身のストリート・チルドレンとしての人生経験が、彼を分別ある大人にさせたのでしょう。ともに活動するようになり、彼を支える人たちとも知り合う機会を得ました。私たちの国が、レワットさんのような青年たちの勇気と情熱、その献身的な取り組みを結集させることができていたなら、大きな変化を起こしていたでしょう。
路上で暮らす子どもたちに対してレワットさんが続けてきた努力と決意は生半可なものではありません。彼の判断はいずれも彼自身の経験から生まれたものです。レワットさんの最初の著作『路上の人生』ではストリート・チルドレンの生活と彼らを取り巻く者のやりとりが描かれています。本書はさらに深く、子どもたちの隠された事実を明らかにしています。
この本はストリート・チルドレンのために活動する団体が、効果的に事業を計画し、実施するためのヒントを与えています。著者が問いかけているのはとても単純なことです。真実を知ってほしいということだけです。彼の問いが学問的な命題のようであったなら、子どもたちに再び苦しい体験をさせていたかもしれません。この本がそのような形をとっていないことを、私はうれしく思います。ここに込められたメッセージが力強いのは、これまでにも筆者がストリート・チルドレンとしての体験を本や報告書に書いたことがあるからというだけではなく、日夜問わず彼らの生活がよりよくなるために活動を続けているからです。この本では著者自身の経験も綴られています。これはストリート・チルドレンたちの経験と事実の要約なのです。
元 Friends of Needy Children (FNC)[ii]
現 The ISIS Foundation[iii] ネパール事務所長
プラルハード・クマール・ダカル
謝辞
Jagaran Forum Nepal (JAFON) がストリート・チルドレンについて広く社会に知ってもらうための本を出版するにあたり、「平和のための市民による紛争の記録プロジェクト」の一環として支援をして下さった庭野平和財団にまず感謝の気持ちを伝えます。またこの本の舞台である『僕らの家』の運営資金を援助して下さっているシャプラニール=市民による海外協力の会[iv]にも感謝しています。これまで繰り返し助言をして下さったハリ・クリシュナ・ダンゴルさん、クマール・ライさん、ゴパル・ゴラ・チャンドラさん、ラジュ・マハルジャンさん、ラジュ・ラマさん、ビシャル・ラマさんにもお礼を言いたいと思います。
私たちに出版を熱心に勧めてくれた「平和のための市民による紛争の記録プロジェクト」のコーディネーター田中雅子さんにも心から感謝しています。未だ完璧な形とは言えませんが、この本は彼女の夢の一つを実現しようとしたものです。
当初、この本の出版にあたっては路上で暮らす子どもたちの生活をとらえた写真を載せる予定でいましたが、国内・国外での写真の収集を試みたものの、さまざまな理由でネパール語版に写真を掲載することができませんでした。計画通りにはいかなかったものの、カメラを提供して下さったネパールの、また外国にお住まいの支援者のみなさんにお礼を申し上げます。
準備段階から関わったふたりのストリート・チルドレンと、生い立ちの聞き取りや写真の撮影を了解してくれたすべての路上で生活する子どもたちと青年たちにも心から感謝しています。出版までの作業は容易ではありませんでしたが、多くの困難を乗り越えて出版することができたことはこの上ない喜びです。最後に、本が完成するまでの過程を支援して下さったすべてのみなさまに感謝を言葉を捧げます。
Jagaran Forum Nepal (JAFON)代表
レワット・ラジ・ティミルシナ
まえがき
この本の取材には二ヶ月ほどかかりました。多くのストリート・チルドレンが協力してくれたおかげで何とかまとめることができたものの、振り返れば、良い思い出も、悪い思い出もあります。読者のみなさんにもその一部をご紹介しましょう。
生い立ちを尋ねるために子どもたちの後を文字どおり追いかけねばならないことがありました。ある時は彼らが話をするのを嫌がり、包み隠さず事実を話してもらうには根気が必要でした。しかし、聞き手が路上生活の経験者だったことで、何とかやりとげることができました。路上生活の光と陰の両面を盛り込み、子どもたちの生活を記録することは容易ではありませんでした。写真を撮るために真夜中に出かけたこともありました。彼らの多くはシンナー中毒[v]にかかっており、意識がもうろうとしている彼らに写真を撮ることの承諾を得るのは難しいことでした。
多くの援助団体が昼間にストリート・チルドレンの写真を撮っていますが、自分の団体の広報や財源確保に利用するだけで、子どもたちに利益が還元されることがないことに、彼らは不満を持っています。そこで、我々の場合は、路上生活の経験がある者だけが撮影すること、写真が誤用されることはなく、子どもたちのためだけに使われることを約束した上でようやく了解を得ました。写真を撮らせてもらうために、現金やごちそう、服を与えたり、将来見返りとして何かしてあげると約束する団体もあるので、子どもたちの中にはJAFONにも同じような要求をする者がいました。
私たちは子どもたちのさまざまな表情を写真にのこしたいと考えました。そこで、彼ら自身が好きな時に、仲間同士で写真が撮れるよう、30人のストリート・チルドレンと青年たちを対象に、カメラの扱いを教える「写真教室」を開きました。参加者の中から熱心な10人をまず選び、さらに7人にカメラを渡し、仲間の一日を撮影してもらいました。14、15歳のストリート・チルドレンがマオイストの行事のために旗を作っている現場に出くわした者がいましたが、マオイストが撮影を許しませんでした。
準備段階から関わったふたりのストリート・チルドレンは、こうした過程において、筆者、編集者、撮影指導をしてくれた写真家、経済的支援をしくれた団体と同等の貢献をしてくれました。
この本はネパールのストリート・チルドレンを取り巻く状況を10年前と比較する際に役立ちます。10年に及ぶ紛争が彼らの暮らしにどんな影響を与えたか、国家とマオイストの紛争によって彼らが路上で暮らさざるを得なくなる引き金要因とは何か、現在のストリート・チルドレンはどんな夢や希望を抱いているのか、彼らは朝から夜までどのように一日を過ごしているのか、政治デモや交通ストライキ、外出禁止令が出た時に彼らはどう対処しているのかといった疑問に、本書は答えようとしました。この本はストリート・チルドレンのために活動するすべての団体にとって役立つことでしょう。
[i] Central Child Welfare Board (CCWB) は、ネパール政府、女性・子ども・社会福祉省内で子どもの権利の保護を目的に設置された委員会。http://ccwb.gov.np/
[ii] Friends of Needy Children (FNC)は、1996年に設立されたネパールのNGOで、子どもや青年が自分の権利を享受できる社会をつくることを目指している。http://www.fncnepal.org/
[iii] The ISIS Foundationは、1997年に設立されたアメリカのNGOで、ネパールとウガンダにおいて子どもの保健と教育分野の支援をしている。ネパール国内ではカトマンズのほか、カルナリ地方のフムラ郡で活動している。http://www.isis.bm/
[iv] 1972年に設立された日本のNGO。ネパールのほかバングラデシュとインドで活動している。http://www.shaplaneer.org/
[v] 靴底を修理する接着剤など手軽に入手できるものを利用している。ストリート・チルドレンのシンナー中毒の実態についてはCWIN(2002)の調査結果を参照のこと。
この本には、路上で暮らす子どもたちの日々の暮らしと彼らの夢が、ありのままに記されています。きっと路上で暮らす子どもたちに関心のある方々の心に触れることと思います。子どもたち自身が語る生い立ちのほか、家族を離れて路上で暮らすようになった理由、将来の夢、また子どもたちの多様さが聞き取りに基づいて紹介されています。ストリート・チルドレンのための活動にあたっては、かつてストリート・チルドレンだった青年や今もストリート・チルドレンである子どもたちとの協働が不可欠ですが、ここで紹介されている情報もまた、こうした活動にとって役立つに違いありません。
どんな調査も、社会が変化する方向性を示すことを本来の目的としているはずです。しかし、社会変化を目指す団体がその結果を分析し、導かれた結論を実際の活動に取り入れなければ、調査が役に立ったとは言えません。「開発途上国」と呼ばれる私たちの国では、調査によって裏付けられた結論から実践へとつなげることは、まだ一般的ではありません。それゆえ、私たちはこの本が示唆することを活動へと結びつける責任があります。ストリート・チルドレンの実態をあらわにした著者の努力を評価し、本書の出版が成功することを祈ります。
元 中央児童福祉委員会[i]委員
現 セーブ・ザ・チルドレン・ノルウェー・ネパール事務所
子どもの権利保護アドバイザー
シバ・プラサード・ポウデル
推薦文-経験と事実の要約
私がこの本の著者であるレワット・ラジ・ティミルシナさんを紹介された時、彼はまだ若い青年でしたが、年のわりに落ち着いていました。彼自身のストリート・チルドレンとしての人生経験が、彼を分別ある大人にさせたのでしょう。ともに活動するようになり、彼を支える人たちとも知り合う機会を得ました。私たちの国が、レワットさんのような青年たちの勇気と情熱、その献身的な取り組みを結集させることができていたなら、大きな変化を起こしていたでしょう。
路上で暮らす子どもたちに対してレワットさんが続けてきた努力と決意は生半可なものではありません。彼の判断はいずれも彼自身の経験から生まれたものです。レワットさんの最初の著作『路上の人生』ではストリート・チルドレンの生活と彼らを取り巻く者のやりとりが描かれています。本書はさらに深く、子どもたちの隠された事実を明らかにしています。
この本はストリート・チルドレンのために活動する団体が、効果的に事業を計画し、実施するためのヒントを与えています。著者が問いかけているのはとても単純なことです。真実を知ってほしいということだけです。彼の問いが学問的な命題のようであったなら、子どもたちに再び苦しい体験をさせていたかもしれません。この本がそのような形をとっていないことを、私はうれしく思います。ここに込められたメッセージが力強いのは、これまでにも筆者がストリート・チルドレンとしての体験を本や報告書に書いたことがあるからというだけではなく、日夜問わず彼らの生活がよりよくなるために活動を続けているからです。この本では著者自身の経験も綴られています。これはストリート・チルドレンたちの経験と事実の要約なのです。
元 Friends of Needy Children (FNC)[ii]
現 The ISIS Foundation[iii] ネパール事務所長
プラルハード・クマール・ダカル
謝辞
Jagaran Forum Nepal (JAFON) がストリート・チルドレンについて広く社会に知ってもらうための本を出版するにあたり、「平和のための市民による紛争の記録プロジェクト」の一環として支援をして下さった庭野平和財団にまず感謝の気持ちを伝えます。またこの本の舞台である『僕らの家』の運営資金を援助して下さっているシャプラニール=市民による海外協力の会[iv]にも感謝しています。これまで繰り返し助言をして下さったハリ・クリシュナ・ダンゴルさん、クマール・ライさん、ゴパル・ゴラ・チャンドラさん、ラジュ・マハルジャンさん、ラジュ・ラマさん、ビシャル・ラマさんにもお礼を言いたいと思います。
私たちに出版を熱心に勧めてくれた「平和のための市民による紛争の記録プロジェクト」のコーディネーター田中雅子さんにも心から感謝しています。未だ完璧な形とは言えませんが、この本は彼女の夢の一つを実現しようとしたものです。
当初、この本の出版にあたっては路上で暮らす子どもたちの生活をとらえた写真を載せる予定でいましたが、国内・国外での写真の収集を試みたものの、さまざまな理由でネパール語版に写真を掲載することができませんでした。計画通りにはいかなかったものの、カメラを提供して下さったネパールの、また外国にお住まいの支援者のみなさんにお礼を申し上げます。
準備段階から関わったふたりのストリート・チルドレンと、生い立ちの聞き取りや写真の撮影を了解してくれたすべての路上で生活する子どもたちと青年たちにも心から感謝しています。出版までの作業は容易ではありませんでしたが、多くの困難を乗り越えて出版することができたことはこの上ない喜びです。最後に、本が完成するまでの過程を支援して下さったすべてのみなさまに感謝を言葉を捧げます。
Jagaran Forum Nepal (JAFON)代表
レワット・ラジ・ティミルシナ
まえがき
この本の取材には二ヶ月ほどかかりました。多くのストリート・チルドレンが協力してくれたおかげで何とかまとめることができたものの、振り返れば、良い思い出も、悪い思い出もあります。読者のみなさんにもその一部をご紹介しましょう。
生い立ちを尋ねるために子どもたちの後を文字どおり追いかけねばならないことがありました。ある時は彼らが話をするのを嫌がり、包み隠さず事実を話してもらうには根気が必要でした。しかし、聞き手が路上生活の経験者だったことで、何とかやりとげることができました。路上生活の光と陰の両面を盛り込み、子どもたちの生活を記録することは容易ではありませんでした。写真を撮るために真夜中に出かけたこともありました。彼らの多くはシンナー中毒[v]にかかっており、意識がもうろうとしている彼らに写真を撮ることの承諾を得るのは難しいことでした。
多くの援助団体が昼間にストリート・チルドレンの写真を撮っていますが、自分の団体の広報や財源確保に利用するだけで、子どもたちに利益が還元されることがないことに、彼らは不満を持っています。そこで、我々の場合は、路上生活の経験がある者だけが撮影すること、写真が誤用されることはなく、子どもたちのためだけに使われることを約束した上でようやく了解を得ました。写真を撮らせてもらうために、現金やごちそう、服を与えたり、将来見返りとして何かしてあげると約束する団体もあるので、子どもたちの中にはJAFONにも同じような要求をする者がいました。
私たちは子どもたちのさまざまな表情を写真にのこしたいと考えました。そこで、彼ら自身が好きな時に、仲間同士で写真が撮れるよう、30人のストリート・チルドレンと青年たちを対象に、カメラの扱いを教える「写真教室」を開きました。参加者の中から熱心な10人をまず選び、さらに7人にカメラを渡し、仲間の一日を撮影してもらいました。14、15歳のストリート・チルドレンがマオイストの行事のために旗を作っている現場に出くわした者がいましたが、マオイストが撮影を許しませんでした。
準備段階から関わったふたりのストリート・チルドレンは、こうした過程において、筆者、編集者、撮影指導をしてくれた写真家、経済的支援をしくれた団体と同等の貢献をしてくれました。
この本はネパールのストリート・チルドレンを取り巻く状況を10年前と比較する際に役立ちます。10年に及ぶ紛争が彼らの暮らしにどんな影響を与えたか、国家とマオイストの紛争によって彼らが路上で暮らさざるを得なくなる引き金要因とは何か、現在のストリート・チルドレンはどんな夢や希望を抱いているのか、彼らは朝から夜までどのように一日を過ごしているのか、政治デモや交通ストライキ、外出禁止令が出た時に彼らはどう対処しているのかといった疑問に、本書は答えようとしました。この本はストリート・チルドレンのために活動するすべての団体にとって役立つことでしょう。
[i] Central Child Welfare Board (CCWB) は、ネパール政府、女性・子ども・社会福祉省内で子どもの権利の保護を目的に設置された委員会。http://ccwb.gov.np/
[ii] Friends of Needy Children (FNC)は、1996年に設立されたネパールのNGOで、子どもや青年が自分の権利を享受できる社会をつくることを目指している。http://www.fncnepal.org/
[iii] The ISIS Foundationは、1997年に設立されたアメリカのNGOで、ネパールとウガンダにおいて子どもの保健と教育分野の支援をしている。ネパール国内ではカトマンズのほか、カルナリ地方のフムラ郡で活動している。http://www.isis.bm/
[iv] 1972年に設立された日本のNGO。ネパールのほかバングラデシュとインドで活動している。http://www.shaplaneer.org/
[v] 靴底を修理する接着剤など手軽に入手できるものを利用している。ストリート・チルドレンのシンナー中毒の実態についてはCWIN(2002)の調査結果を参照のこと。
1. ネパールのストリート・チルドレン1-1. 概要
ネパールのストリート・チルドレンの歴史はよくわかっていません。いつどんな状況で路上で暮らす子どもが現れたのか、どの団体にも記録が残っていません。彼らに関する詳しい研究がない理由は、具体的な資料が得られにくいからです。ストリート・チルドレンはなぜネパール語で「カテ」と呼ばれるのか、どうして路上で生活するようになったのか、誰が最初に彼らへの支援を始めたのか・・・・。多くの疑問がわいてきますが、長くストリート・チルドレンのために活動してきた団体にさえ、これらの質問には答えられません。
過去の話はともかく、多くの団体は子どもたちの現状すら把握できていません。2002年に出版されたCWIN[i]の報告書によると、ネパール全体でのストリート・チルドレンの人口は約5,000人でした。その後新たな調査は行われておらず、各団体ごとに異なった統計を出しており、どの数字を信用すればよいか判断しかねます。前述の報告書によれば、当時カトマンズでは約500~600人の子どもたちが路上にいました。他団体の話[ii]では、ポカラに250人[iii]、ダランとビラトナガルに200人ずつ[iv]、ナラヤンガート、ブトワルに200人ずつ[v]の子どもたちがいると言います。
記述された歴史がないとは言え、25年ほど前からネパールの子どもたちが路上生活を送り始めたと推察できます。その頃、国内外のさまざまな団体がそういう子どもたちについて注目し始めたからです。このように20年以上にわたって、外国の団体がネパールの団体とともにストリート・チルドレンのために活動しています。今では、ストリート・チルドレンと関わる団体が増えましたが、その成果は必ずしもかんばしくありません。その多くが子どもたちにとって何が必要なのか十分把握しないで仕事を始めているように見えます。これらの団体は子どもたちが本当に望んでいることを未だ知らないままでいるようです。
この20年間で、ストリート・チルドレンのためという名目で、30カロール・ルピー[vi]相当の援助金が使われたと推測されますが、問題は解決していません。8~10年前もネパールには5,000人ほどのストリート・チルドレンがいました。過去10年間で彼らのために活動する団体の数が3~4倍に増えたので、ストリート・チルドレンの人数は減っていかなければならないはずですが、現在も人数に変わりはないと聞きます。活動団体の増加につれて援助額も増えているにも関わらず、効果が現れていないのでしょうか。この事実は、ストリート・チルドレンのための活動が未だ有効でないということを物語っています。あるいはこれらの団体は8~10年前の統計を未だに使い続けているのでしょうか。
数年前に中央児童福祉委員会がJAFONを含む団体やストリート・チルドレン自身の協力を得て調査を試みました。カトマンズのストリート・チルドレンの数を740人とする統計を出したものの、それも不十分な調査でした[vii]。ストリート・チルドレンの増減を断定するのは、大変難しいことなのです。
私たちが、ストリート・チルドレンのために活動する国内外の団体に訴えたいのは、まず適切で長期的な計画が必要だと言うことです。現在すでに実施している方針と事業計画の修正も必要でしょう。個人にも、団体にも、また国家にも資金は必要です。しかし、それは本来の目的に沿って用いられるべきです。適切な政策や計画がなければ、どれだけ多くのお金があっても成果を挙げることはできません。また、ストリート・チルドレンを支援する各団体は共通の理解に基づいて計画を実施し、それを進化させていく必要があります。
1-2. 特徴
現在ストリート・チルドレンの人口は減ることなく、むしろ増え続けていると思われます。数年前まで、路上に子どもたちがやってくる原因は貧困にあると言われてきましたが、次第にその理由も多様化しています。子どもに対する両親の無関心、友達の誘惑、家庭内暴力などを理由に子どもたちが路上に出てきています。裕福な家庭の子どもが路上にやってくる場合もあります。
10年ほど路上生活をしている者と最近そうなった子どもの間で最も異なるのは、技術の取得に対する意欲です。技術訓練の機会を増やすことは、問題解決の糸口になり得るようです。もう一つ重要な点は、近年ストリート・チルドレンになった子どもたちの中には、学校教育を受けたことのある子が多いということです。現在のストリート・チルドレンのほとんどが読み書きができますし、8年生まで修了して路上に来た子どももいます。彼らの多くは勉強が嫌いで家を出て路上に来ています。一般の学校教育に興味を失ったからです。彼らは再び学校に行くよりも、手に職をつけることができる技術訓練に関心を示すでしょう。とは言え、教育支援に意味がないと断言するつもりはありません。学校に通い続けることを望むストリート・チルドレンも少なくはないからです。私たちは、一般の学校教育と技術訓練のいずれも重要だと言いたいのです。
紛争によって家族が国内避難民となり、子どもたちが路上に来る傾向が見られます。首都圏にあるカトマンズと隣接するラリトプルのストリート・チルドレンの人口が特に増えています。子どもたちは一旦都市での生活に慣れると、紛争が終結し村での安全が確保されても、路上で楽しむ癖がつき、村に帰りたがりません。経済的に問題を抱えた家庭の子どもたちは、一旦都会に出るとその誘惑に弱いのです。
大まかに分けると2種類のストリート・チルドレンがいます。昼夜ともに路上で過ごす子どもと、昼は路上で過ごすものの、夜は家族の所に帰る子どもです[viii]。前者については特定の地域で活動するたいていの団体が人数を把握していますが、後者について把握するのは非常に困難です。また最初は夜になると家に帰っていた子どもも、夜、路上で過ごす子どもたちと親しくなるにつれ、家に帰らなくなっていく傾向があります。
路上で生活する子どもや青年たちは、お互いを信頼していますが、見知らぬ人は信用しません。そういう人と親しくすることも好きではありません。それでも、彼らは一度信頼関係ができるとずっと信頼し続けるのです。一度心を開いた後は、良い事であれ悪い事であれ、自分の個人的な秘密を打ち明けるのもためらいません。最初はとても恥ずかしがっていた子どもも、一旦話し始めると打ち解けます。その一方で、あなた自身が彼らにどれだけ心を開いても、彼らがあなたを同等だと感じることはなく、彼らはあなたから何らかの利益が得られないか探しているのです。そのため、一般の人からストリート・チルドレンが荷物やお金を奪い取るという事件が起きるのです。しかし、彼らも路上生活に疲れ、安定した暮らしをしたいと望む日が来ます。その時、彼らはあなたを探します。あなたの支援を受けることができたら、彼らは路上生活をやめ普通の市民として暮らすことができます。彼らの中には良い道に進む子もいれば、一般の人たちになかなか相手にされないことに嫌気がさして、再び路上生活に戻っていく子もいます。
[i] Child Workers in Nepal Concerned Centre(CWIN)は、1987年に設立されたネパールのNGOで、子どもの権利と児童労働に関するロビー活動では草分け的存在。http://www.cwin.org.np/
[ii] 本書のネパール版を執筆した2006年に、地方で活動する各団体に電話で行ったインタビューによる。
[iii] 西部の観光都市。1997年に設立された地元NGO、Child Welfare Scheme Nepal (CWSN)による。http://www.childwelfarescheme.org/
[iv] ともに東部の都市。1993年に設立された地元NGO、Under Privileged Children Association (UPCA)による。http://www.upca.org.np/
[v] ともに中部の都市。2004年に設立された地元NGO、Child Protection Centers and Services (CPCS)による。http://www.cpcs-int.org/
[vi] 1カロールは、1千万ルピー。2008年1月現在、1ルピーは約1.53円。
[vii] ストリート・チルドレンの中には寝る場所を求めて転々とする子どもが多いため、広域にわたる一斉調査を行わない限り、正確な人数を把握することは極めて難しい。
[viii] 生活のすべてが路上にある子どもはChildren of Street、家があり家族のもとに帰るが多くの時間を路上で過ごす子どもはChildren on Streetと区別して呼ばれる。CWIN(2002)参照。
Subscribe to:
Posts (Atom)