険しい道を歩む女性たち

アルナ・チョウダリ&バグワティ・ネパール著
クリシュナ・サルバハリ編
目次
出版によせて
はしがき
謝辞

1. ネパールの女性がおかれた状況
1.1 背景
1.2 紛争したの女性
1.3. 家庭内暴力による苦悩
1.4. 人身売買
1.5. ダリット、貧困に苦しむ女性
1.6. 紛争に起因するその他の問題

2. モヒラコハート

3. 協力団体 ナバジョティ研修センター

4. 追跡調査
4.1 目的
4.2 調査対象
4.3 調査方法

5. 研修を受けた女性たちのその後
5.1 平和をもたらしたシャンティ
5.2 売られた少女をムンバイから救出したリラ
5.3 前向きになったヒラ
5.4 チャンダニの挑戦
5.5. 家から社会を変えるデビマヤ
5.6 人の成長の見本となったアルナ
5.7 「村に戻って働きたい」ミナの望み

6. 調査結果と提言
6.1 結果
6.2 提言
6.3. 修了生の声

資料:年度別受講生リスト
参考文献
出版によせて
私たちは、家父長制社会に生きています。女性たちは家庭でも、社会でも支配される側です。彼女たちの貢献が認められているとは言えません。男性だけではなく女性も、女性自身の問題を理解しようとしません。ネパールの人口の半分以上が女性です。国の発展が必要なら、女性にも男性同等の機会が与えられ、男性と女性が対等なパートナーとして認められなければなりません。残念ながら、現実はこれとは正反対です。パートナーであるべき一方の性は、軽視されるだけなく、基本的人権さえ剥奪されています。

女性は人身売買や家庭内暴力の被害者です。被害者の女性たちは、そういう運命から救われなければなりません。彼女たち自身が問題意識をもち、自立する力をつけるために適切な知識と技術を身につけなければなりません。それからようやくネパールは発展への道を歩み始めることができるでしょう。ナバジョティ研修センターとモヒラコハートの活動は、そのための努力の一例です。この本に私たちの試みが紹介されています。

研修を受けるのにふさわしい人たちに、私たちの研修について伝えて下さっている、モヒラコハートのバグワティ・ネパールさんとメンバーのみなさんに心から感謝しています。元研修生の活躍について記録し、この本を準備してくれたアルナ・チョウダリさんにもお礼を言います。

遠隔地の農村に住む女性たちの生活を向上させるべく努力が必要なのは、私たち個人、女性、また社会です。目覚めましょう。私たちはひとつです。頼れる者のない人、貧しい人、教育を受けられなかった人を支えましょう。そして、私たちの社会と国を変えましょう。

ナザレ修道会
ナバジョティ研修センター
シスター・テレサ・マドゥセリ
カトマンズ市バルワタールにて


はしがき
この本は、ネパールに住むさまざまな人々によって始められた「平和のための市民による紛争の記録プロジェクト」の一部です。プロジェクトは、ネパール各地から性別、年齢、階級、民族、カースト、宗教の異なる人々の紛争体験を集め、記録することを目的に始まりました。特定の人々による見方だけが記録として遺されることを避けるため、紛争をさまざまな角度から考察しようとしました。ネパールでは、一般の人々が身の回りの出来事を自分の言葉で記録することはまれです。そのため、人々は民衆の視点から歴史を学ぶ機会がありません。このプロジェクトは、記録の過程に人々が実際にかかわり、集めた情報を活用することで、後世に伝えることを目的としています。参加者は自分で題材を選び、エッセイ、日記、詩、絵、写真という手段で表現しました。

この本の著者、アルナ・チョウダリさんはナバジョティ研修センターの元研修生です。彼女の研修中また研修後の活躍を見て、もっとたくさんの女性たちを支援するために「モヒラコハート」(女性の手)という団体が生まれました。モヒラコハートは有給職員のいないボランティア団体ですが、農村の女性たちを多数支援してきました。しかし、これまで元研修生が村に戻ってからの活動についてモニターすることができませんでした。2006年6月、モヒラコハートの代表バグワティ・ネパールさんは、アルナさんを元研修生の女性たちの活動現場に送ることを決めました。アルナさんは、遠隔地に住む元研修生たちに会って面談をしながら、研修後の変化について記録しました。元研修生の女性たちは、彼女がカトマンズから遠く離れた村にいる自分たちに会いに来てくれたことに驚きました。アルナさんの訪問は、元研修生たちの再会のきっかけを作り、苦楽を分かち合う機会になりました。

アルナさんは、元研修生たちの奮闘について詳細な聞き取りをしましたが、当初、彼女たちの個人的な話を文章にするのをためらいました。バグワティさんは、代表としての役割を果たすだけでなく、アルナさんが記録をする過程を支えました。最終的に、アルナさんは、他の元研修生の話だけでなく、自らの人生について書くだけの自信を得ました。

この本はモヒラコハートと、元研修生が達成したことを共有するために出版されました。はじめに、モヒラコハートとナバジョティ研修センターの研修内容について紹介します。本の主要な部分は、元研修生の事例と過去の経験から得た教訓です。研修によって女性たちの人生がどのように変わったのか、その後、彼女たちがそれぞれの場所に戻ってどんなに奮闘したのか、読者のみなさんにわかっていただけることを期待します。この本は、モヒラコハートの著者と元研修生の協力によって完成しました。クリシュナ・サルバハリさんは編集を手伝ってくれました。出版に際しては庭野平和財団の助成を受けました。最後にモヒラコハートのメンバーのたゆみない努力をたたえます。

2006年10月
平和のための市民による紛争の記録プロジェクト
コーディネーター
田中雅子


謝辞
一般に、投資に対する利益は会計処理をすればすぐに算出できますが、人材育成のための投資が実を結ぶためには長い年月がかかります。モヒラコハートが家庭内暴力、紛争、その他の苦境にある女性たちの人材育成を目的に投資をするにあたっては、さらに長い時間がかかります。その上、成果を数量的に把握するのはとても困難です。それでも、技術や知識の向上を目的とした、密度の高い研修の成果を何年か後に見ることはできます。投資した後、研修を受けた女性たちが何をしているか、追跡調査することも私たちの大切な仕事です。

モヒラコハートは、非営利のNGOで、過去8年にわたり、遠隔地に住む女性たちがナバジョティ研修センターの6ケ月研修で学ぶ機会を提供してきました。研修を受けた女性たちの現状を把握することは、団体の責任でもあると私たちに呼びかけ、それにかかる費用を負担してくれた、モヒラコハート設立以来の仲間である田中雅子さんに心から感謝します。この調査で、どんな場所にでも出かけ、面談や話し合いをし、元研修生それぞれの実態について考察を試みたアルナ・チョウダリさんにも感謝します。彼女自身、私たちの支援で研修を受けた最初の研修生だったので、彼女の変化の軌跡についても掲載することにしました。他の元研修生についてはアルナさんが現地訪問の結果をまとめました。

私たちは、苦境にある女性たちに、同じような境遇にある他の女性たちがどうやって状況を改善していったか伝えることを目的にしています。したがって、科学的・数量的調査ではなく、元研修生の村で参与観察をしたり、インタビューを通じて現状を把握しようとしました。私たちの努力を支え、この調査にも貴重な助言を下さったナバジョティ研修センターのシスター・テレサに感謝します。今後とも、モヒラコハートとセンターが協力を続けることを期待します。

訪問調査中、体験を語ってくれた元研修の女性たち、関係団体のみなさんに心から感謝します。最後に、原稿を編集し、出版物の体裁に整えてくれたクリシュナ・サルバハリさん、原稿を入力してくれたナルビル・デワンさんとプレム・プラカシュ・チョウダリさんにも心からお礼を申し上げます。同じような仕事をする人だけでなく、あらゆる読者のみなさんにこの本が役に立つと信じています。

モヒラコハート代表
バグワティ・ネパール
1. ネパールの女性がおかれた状況
1.1 背景

ネパールでは今も85%以上 の人々が農村に住んでいます。昔ながらの農業に頼っているので、村の経済を安定させるほどの収量がありません。約78%の世帯は何らかの土地をもっていますが、平均すると、耕作に適した土地は、世帯あたりわずか0.8ヘクタールだけです。約32%の人々が貧困ライン 以下の生活です。これらの人々の土地所有は、各世帯0.2ヘクタール以下です。しかし、こうした貧しい世帯の人口増加率はその他の世帯のおよそ2倍です。全体の2割にあたる最も貧しい層の年間所得はひとりあたり4,300ルピー で、全体の2割にあたる最も裕福な層の年間所得は40,486ルピーです。貧富の差は甚大です。

男性と女性の地位を比較してみると、女性たちの状況は非常に悪いです。成人識字率は全体で48%ですが、女性の成人識字率は34%に過ぎません。わずか20%の妊婦だけが十分な研修を受けた助産師の介助で出産することができます。10%の女性たちは栄養失調の状態です。また、ネパール社会には、カーストによる差別も根強く残っており、発展の妨げとなっています。農村には古い慣習や迷信が残っています。これらも女性に対する差別を助長しています。

政府とNGOはこうした問題の解決に取り組んでいます。政府は、地方分権化を進め、地域開発を促進しようとしています。中央政府は、第10次5ケ年計画の主目的を貧困削減としています。ミレニアム開発目標 では2015年までの達成目標を定め、社会包摂とその実現のために必要な政策を実行中です。例えば、各学校に女性教員を配置すること、ダリットや先住民族に奨学金を支給すること、児童労働を根絶することなどです。また、予防接種、ポリオワクチン、ビタミンAがすべてのネパールの子どもたちに行きわたることを目指しています。過去10年にわたる人民戦争と政情不安の結果、なかなかサービスがゆきとどきませんでした。女性たちはその影響をこうむっています。紛争中、生命が危機にさらされ、多くの家族が村を離れて国内避難民となったことで、社会環境が悪化したからです。

1.2 紛争下の女性
10年に及ぶ紛争は、女性たちに負の影響を与えましたが、むしろ女性たちの解放につながった側面もあります。長く続いた独裁政治が終結し、民主化されたことで女性たちにも政治参加の道が開かれました。女性たちも差別を容認し続けることはできませんでした。しかし、紛争が多大な損失をもたらしたことには違いありません。

人権団体INSEC発行の『人権年鑑2007』によれば 、1996年2月13日から2006年12月31日までに13,284名の命が奪われています 。うち女性の犠牲者は、国軍側に殺された者が820名、マオイストによって殺された者が193名の計1013名です。紛争による直接の被害者は男性のほうが多いですが、夫を失った女性には家計を支える負担がのしかかるようになりました。女性が誘拐された場合、暴力を受けたり、強姦されることもあります。2005年だけでも、379名の農民が殺され、うち59名は女性たちでした 。また、誘拐された927名の農民のうち113名が女性でした。World Vision によれば紛争期間中に国軍から性的搾取を受けた女性は、ジュムラ郡だけで600名にのぼります。

女性たちは、国軍とマオイスト双方の犠牲になっています。貧しさゆえに、息子を治安部隊で働かせざるを得ず、派遣先の遠く離れた村で息子を亡くし、悲しみにくれる母親もいます。また、苦境にある女性、例えば病気を患っている女性や妊産婦も、安全な場所を求めて村を離れなければなりませんでした。多くの女性たちが夫、息子、両親、子どもを失っています。国内避難民となって移住した女性たちの多くが、家事使用人としてカトマンズで働いています。

1.3 家庭内暴力による苦悩
家父長制の根深いネパールでは、家庭内のことも男性が決定権を持っていました。相続権をめぐっても法的不平等が残っていたので、女性が財産を相続することも困難で、自分の名義で家や土地を所有する女性はわずかです。就業機会も限られています。女性の管理職や政策決定者が少ないため十分な監督がなされておらず、一般の女性は非道な処遇にも黙って耐え忍ぶ他、選択の余地がありませんでした。数えきれないほど多くの女性たちが、夫から殴る、蹴るの暴行を受けても、家族から助けを得られず、他に行き場もありません。

持参金をめぐる問題や、重婚をきっかけに、非情な夫やその家族が暴力をふるい、多くの女性が犠牲になっています。中には魔女と疑われて殴打される女性もいます。INSECによると、女性の人権侵害は2005年だけで395件おきており、その中に、レイプ、人身売買、魔女狩り、家庭内暴力、性的虐待、重婚などが含まれています 。このような社会における差別があるために、女性たちの声はなかなか届きません。法的に女性の権利が認められても、農村では特に女性の権利は剥奪されています。

1.4 人身売買
人身売買の歴史はラナ専制時代 にさかのぼります。ラナは女性を快楽の対象としていました。王宮内に自分が気に入った少女を連れてきて、情婦として住まわせました。女性たちがまるで動物のように売買されるのはこの伝統に起因しています。人身売買の被害者は、貧しく、教育を受けていない、ヒンドゥ教徒以外の女性たちに多いです。

人身売買が非合法化されて20年以上経ちましたが、インドや中東諸国で売春に従事するネパール人女性30万人のうちの多くが人身売買の被害者です。現在も毎年7,000人以上が、他国へ売られています。紛争によっても人身売買が増えました。政府とNGOは、人身売買被害者の女性のエンパワメントに力を入れていますが、人身売買の防止は困難です。マオイストは、人民解放軍に女性たちを動員するために、西部丘陵地帯で少女人身売買を規制しているという話もあります 。

1.5 ダリット、貧困に苦しむ女性
ネパールで不可触制が廃止されて長い年月が経ちましたが、21世紀に入っても、ダリットは不可触民として扱われています。政府やNGOで働くエリート層はダリットの解放について説教しても、個人の日常生活においてそれを実践することはありません。ダリットの女性が職業訓練を受けても、仕事の機会を見つけるのは大変です。もし、ダリットが食堂を開いても、お茶一杯飲む者がいないでしょう 。

アクションエイド・ネパールというNGOが発行した『ネパールに現存する不可触民とその状況改善のための挑戦』という本 によれば、ダリットに生まれたというだけで205種類の差別を受け続けているといいます。ダリットの生活環境はとても厳しいです。紛争によってであれ、生まれつきであれ、障害を負った女性たちの状況もまた困難です。

1.6 紛争に起因するその他の問題
SAMANATAというNGOの代表アルジュ・デゥバが行った調査によると、紛争が女性たちに与えた最も深刻な影響とは、就業機会がないこと、収入がないこと、貯蓄を取り崩さなければならない、土地や財産を失うことで、既存の収入手段がなくなる等です。また、最も深刻な心理的影響は、子どもたちに表れています。親を亡くした子どもは、恐怖感に襲われたり、勉強する気がなくなるなど、精神のバランスを失う傾向があり、彼らの将来に暗い影を落とします。夫が殺されたり、誘拐されたり、村を離れて他の場所に逃げた場合、妻が生計を立てる責任を負わなくてはなりません。彼女たちは、家族の安全の確保や、年置いた親の世話、地域活動への参加など、新たな責任を果たすのに苦心しています。
2. モヒラコハート
モヒラコハートは、主婦や社会活動に関わっていた女性たちによって結成された非営利のNGOです。ボランティアや賛同者の寄付をもとに活動しています。非公式に活動を始めて6年になり、5年前にカトマンズ郡事務所で団体登録をしました。カトマンズ市内ディリ・バザールに事務所を置いています。毎年の活動報告と会計監査報告を提出しています。会員が61名で、理事が9名います。3年に一度の選挙によって新しい理事会が結成されます。

紛争によって、多くの村人が自分の村を離れざるを得ませんでした。稼ぎ手を殺された世帯では、子どもや扶養家族が貧窮に陥ります。そうなっても補償金はもらえず、新たに生計を立てる手段も得られないままです
[i]。このように困窮を極める遠隔地の女性たちを支援するために、モヒラコハートの会員は基金を作りました。技術を身につけ、自分と家族を支えるための研修に彼女たちを参加させることがねらいです。ダリット、ジャナジャティ[ii]、障害をもつ女性を優先しています。

モヒラコハートがこれまでに支援した活動は以下のとおりです。( )内は場所と協力団体。
1) 女性リーダー育成研修(カトマンズ市ナバジョティ研修センター):6ケ月の住み込み研修
2) 就学期に教育を受けられなかった成人女性への教育(カトマンズ市 ウトゥプレラナ女子学校)
3) 障害者技術研修(カトマンズ市近郊の村落開発委員会):9ケ月の技術研修
4) 生計支援(カトマンズ市):女性2名が自分で小さな商売を始める際の資金を貸与
5) 思春期教育(カトマンズ市ユバアビヤン):義務と権利を自覚させるためのボランティア育成支援
6) ストリートチルドレン支援(カトマンズ市バスンダラ・ナショナルアカデミー):働く子どもへの正規教育支援
7) 孤児支援(カトマンズ市 トゥフラ・バルグラム、トゥフラ・サンラクチャン):孤児の保護
8) ダリット、ジャナジャティの子どもたちの教育支援(ジャパ郡サンボダン・サダナセンター):メチェ、コチェ、ダヌワール、ムサハルなどのダリットもしくはジャナジャティの子どもたちへの教育支援9) ダリット奨学金(カブレ郡:ヨグマヤ・ネパール・ダリット奨学金):カミ、ダマイ、サルキ女子への奨学金支給


[i] 2008年現在、紛争の犠牲となって殺された者の家族にはNRs.100,000の補償金が支払われる制度があるが、現実にその申請に必要な証明書類を提出するのが困難なために受け取っていない家族が多い。
[ii] 非ヒンドゥ民族。
3. 協力団体 ナバジョティ研修センター
モヒラコハートの協力先ナバジョティ研修センターは、1988年にナザレ修道会によって創立された慈善団体です。カトマンズ以外に、ダランとスルケット
[i]に支部があります。教育と保健のほか、技術研修の分野で活動しています。知的障害者のリハビリテーション、農村また獄中にいる女性への教育、技術訓練などです。

ナバジョティ研修センターは1992年から6ケ月間の女性リーダー育成研修を始めました。これまで教育などさまざまな機会に恵まれなかった女性たちをエンパワーし、彼女たちが社会変革の主体となることを目指しています。参加者は社会参加について、成人識字教育、子どもと女性の権利、少女人身売買、不可触制の問題、ジェンダーの平等、家族計画、安全な出産などのほか、貯蓄信用組合の運営、洋裁、染色、ハーブ栽培などについて学びます。また人々を啓発するためにストリート・ドラマ(村芝居)や歌、詩を使うことも覚えます。                                           

センター設立以来、280名が研修を受講しました。その多くは、遠隔地の出身です。ナバジョティ研修センターが研修生を選ぶのではなく、さまざまな団体や個人から推薦のあった女性たちが参加しています。他の研修機関では、候補者の中から優秀な人を選びますが、ここでは、最も研修を必要としている人を優先します。

モヒラコハートの予算は限られており、独自に研修を実施することが難しいため、ナバジョティ研修センターに女性たちを派遣しています。この研修では、個人としての能力開発、職業訓練、貯蓄組合の運営など地域活動、人権学習などを行い、その効果には定評があります。モヒラコハートの支援で研修を受講した女性たちの人数は以下の通りです。
2002年度1名、2003年度3名、2004年度5名、2005年度10名、2006年度7名、計26名。


[i] ダランは東部、スルケットは中西部のともに丘陵地帯の町。
4. 追跡調査
4.1 目的
モヒラコハートの支援で研修を修了しても、地方の村で周辺環境を変えることは難しく、すぐに仕事を見つけたり、自分で商売を始めることもできません。だからと言って、研修で得た技術や知識を無駄にすることもできません。そこで、どういう支援をすれば、女性たちが技術を役立てることができるのか見極めるために調査をすることにしました。将来どんな活動を継続し、あるいは内容を変えていく必要があるのか、元受講生の女性たちにどんな追加支援が必要かを知るためにも、モヒラコハートにとってこの調査は重要でした。

4.2 調査対象
計26名のうち19名がすでに研修を終え、村に帰っています。以下の郡から調査対象を選びました。
ジャパ郡:ライ
[i]と孤児、各1名。
カトマンズ郡:障害者1名。
ドラカ郡:ブジェル、タマン各1名。タナフン郡:マガル1名。

4.3 調査方法
1) ナバジョティセンターとモヒラコハートにすでにある情報を再確認する。
2) 他のNGO、村落開発委員会を通じて、元受講生の近況について情報を得る。
3) 本人、家族、親戚、近隣住民らにインタビューをし、元受講生の変化の軌跡について尋ねる。
4) インタビューから得られた情報をもとに提案をする。


[i] ジャナジャティの中の民族。以下、ブジェル、タマン、マガルも同じ。
5. 研修を受けた女性たちのその後
訪問先では、元受講生と最低1日一緒に過ごしました。インタビューのほか、彼女たちが関わっている団体のメンバーや近所の人から聞いた話をもとに、女性たちの人生が研修後どう変わったか紹介します。

5.1 平和をもたらしたシャンティ
名前通りの人生になるのなら、たくさんの人が幸せになっていたことでしょう。名前が嫌いなら替えることはできますが、名前だけ変えても運命を変えることはできません。とても怖がりのビル・バハドゥル(勇敢な戦士)という名前の人が、私たちの身近にいますから。

シャンティ・ライは名前の通りシャンティ(平和)をもたらした数少ない人でしょう。彼女の名前は、娘が平和に暮らせるよう願った両親がつけたのでしょう。しかし、彼女の運命が最初からそうだったわけではありません。

ジャパ郡のケルカバザールから1キロの距離にある、トプガチ村にシャンティ・ライの実家があります。父バムバハドゥルと母マンカニの一人娘として今から36年前に生まれました。父が二人目の妻を娶って以来、ふたりの母の間にけんかが絶えず、平穏な家庭ではなくなりました。

シャンティは25歳でダンバハドゥル・ライと結婚しました。ダンバハドゥル(豊かで勇敢な男)が名前の通りに稼いできてくれればよいのですが、常にお金に困っていました。夫婦げんかが絶えず、彼女は離婚を決意するまでになりました。仕事もせず酒場に入り浸り、帰宅すれば怒って妻の髪をひっぱり、手持ちの金を賭け事で使い果たしてしまうような夫と暮らしたい女性はいないでしょう。こんな悪夢が彼女の現実となってしまったのです。その頃のことを思い出してシャンティは言います。「毎日夫とけんかして、精神的にも限界でした。私たちがけんかするのを見て、娘と息子が泣き叫んでいました。夫とは口論が絶えず、経済的にも苦しく、家を維持するのは大変でした」

ある日、シャンティは、郡開発委員会の議員をしていた義兄のアルジュン・ライに苦労を打ち明けました。彼はモヒラコハートを通じて、シャンティをカトマンズでの研修に参加させようと考えました。最初、6ケ月も家を空けることを躊躇しましたが、最後には研修に参加してより良い人生を生きたいという思いが勝り、カトマンズに行くことを決めました。2001年、9歳の娘と6歳の息子を夫に預け、研修のためカトマンズに来ました。

最初は他人の前で話すこともできなかった内気な彼女でしたが、だんだん慣れて、研修指導員たちとも積極的に意見を交換するようになりました。「自分でもよくわかりませんが、研修中、私は内面から強くなっていった気がします」とシャンティは言います。

研修後、村に帰ったシャンティは、家に着くなり恐怖感に襲われました。「村に戻ってみると、家に誰もいませんでした。夫は娘と息子を私の実家に預けていたのです。家の中の荒れ果てた様子を見て子どもたちが心配になりました。私はその日思い切り泣きました。夫に対して腹が立ち、心の中の悪魔が夫を殺したいとささやくほどでした」

研修で学んだ甲斐があって、シャンティは自分の感情を何とか抑えることができました。夫にだけ非を求めるのではなく、自分の誤りにも気づきました。対立の解決法を学んだ成果を生かして、夫との関係を変えていきました。夫も妻の前向きな姿勢を受け入れ、徐々に悪癖を直していきました。今では、夫は毎日仕事に精を出しています。家事もふたりで分担し、けんかすることもなくなりました。

「研修の最大の成果は、夫が行いを改め、家庭環境を変えられたことです。暮らし向きも良くなりました。研修は私の人生に大きな変化をもたらしましたが、何といっても良かったのは夫と平穏に過ごせるようになったことです。研修前は自分の欠点について気づきませんでしたが、自分を内省することを学び、前進しています。他の人と争わずに暮らす術を身につけることができたのです」

次にシャンティが行ったのは、カンチャンジュンガ貯蓄グループを結成することでした。2001年12月30日、20名の既婚女性でグループをつくりました。月20ルピーを貯金するところから始めて、5年間で残高は5万ルピーに達しました。グループの代表、ニルパ・ライは言います。「シャンティは、グループをここまで成長させるのに重要な役割を果たしました」。彼女はグループ内の女性たちの調整とエンパワメントを担っていました。

シャンティの努力の結果、村では他にも貯蓄グループと洋裁グループがあります。カンチャンジュンガ貯蓄グループの会計をしてきたシャンティは、時間のある時には洋裁グループでも会計を助けています。国連開発計画の貧困撲滅プログラムの下、村では他にも信用・貯蓄グループが結成され、
シャンティはそれらのグループのリーダーでもあります。

トプガチ村開発委員会の事務官ブッディマン・ポウデルは言います。「シャンティ・ライのような女性があと2、3人村にいたら、この村も相当変わると思います」。研修はどうでしたか、という質問にシャンティは答えます。「研修を通じて、自分自身を知らなければいけないという思いに至りました。他の人と協力して生きていくことを学びました」。シャンティは現在、家の仕事よりも地域での仕事で忙しくしています。彼女の奮闘の結果、トプガチ村のどこへ行っても名前が知られています。組合や団体の職員、役人、牧夫、一般の人、誰に尋ねても、みな彼女を知っています。

シャンティには二人の娘と一人の息子がいます。高校卒のシャンティは、子どもたちにはそれよりも高い教育を与えたいと考えています。まだ長女は8年生、息子は4年生で、次女は2歳になったばかりです。

国の不安定な政情は、彼女の仕事にも影響を与えました。貯蓄グループの月例集会にマオイストがやってきて、彼らの演説を聞かされる羽目になりました。本来の重要な議題を話し合うことができませんでした。2006年4月の第二次民主化運動の最中に多くの工場が操業を停止したために、夫は職を失い、再び一家は財政危機に陥りました。彼女たちはたびたびお腹をすかせて過ごさなければなりませんでした。それでも貯蓄グループの女性たちは民主化運動に参加しました。「民主主義が訪れたら、私たちは平穏に自分の仕事をすることができるでしょう」

シャンティに10年後の夢について尋ねました。「実現したいことはたくさんあります。子どもたちに良い教育を与えたいです。そのためにはもっとお金が必要です。それ以外のもっと大きな夢は社会の役に立ちたいということです。村のほかの男性たちが、私の夫のように賭け事や酒を止め、家で妻を手伝うように変わる“革命”を始めたいと思います」。彼女の夢はいつ叶うのでしょうか。いつか時が教えてくれるでしょうが、すでにカンチャンジュンガ貯蓄グループの女性たちは、彼女の夢の実現のために歩み出しています。

酒、博打は家族だけでなく、社会全体の規範を乱します。シャンティは夫に変化を促し、自分の人生も変えました。今、彼女の家庭は平和に満ちています。夫は電気工として働き、家族のために稼いでいます。彼女は名前通りの人生を生きています。ことわざにあるではないですか。「泣くときはひとりで泣きなさい。でも、あなたが笑えば、世界も一緒にあなたと笑う」と。泣いてばかりいた人生から笑顔にあふれた人生への転換に奮闘したシャンティの話から、私たちも学ぶところがあるのではないでしょうか。
5.2 売られた少女をムンバイから救出したリラ
ある父親が、18歳になる娘の市民権証発行の手続き[i]をしないままに、出稼ぎ先のムンバイに行ってしまいました。娘はひとりでムンバイまで出かけ、父親の居場所を探し出しました。8年生まで教育を受けただけの少女が、どうしてそんな勇気をもっていたのでしょうか。ムンバイにやってきて父を驚かせた勇気ある少女は、ジャパ郡ビルタモード、デビバスティ村のリラ・バッタライです。

娘が自分の居場所を自力で探し出したことに、父親は驚きました。ムンバイといえば、何千ものネパールの少女が売られている街です。「もし、娘が人身売買の仲買人の罠にかかっていたら、今頃売られてしまっていたかもしれない」と父親は思いましたが、彼の娘は賢く勇気がありました。彼女は、彼女自身が売られなかっただけでなく、売られそうになっていたふたりのネパールの少女を救出したのです。「娘よ、よくやった!お前は息子にもできないような大切なことをした!」と言って、父は娘を誇りに思いました。そして、すぐに娘の市民権証を申請するため、父もネパールに帰りました。

それは2006年1月の出来事でした。リラがそんなに大きな勇気を持てたのも、数ケ月前に受けた研修の成果です。カトマンズのモヒラコハートを通じて、ナバジョティ女性研修センターで6か月の研修を受けました。その研修が、彼女に危険な状況でも行動する勇気を与えたのです。

リラがムンバイに到着したとき、ふたりのネパール人少女が連れて来られたという話を地元の女性から聞かされました。当初ふたりは、自分たちの意思で来たと言いましたが、リラがネパールから多くの少女たちがインドの売春宿に売られ、ひどい生活を強いられていると話すと、少女たちは、自分たちが村から仲買人に連れて来られたことを打ち明けました。父と地元の女性たちの協力を得て、仲買人たちが朝のお茶を飲みに出かけている時に、リラは少女たちを逃がし、ムンバイからゴラクプル[ii]行きの電車の切符を買って、ふたりをネパールに連れ戻すことに成功しました。

救出されたうちのひとりは、ジャパ郡の無権利居住者の地区クドゥナバリに住むデビ・サルキです。遠い親戚が良い仕事を紹介してやると言って、8年生だった彼女をムンバイに連れて行きました。もうひとりはニルマラ・ダルジです。彼女は中西部の出身ですが、リラは、ニルマラについてそれ以上詳しいことは明かせないといいます。ジャパ郡にデビの伯父と伯母がいたので、リラはニルマラも彼らに預けました。現在デビは9年生です。再び学校に戻ったデビを見て、リラは安心しています。

リラ自身は、モラン郡のパタリで生まれました。とても貧しかったので、彼女の両親は、どこに行けば食事を2度取れる暮らし[iii]ができるかと、住む場所を転々と変えながら暮らしていました。モラン郡からジャパ郡のブダバレ、サニスチャレに移り、さらにビルタモードのデビバスティに来てやっと彼らは落ち着きました。何度も引っ越したために、リラと姉は学校に通い続けることができませんでした。姉は16歳で結婚しました。娘の結婚後、父ディリバハドゥルはムンバイに出稼ぎに行きました。母のクリシュナ・マヤは長女夫婦の助けを借りて小さな食堂を経営し、3人の娘を育て始めました。しかし昼夜をいとわない仕事と、夫と離れて暮らすことの重圧から、母親は若くして病気になり、リラがまだ15歳の時、亡くなりました。

母の死後、リラを含む幼い3人の姉妹を養育する責任は、すでに嫁いだ姉ティカにかかって来ました。自分のふたりの子どもと、妹が3人、計7人の家計を支えるのは容易ではありませんでした。運転手としての給料だけでは家計を支えることはできず、姉の夫ラメシュ・カドカはカタールに出稼ぎに行きました。リラは8年生、妹たちはそれぞれ6年生と3年生で、出費がかかります。全員が学校に行くことはできなかったので、リラは学校を辞め、妹たちと姉の子どもの世話をすることになりました。学校を辞めた日、彼女は一日中泣いて過ごしました。

近所に住むディプジョティ高校の教師、ビンドゥ・ドゥンガナが、彼女の苦境を知り、モヒラコハートから支援を受けて研修を受けてはどうかと助言しました。ストライキの影響でカトマンズまで3日もかかりましたが、研修への興味が、大変だった旅路を忘れさせました。

リラはモヒラコハートが費用を負担してくれたおかげで、カトマンズに来てナバジョティ女性研修センターの6ケ月の研修を受講することができました。リラは言います。「そういうチャンスを得て、初めて私も他の人を助けたい、社会のために役立ちたいという気持ちが心の底から沸いてきました」

6ケ月の研修後、いつも泣いてばかりいたリラは、自分の権利について理解し、何事にも前向きな女性となって家に帰りました。研修前は、人前で話すこともできませんでしたが、帰るなり、父に市民権証がいると言いました。これも研修で学んだことの成果でした。

2006年4月、リラの人生で、もうひとつの転機が訪れました。母の死後、姉が母親代わりでした。姉が縁談を持ちかけたとき、リラは断ることができませんでした。18歳になったリラは、ジャパ郡チャクチャキのラム・バハドゥルと結婚しました。結婚後、リラの夢が叶いました。彼女の勉強への情熱を理解した夫が学校に復学することを認めてくれたので、9年生に編入しました。空いている時間に、洋裁の仕事で自分の収入を得、他の人にもその技術を教えています。また、小さな化粧品の店も開きました。

すでにやることがたくさんあったので、貯蓄信用グループを結成するだけの余力がありませんでした。しかし、サハラ・ネパールとういNGOが結成したグループの集会があれば、自分が研修で身につけた知識を共有するためにいつでも出かけて行きます。彼女自身に余裕ができたら、自分もグループを結成したいと思っています。

妹の変化を見た姉は驚いています。「研修を受けてから、妹は変わりました。歩き方、話し方、仕事の仕方などすべての点で、物腰が落ち着きました。今は安心しています」

どんなふうに社会に貢献したいですか、モヒラコハートに何を期待しますか、という質問にリラは答えます。「SLC(中等学校卒業資格)の試験に受かったら、近所で女性たちに裁縫を教えて、彼女たちが自立できるようにしたいです。10人くらいに研修をしたら、小さな工場を造りたいと思っています。モヒラコハートが、努力を重ねる女性たちに協力してくれると聞いて、とても期待しています」

リラは社会のために貢献しようと前進し続けています。男性と女性が車の両輪だとすれば、彼女の夫も協力してくれています。他の男性たちも妻の活動に協力してくれたら、この世界はどんなに良くなることでしょう。


[i] 子どもの市民権証の発行には父親の署名が必要。
[ii] インドとネパール国境にある電車の駅。
[iii] ネパールでは食事は2度。朝は紅茶のみ。
5.3 前向きになったヒラ
ドラカ郡ジュレ村のヒラ・タマンは美しい少女でした。村の男の子たちが彼女に憧れ、近所の青年、ラムクリシュナ・ギシンもそのひとりでした。ラムクリシュナはヒラが好きになり、結婚をもちかけましたが、まだ8年生だったヒラは断りました。彼女の父ビムバハドゥルと母ディルマヤは苦労しながら彼女を学校に行かせていました。ヒラが断り続けても、ラムクリシュナは求婚し、ヒラは無理やり結婚させられました。彼らラマ
[i]の社会には当人の意思に反しても結婚するという習慣があります。そのせいで、ラマの女性たちの多くが苦悩を強いられています。

自分の求婚が何度も断られ、無理やり結婚する他なかったことで、ラムクリシュナ自身も傷ついていたのでしょうか、結婚直後から酔って家に帰ったり、ヒラに暴力を振るうようになりました。ヒラは夫から殴られることが日常となりましたが、逃れることはできませんでした。一旦結婚した女性が実家に帰ることは許されないのです。彼女は望んでいなかったのに、社会が結婚を認めてしまったからです。

義母と義父も夫の味方でした。ある時、義母は2日間もヒラに食事を与えませんでした。お腹がすいた彼女が畑にトウモロコシを取りに行ったところ、怒った義母は後ろから薪で殴りかかり、ヒラは意識不明になって地面に倒れました。意識が戻った後、ヒラは1歳半の娘に乳をあげようとしました。しかし、自分もひもじいために、娘にやる乳も出ませんでした。その夕、夫は酔って帰ったとき、娘は泣きじゃくっていました。義母はヒラが一日中、乳をあげていないのだと言うと、夫は彼女を外に連れ出して殴りました。ヒラが意識不明になった時、夫と義母は彼女が死んだと思いこみ、彼女を畑に捨てました。

真夜中に意識を取り戻したヒラは、これからずっと毎日殴られ続けるよりも、自分の分身である娘と一緒に逃げ出すほうがいいと考えました。みなが寝静まった頃、義母と寝ていた娘を連れ出し、実家に向かいました。途中、ジャングルの中を通り抜けなければなりませんでしたが、怖くありませんでした。しかし、彼女が逃げたことを知った夫がすぐ追ってきて、子どもを奪い返しました。たったひとりの子どもを失って、実家にたどり着きました。以来、精神のバランスを崩した彼女の奇行が目立つようになりました。時々、狂人のように泣いたり、叫んだり、茫然自失のままひとりでいることもありました。ヒラの両親は同情する以外にできることはありませんでした。

そんな中、ヒラは妹からナバジョティ研修センターのことを聞きました。ナバジョティ研修センターに連絡をとりましたが、受講料は自分では払えませんでした。身につけている一組の古い服以外、カトマンズに行くために必要なものは他に何もありませんでした。モヒラコハートが研修費用を負担してくれると聞き、彼女の希望が蘇ってきました。

研修中、ヒラは自分と同じような境遇にある16人の受講生たちとともに、苦しみから解放されるよう努めました。しかし、幼い子どもと離れ離れになった苦しさが癒えることはありませんでした。彼女は思い出します。「ある日、先生が自分たちの人生で起きた話をしなさいと言いました。私は泣きながら自分のことを話しました。他の人は、目の前で軍が夫を射殺した話をしました。他の女性が私と同じように夫から追い出された女性もいました。そういう話を聞いて、辛いのは私ひとりではないと思い、癒されました。そういう他の人の話を聞く機会がなければ、私は気が狂っていたでしょう。そして私もみなと話すことができなかったでしょう」

その日から、ヒラは自律する努力を始めました。他の研修生と悩みを話し合ううちに、あっと言う間に6ケ月が過ぎました。研修後、みなは自分の家に帰りましたが、彼女には帰る場所がありませんでした。夫の家には戻りたくありませんし、実家に迷惑をかけたくありません。考えた末、彼女はカトマンズで暮らすことにしました。

ある日、コテシュワールからラトナパークに行く途中で、ラディカという女性と知り合いました。彼女は家事をしてくれる人を探しているとのことで、仕事を探していたヒラは、クプンドールにあるラディカの家で住み込みで働く決心をしました。しかし、彼女のクプンドールでの生活もあまり良くはありませんでした。2006年の民主化運動の頃、彼女の住む家は水不足になり、ヒラは近所の公共水栓まで洗濯に行かなければなりませんでした。ある時、催涙ガス
[ii]が撒きちらされたのに巻き込まれてけがをしました。その事件をきっかけに、ヒラはその家の仕事を辞めました。

現在、彼女は他のところで家事使用人の仕事をしていますが、今の職場もあまり居心地が良いとは言えません。家の主人は彼女が外の人と話すのを嫌いますし、電話を使うことも許してくれません。ヒラは言います。「研修でたくさんのことを習っても、私は何も知らないかのように振舞わなければなりません」

ドラカ郡ジュレ村で育った子どもの頃も、彼女の生活は貧しかったです。両親には家以外に財産がないので、実家に戻るつもりはありません。それより、彼女はいつか自分で生計を立てられるようになって自分の価値を夫に実証してみせたいと思っています。

他の女性たちに何をしてあげられると思いますかと尋ねられ、彼女は答えます。「研修で習ったことはひとつも忘れていません。もし、誰か手伝ってくれる人がいれば私も何か始めたいと思います。今は、協力しあえる仲間を探しているところです」

紛争のせいで、村に戻って仕事をするのは難しいとヒラは言います。それでも、彼女は勇気を失っていません。彼女は自分がこんなに前向きに生きる人間になるとは思っていませんでした。今、彼女は、当人の意思に反して無理やり結婚させるラマ社会の習慣に抗議の声を上げたいと考えています。「この研修は、私に新しい人生を与えてくれました。私の人生を前向きなものにしてくれた人たちに恩返しをしたいと思っています」


[i] 外部者がタマンのことを総称して「ラマ」と呼ぶことがある。
[ii] 民主化運動中、デモ隊に対して武装警察が催涙ガスを撒いた。
5.4 チャンダニの挑戦
自分は生まれつき神に見放されていると思うことがありませんか。チャンダニ・バスネットもそんなひとりでした。彼女はポリオのため、上手に立つこともできませんでした。カトマンズで借家に住んでいる人は、持ち家のある人を幸運だと思うのでしょうが、カトマンズ近郊には今でも貧しい村があります。そのような村の中のひとつダルマスタリ村に、チャンダニ・バスネットは23年前に生まれました。

チャンダニの村で教育を受けた人は少なく、村人の多くは、他人の畑で働いていました。レンガと土でできた家にはひびが入り、飲み水を手に入れるのも大変でした。村は問題だらけでした。チャンダニは学校に通い始めた頃から、そんな村の問題を解決したいと考えていましたが、自分自身、満足のいく暮らしができない中で、村のために何かすることは難しく、彼女の不満は募るばかりでした。

思い通りにならない自分のからだと、家族の貧しさに嫌気がさしました。彼女の父が2人目の妻を娶ったことで、家庭は崩壊しました。ふたりの妻が一緒に暮らせるはずはなく、父は若い妻と暮らし、彼女は自分を生んだ母とともに別のところで暮らすようになりました。

障害をもっていた彼女は、研修の受講生に選ばれました。6ケ月間、いさかいの絶えない家を離れて研修に参加できるのは幸運だと思いました。その一方で、研修がどんなものか、また他の研修生が障害をもつ彼女のことをどう扱うか不安でした。彼女は7,000ルピーの研修費をどうやって払うのか困りましたが、モヒラコハートが支払ってくれたので費用の問題は解決しました。研修が始まってから、その目的が、これまで苦境にあった女性のエンパワメントとリーダーの養成なのだと気づきました。

チャンダニは言います。「リーダー養成のための講義からとても大きな影響を受けました。ずっとこういう研修に興味があり、村のリーダーになりたいと思っていたからです。研修を通じて自信をつけたので、村に帰ったら、私が村を変えることができると思いました」。研修の最大の成果は何かと聞かれ、彼女は答えます。「私は自分が障害者だと思わなくなりました。私は勇気を得て、生きる意欲がわいてきたからです。研修後、他の人たちと同じように生きようと思いました」

研修後、村に戻ったチャンダニは、何から始めて良いか途方に暮れていました。村には貯蓄信用グループがなかったので、ダリットとダリット以外の計20名の女性でグループを結成しました。毎月の貯蓄は、会計のラクシミ・バスネットに任せました。彼女はメンバーの希望に沿って、資金を運用する予定でした。しかし、集めたお金の使い道をめぐって、メンバーの中で意見の食い違いがあり、みなグループを去って行きました。村でこれまで誰もやらなかったグループ結成を障害者のチャンダニがやったことで村人は最初ほめてくれましたが、グループ活動の失敗で彼女は悲しみのどん底に落ちました。村の発展のために役立ちたいという彼女の夢は、道半ばでやぶれました。

「グループ活動がうまくいかなくなった時点で、私はモヒラコハートかナバジョティに連絡すべきでした。そんなに遠くなかったのに連絡できませんでした」と、自分の過ちを後悔しています。グループメンバーに尋ねたところ、彼女たちが快く思わなかった原因は、会計ひとりにお金の管理を任せたことだとわかりました。怒ったメンバーをなだめることができなかったので、それぞれが貯金した額をチャンダニが返しました。失敗の理由はわかっても、グループ活動を再開させることはできませんでした。貯蓄のお金を返却した日、自分の村が将来も「遅れた」ままでいないか、とても不安に思いました。

どうしたら失敗に終わった貯蓄・信用グループを再開させられるか、彼女は考え続けていました。最近村にできた協同組合に元のメンバーがお金を預けていることに気づきました。チャンダニは言います。「私が始めたグループは失敗したけれど、村の女性たちは貯金をするのが大事だということをわかってくれたと思います。それだけでも、村のために役に立ったのではないかと思えて嬉しいです」。他の人が始めたものであれ、協同組合は村のためにできたものだと気づき、彼女もそこで貯金するようになりました。彼女自身の試みは失敗に終わりましたが、村の協同組合がうまくいっていることは喜ばしいと思います。

チャンダニは、ナバジョティ研修センターかモヒラコハートから、誰か一度村に来て指導してくれれば、彼女の村はもっと良くなると思っています。自分で思い描いた変化はもたらせませんでしたが、障害のない人と同様に自分の人生の可能性を広げつつあります。「社会で意識の変化を求めることは容易ではありませんが、厳しい状況でも決してあきらめてはなりません」。これが彼女の得た教訓です。
5.5 家から社会を変えるデビマヤ
タナフン郡シャムガ村デウラリのデビマヤ・タパ・マガルは、母が営む飲み屋でたむろする酔っ払いの男たちを好きになれませんでした。母が酒で儲けたお金を受け取る気になれず、自分で飼ったニワトリを売って学費に充てました。頑張って勉強を続け、SLC(中等学校卒業資格)試験に合格したときは大喜びでしたが、進学したくても村に高校がありませんでした。高校のある郡庁所在地ダマウリで部屋を借りなければ、通学できません。彼女の村からダマウリまでは、まず1時間歩いたあと、25キロの道のりをバスに乗らなければならないのです。家族が、彼女の進学を認めなかったとき、目の前が真っ暗になりました。学費や部屋代を払えないのだから、家で手伝いをして過ごしなさいと両親に言われ、彼女は進学したいという希望を押し殺して過ごさなければなりませんでした。

デビマヤの家族には、祖父、両親、兄夫婦、妹が4人いました。運転手の兄ひとりの稼ぎで、10人の家族を養うのは無理なので、母が5年前から酒を造って売り、収入の足しにするようになりました。村では他の家庭でも同じ商売をしています。デビマヤは家でお酒を作って売ることがはとても嫌いでした。しかし、他に収入源がない中、お酒を作らないでと言うこともできませんでした。

時々、酔っ払いが家の中まで入って来て騒ぎました。マオイストのあるグループは、お酒を飲みにやって来て、家族をマオイストに加入させようと無理強いしましたし、マオイストの別のグループは、お酒を売ってはいけないと脅迫しました。

デビマヤは村でのこんな生活から抜け出したいと思っていました。両親も、このまま村にいては、折角教育を受けた娘もそれにふさわしい仕事を得られないし、いつかマオイストに連れて行かれてしまうのではないかと心配でした。当時、国軍は、村に隠れているマオイストの捜索をしていました。村の多くの男性がマオイストをかくまったという容疑で捕まえられました。彼女の叔父も3か月間、軍に勾留されました。

SLCに合格していたことと、マオイスト問題の犠牲者の家族だという理由で郡開発委員会に選ばれ、デビマヤはナバジョティ研修センターでの6ケ月研修に参加できることになりました。半年も娘がいなくなるのは寂しかったですが、混沌とした村からしばらく娘が離れていられることに両親は安心しました。近所の村からサヌマヤ・グルンという女性も同じ研修に行くことになったので、心配はいりませんでした。彼女は自分の希望が叶ったと、大喜びでした。

6ケ月の研修を終えて村に帰り、デビマヤは社会を改善するなら自分の家から始めなければならないと思いました。その第一歩として酒場を閉めました。それから、さまざまな収入向上事業や郡開発委員会の活動に参加するようになりました。時間を見つけては、女性たちのエンパワメントについて自分が研修で習ったことや、女の子に教育を受けさせることがいかに重要かを若者に話しました。村人が集めたお金で、デウラリ小学校でも6ケ月教えました。

郡開発委員会で地域開発基金を担当しているバラト・バンダリは言います。「デビマヤが受講したような研修は社会変化のために必要不可欠です。研修前の彼女は恥かしがりやでしたが、今は一人で郡事務所にやってきて我々と村の開発について議論するまでになりました」

近所に住むサヌマヤ・グルンと一緒に研修を受けたことで、戻ってからもデビマヤは心強かったですが、サヌマヤが結婚して遠くに引っ越してひとりになってしまったので、村を回る頻度も減りました。それでも彼女の社会活動への意欲は衰えていません。例えば、2004年2月13日、郡開発委員会の貧困撲滅基金を使って設立したデウラリ・バラユダンダ貯蓄組合の運営に関わっています。デウラリとバラユダンダに住むメンバー43人が月25ルピーを貯金した結果、現在までに20,4982ルピー集まりました。グループの代表テジラム・タパは、デビマヤが毎回グループの会議に出席し、研修で習ったことを他の女性にもわかりやすく教えていることに感謝しています。

世帯唯一の収入源だった酒を売る仕事をやめたため、家計はしだいに厳しくなりました。彼女の家族は自分の土地がないので、他人の土地で小作人として働いています。両親は3ケ月後、お酒を売る仕事を再開するほかありませんでした。デビマヤは鶏と山羊を飼い始めました。彼女は酒場をやらなくても、家族が暮らせるような収入を得たいと考えます。母は言います。「私の娘の人生はすっかり変わりました。彼女は村の多くの問題を前に自信を失ってしまったのではありません。研修で彼女はとても勇気づけられたはずです」。デビマヤはモヒラコハートのメンバーが現地訪問をしてからいっそう活動に熱中するようになりました。「みんな前進するには励ましが必要なんです」
5.6 人の成長の見本となったアルナ
タルー出身のアルナ・チョウダリは、10年前に女性リーダー育成研修を受けてから、すっかり人生が変わりました。研修前は、部屋の隅でひとりじっとしていたり、他の人の目を見て話ができないほど恥ずかしがりやでしたが、今では自分が他の人に研修をしたり、地元で行政とNGOの会議の調整をするほど活躍するようになりました。

1996年、研修に参加するためにジャパ郡からカトマンズに来ました。他の受講生は自分の所属機関から推薦されていました。彼女の場合は、カナダ人のキャサリン・ホワイト・べルナードさん
[i]の支援で研修を受けることができました。研修後、他のメンバーは自分の所属先に戻って活動することになっていましたが、アルナは研修後に仕事を探さなければなりませんでした。そのプレッシャーから、彼女は他の人たち以上に実力をつけなければならないと思って頑張りました。

1997年8月30日に研修を終えた彼女は、当時を振り返ります。「人生で初めて、村芝居を演じる中で、自分が演技をしたり、唄ったり、踊ったりする機会を得ました。私たちの芝居を観に来てくれた人たち
[ii]が、私のことをとても褒めてくれました。私でも何かできるんだと、大きな自信をつけました。そこから私の人生が開けたのです」

自分の中に芽生えた深い自信を胸に、日本人の友人
[iii]からもらった2ダースのノート、1束の鉛筆、モヒラコハートからもらった500ルピーを持って、アルナは自分の村に帰りました。それを使って自分の家で村人のための識字教室を開きました。参加者が増えるにつれてやかましくなり、夜遅くまで教えるために電気を使いすぎていることを快く思わなかった父は、アルナを叱りました。それでもアルナはくじけませんでした。アルナは言います。「私は父の言うとおりにはしませんでした。何ケ月が教室を続けた後、メンバーたちに貯蓄の重要性について話しました。自分自身貯蓄の仕組みについてもっと知りたかったので、弟に教室を任せ、イラム郡[iv]ナムサリン村のNGOに勉強に行きました」

1997年11月から、アルナの仕事の世界はすっかり変わりました。彼女はダランに本部のあるBPコイララ記念病院
[v]の地域保健指導員に採用されたのです。彼女の仕事は、カトマンズ市内ボダナート地区にあるカーペット工場を巡回してリプロダクティブ・ヘルスについて教え、避妊具を配布することでした。未婚女性が避妊具を配布し、家族計画について教えることについて、当初は気が進みませんでした。性病や、HIV/AIDSについても扱い、工場にいる患者を見つけたら、必要に応じて病院に連れて行くのも彼女の仕事でした。彼女はその仕事にも慣れていきました。彼女の献身的な仕事ぶりが認められ、彼女は普及員となったあと、現場の責任者に昇進し、ついには研修責任者になりました。

2003年2月22日から、アルナは農村自立開発センターというNGOのカピルバストゥ郡
[vi]バルワリ村で普及員として働くようになりました。再び彼女の世界は広がりました。彼女は言います。「ナバジョティセンターでさまざまな分野の研修を受けたおかげで、私はどんな種類の仕事もこなせるようになりました」。アルナはその村で1年間に7つのグループを結成しました。それらのグループは道路建設や学校補修といった地域のために役立つことを進んで引き受けるようになりました。また、幼児教室やグループ研修の運営管理の仕事も1年間やりました。

アルナの活躍に感心した農村自立開発センターは、彼女にサルラヒ郡
[vii]の調整員の仕事を任せました。新しい任地に着いたばかりの頃、彼女はこの仕事は自分には荷が重いと不安でした。それでも、郡の行政、NGOとの調整会議に出るうちに慣れていきました。当時を思い出して言います。「私は会議でサルラヒ郡の女性が置かれた状況についてわかりやすい情報を提供しました。それをきっかけに、私は調整員の役割を果たせるという自信がつきました」。彼女はサルラヒ郡で4年間過ごしました。高い報酬を得られたわけではありませんが、そこで暮らす2,900世帯から愛されていました。ジャパ郡、カピルバストゥ郡、サルラヒ郡で仕事をし、地元の言葉を学ぶ機会も得ました。彼女はアワディ語、マイティリ語、ラジバンシ語、ボジプリ語を流暢に話すことができます。

この間に経験した辛いことも忘れがたいです。カピルバストゥ郡にいた頃、マオイストに毎月「寄付」を要求されました。彼女が村回りに出かける時、自転車を無理やり止められ、何かスパイ行為をするようなものをもっていないか調べられました。彼女を襲ってやるという噂も流れ、精神的恐怖を与えられました。彼女は思い出します。「夕方になると不安になりました。当時村人が私をかくまってくれました。カピルバストゥで暮らした1年間はとても大変でした。毎晩、これが私の人生の最後の夜になったらどうしようか、と思うと本当に怖かったです」。サルラヒ郡も強盗が多いことで知られており、危ないところでした。強盗団の争いに巻き込まれて、アルナの友人ふたりが精神的痛手を負いました。彼女たちは今も病院に通っています。友人たちが倒れたことがきっかけで、アルナも2ケ月間ふせってしまいました。

紛争の影響で資金援助が滞ったので、アルナも仕事を続けられなくなりました。今、彼女は無職ですが、この時間を自分の勉強に充てています。トリブパン大学の修士課程2年に在籍しています。彼女の長い努力は、農村の女性も一生懸命頑張れば人生を変えられるという見本に他なりません。


[i] 当時アルナが働いていた家でネパール語を習っていた女性。
[ii] ナバジョティ研修センターでは修了式に研修生が学んだことを披露するプログラムがある。
[iii] モヒラコハートの会員にはバグワティ・ネパールからネパール語を学んだ日本人も多数含まれている。
[iv] ジャパ郡と隣接するネパール東部丘陵地帯の郡。
[v] ダランはネパール東部の都市。BPコイララ記念病院は東部随一の設備を誇る私立病院で、NGOとして全国で保健活動も行っている。
[vi] ネパール西部平野の郡。
[vii] ネパール東部平野の郡。
5.7 「村に戻って働きたい」ミナの望み
「シマル
[i]の木陰に座って、人夫は深呼吸した」。作詞家で歌手でもあったジボン・シャルマのこの歌はとても有名です。ドラカ郡のラムバハドゥル・ブジェルは最近、この歌をよく口づさみます。荷物を担いで彼は大きく深呼吸をします。しかし、彼が休憩できるシマルの木陰はありません。

ラムバハドゥルは、土ぼこりと排気ガスのひどいディリバザールの家具屋で人夫をしています。マオイストが家にやって来て食事を出せと要求したり、彼らの仲間に入れと強制するようになったので、村で住み続けるのは危険だと思い、カトマンズにやって来ました。16歳の娘ミナ・ブジェルも一緒でした。父はポーターとして、娘は食器洗いをしてカトマンズでの生活を始めました。それでも、彼女は生活が落ち着いたら、村に戻って学校に行く希望を捨てていませんでした。家が貧しかったため一度も学校に通うことができませんでしたが、何か手に職をつけられたらいいのにと思っています。でも、誰が学校にも行ったことのない者にそんな機会を与えるというのでしょう。

ミナは、いつの日か神様が彼女の願いを叶えてくれるに違いないと信じていました。そんなある日、親戚のひとりが、ナバジョティ研修センターについて教えてくれました。センターの責任者であるシスター・テレサに会いに行ったところ、研修費用の一部を自分で負担しなければならないと言われ、お金のない彼女はがっかりしました。彼女が研修についてあきらめかけていた時、モヒラコハートが支援を申し出ました。そうやって彼女が6ケ月間の研修を受ける夢が叶ったのです。

ナバジョティでの研修はミナの人生に知識の光を与えました。今では読み書きができるようになりました。彼女の人生に新たな希望が生まれました。研修後わずか1週間のうちに、カトマンズのカーペット工場で働く子どもたちを支援するナジェラト協会
[ii]で仕事をすることになったのです。日雇いではなく月給取りになったことに自分でも驚きました。そのお金で父を助けることができるようになりました。

ミナは真面目に働きましたが、ずっとカトマンズにいたいとは思いませんでした。それよりも、村で女性たちに研修で学んだ知識や技術を伝えたいと考えました。村に行き、自分で習った技術を教えることができたらよいのに、とミナは計画を立てていました。マオイストが1ケ月間の一時停戦をしていたダサイン休暇中、彼女の職場も休みになったので、村に帰ることができました。

ミナは、村で母から祝福のティカ
[iii]をしてもらうことをとても楽しみにしていました。しかし、村に着いて2日もたたないうちに、マオイストがやってきて人民解放軍に加わるよう強要しました。幸か不幸か彼女はその時体調を崩していたので、何とか彼らの誘いから逃れることができました。しかし、村の治安状況は悪く、緊張は高まる一方で、村から郡庁所在地までの道も交通ストなどで閉鎖されて移動もできませんでした。村で女性たちに研修で習ったことを教えることなど、とてもできそうにありませんでした。ミナは結局村を出てカトマンズに逃げ帰りました。

帰省している間、村に電話がなかったために、職場に連絡をとることができませんでした。彼女が欠勤している間に職場では、他の人が彼女の替わりに雇われていました。仕事を失ったミナの人生に再び暗い影がさしました。

ミナが元の状況に戻らないようにと、ナバジョティ研修センターが彼女に救いの手を差しのべました。彼女が次の仕事を見つけるまでという約束で住まいを提供し、センターの仕事を手伝わせています。残念ながら、ミナは村の女性たちに研修の成果を伝えることはまだできませんが、希望を失ってはいません。早く平和になって村に戻り、そこで働く日を心待ちにしています。


[i] キワタ科の太い幹をもつ熱帯樹木。Bombax Ceiba。
[ii] Najerath Society。詳細不明。
[iii] 額に赤い粉をつける祝福の印。
6. 調査結果と提言
6.1 結果

過去に研修を受けたのは17歳から40歳までの女性たちです。最も多いのは17歳から25歳までの若い女性たちです。研修時点で未婚だった17名の女性たちの中には、受講後に結婚し専業主婦となったことで、残念ながら研修で学んだことを生かすことができていない人もいます。研修後1年以内に結婚した人が3名いました。研修を受けたことで、結婚できたのかもしれませんが、彼女 たちも学んだことを社会で生かせていません。

これらの結果から、既婚で定住している女性のほうが研修の成果を生かす可能性が高いので、彼女たちに研修の機会を与えたほうが効果的だと言えます。しかし、紛争によって社会的・政治的な状況が悪化したことから研修を生かせなかった女性たちもいます。成熟した年齢の受講生は、研修で前向きな考え方を学び、家庭や社会の中で生かそうとしています。今後は、受講生たちが社会でどのような役割を担い、貢献しているか、記録していくことも重要です。

モヒラコハートを通して受講した女性たちは、研修以前、辛い経験をしてきた人ばかりです。読み書きができなかったり、自尊心がもてなかったり、自殺未遂をしたり、情緒不安定であったり、家庭が崩壊していたり、とさまざまな問題を抱えた人たちでした。彼女たちは、自分に自信をもち、自立することなど考えられない状況にありましたが、研修を通じて大きく変わり、大勢の前で話すこともできるようになりました。現在村で出会う元研修生たちの活躍ぶりを見ると、かつては苦悩を抱え、自信もなかった女性たちだということが信じられません。

ゆっくりとではありますが、過去10年間で、社会的に良い方向に向かっていることもあります。政府やNGOが遠隔地においても人々の参加を促すような活動を始めています。研修を修了した女性たちは、村に帰った後でNGOの活動に参加したり、村人たちの生計向上に役立つような研修を実施しています。何人かは政府の事業や学校で研修を受けもち、思春期の少女たちには識字教室を、村落開発委員会が行う事業の一環として裁縫や編み物教室を開いている人もいます。

修了生のなかには保健分野で活躍している者もいます。また他の者たちは 酒、賭博、迷信を止めさせるための運動の先頭に立っています。彼女たちは、こうした貢献によって、地域社会で一目置かれるようになりました。研修の最大の成果は、女性たちが自信を身につけたことです。かつて、陰に隠れて涙を飲んでいた女性たちは、今、他の人たちの涙をふく側になりました。

研修後、さらに教育を受けて自分の人生を豊かにした人もいますし、手に職をつけた者もいます。めでたく就職できた人もいれば、村で収入向上に成功した人もいます。モヒラコハートが女性の研修を支援したことは、無駄ではなかったと言えます。しかし、政府やNGOとの調整不足や、定期的なフォローアップができなかったこと、紛争や政治不安が原因で研修の成果を生かすことができなかった人もいます。

6.2 提言
モヒラコハートの支援で研修を受けた女性たちは、今後より効果的な活動を行うために、次のような提言をしています。

1) ジャパ郡のシャンティ・ライは、暴力を振るっていた夫を改心させることに成功し、今は平穏に暮らしています。一方、ドラカ郡のヒラはまだやらねばならないことがまだたくさんあります。女性への暴力をなくすためには、女性たちがグループを組織して監視をしたり、社会に対して圧力をかける必要があります。地域の組織や女性のグループは、暴力の犠牲となった女性の権利をどう守るのか、政策提言をしなくてはなりません。

2) モヒラコハートは障害者支援を主目的としているわけではありませんが、障害をもつ女性たちを優先しています。イラム郡のカビタは障害をもっていますが、研修を受けたことで地元でも一目置かれるようになり、自分で小さな商売をして収入を得るようになりました。しかし、カトマンズの障害者チャンダニは女性グループを結成してみなのために役立ちたいと考えていますが、まだ道半ばです。さまざまな機会の多い首都圏のカトマンズと、機会の乏しいイラムの村では、人々の反応も必要な技術も異なります。研修生の出身地によって教えられる内容も多様でなければいけません。

3)洋裁や編み物に関するナバジョティの研修は初心者向けです。それぞれの地域で必要な衣服を作るだけに必要な技術を身につけるためには、最低2週間の応用のきく研修が必要です。

4)村の女性たちが必要とする知識を与えるためには、リプロダクティブ・ヘルスや家族計画に関する講義に看護師など専門家も加わり、知識や技術を組み合わせた内容にする必要があります。

5) 村で仕事をしていくためには、農業に関する知識も不可欠です。農民には伝統農法をもっと効率よく行うよう働きかけなければなりません。研修中に、季節の、あるいは季節外の野菜や現金作物の栽培に関する技術的また実践的な知識を学ぶことができると良いです。

6)遠隔地から参加する研修生は多くの場合、教育を受けたことがなく、読み書きだけできる程度です。彼女たちが村に戻っても外部の支援なしにひとりで研修の成果を生かすことは難しいです。モヒラコハートは修了生が暮らすそれぞれの郡のNGOや政府の下部組織に、研修を受けた女性に関する情報を提供し、修了生が気軽に連絡し、地元で助言を得られるような仕組みを作る必要があります。

7)ナバジョティ研修センターで行われた6ケ月の寄宿型研修は、とても実用的で役立ったと、全修了生が実感しています。それでも、時が経つにつれて徐々に内容を変えていかねばなりません。また村に帰った後、どのように研修の成果を活用するか発表するための準備期間として最後の1ケ月があてられていますが、この期間に新たな知識や力が身についたとは思えませんでした。それよりも、最後の1ケ月にも研修科目を足して、他の技術を学ぶことができたほうが良いです。

8)さまざまな組織が女性に対する職業訓練を行っていますが、暴力や紛争の被害に遭った女性たちを支えたり、彼女たちが自信をつけること目的としている研修はわずかです。他の団体もこうした研修に協力し、これまで被害を受けてきた女性たちが新しい人生を手に入れることができるようにしてほしいと願います。

6-3. 修了生の声
ラメチャップ郡 ギタ・ドゥンガナ
夫が殺されてから私の人生には暗闇と絶望しかありませんでしたが、研修は光と希望を与えてくれました。これから私も社会のため役立ちたいと思います。

ジャパ郡 ビルマヤ・タマン
私は10年生まで学校に行きました。しかし、この研修で新しいことを習い、学校での勉強は本の上でのことにすぎず、これまでずっと自分は何も知らなかったと思うようになりました。研修で学んだことを村の多く人たちに伝えなければなりません。私はその責任を感じています。

イラム郡 プラティマ・ロハル
経済的な苦境にあったことと、マオイストの人民解放軍への参加を強いられたことが精神的な負担となって、自殺を図ったこともありました。研修で読み書きを含めたさまざまなことを習い、自分に自信がつきました。モヒラコハートとナバジョティ研修センターにとても感謝しています。障害と貧しさのために学校に行くことができなかった私にも研修の機会を与えてくれました。今、私は裁縫を教えて他の人にも技術を伝えると同時に、家族を助けています。

イラム郡 ウルミラ・ライ
家族で唯一の稼ぎ手だった夫が、1年前出稼ぎ先のサウジアラビアで事故に遭って亡くなり、二人の息子は孤児になりました。遺体がネパールに着くのに1ケ月かかりました。素敵な家をもち幸せに暮らすという私の夢は涙に消えました。その頃、私はモヒラコハートの代表と出会いました。彼女のおかげで私は研修を受けることができました。私は自分の小さな子どもたちと、私のような体験をした女性たちとともに苦しみを語り合える友だちになれます。私の涙を拭ってくれたモヒラコハートとナバジョティに感謝しています。

ダン郡 マヌ・グルン
私が実家に行って留守をしていた間に、夫はマオイストに殺されました。2歳の息子は私と一緒にいました。その後の私は道に迷った旅人のようでした。モヒラコハートは私のような紛争の犠牲者を支援しようと、INSECに連絡をとってくれました。それがきっかけで、私はモヒラコハートの支援を受け、ナバジョティで人生に役立つ研修を受けました。私は自信を取り戻し、現在私は警察官として働いています。人生に絶望していた私は今、息子の将来のためにも頑張っています。

資料:年度別受講生リスト(氏名、受講時の年齢、婚姻、出身地、住所、教育、参加の経緯)
2002年度   
1.シャンティ・ライ、35歳、既婚、ジャパ郡、中学卒、家庭内暴力のサバイバー


2003年度
1.マヌ・グルン、25歳、死別、ダン郡、7年生、マオイストに夫を殺害された
2.リラ・タパ、22歳、未婚、バルディア郡、10年生、兄夫婦を国軍に殺害され国内避難民となった
3.パルバティ・チョウダリ、21歳、未婚、バンケ郡、読み書き程度、国軍からマオイストの嫌疑を受け国内避難民となった

2004年度
1.ギタ・ドゥンガナ、40歳、死別、ラメチャップ郡、読み書き程度、マオイストに夫を殺害された
2.シャルミラ・カルキ、18歳、未婚、ラメチャップ郡、読み書き程度、マオイストに父を殺害された
3.チトラクマリ・シュレスタ、17歳、未婚、ゴルカ郡、7年生、マオイストに父を殺害された
4.チャンダニ・バスネット、23歳、未婚、カトマンズ郡、10年生卒、障害者、父と離別
5.ナニショバ・マハルジャン、17歳、未婚、カトマンズ郡、バランブ村、読み書き程度、経済的理由

2005年度
1.サヌマヤ・グルン、18歳、未婚、タナフン郡、10年生卒、紛争被害者
2.リラ・バタライ、17歳、未婚、ジャパ郡、7年生、両親と離別
3.アンジャナ・ラマ、23歳、未婚、マクワンプール郡、非識字、人身売買被害者
4.デビルピ・ブダマガル、33歳、死別、,スルケット郡、非識字、国軍に夫を殺害された
5.ギタマヤ・タパ、28歳、未婚、タナフン郡、7年生、紛争被害者
6.デビマヤ・ヨンジャン、20歳、未婚、ドラカ郡、10年生卒、国軍に父を殺害された
7.デビマヤ・タパ・マガル、18歳、未婚、タナフン郡、10年生卒、紛争被害者
8.ヒラ・タマン、24歳、離別、ドラカ郡、読み書き程度、家庭内暴力のサバイバー
9.ミナ・ブジェル、17歳、未婚、ドラカ郡、非識字、紛争被害者
10.カマル・ライ、20歳、未婚、サンクワサワ郡、読み書き程度、経済的理由

2006年度
1.プラティマ・ビカ、22歳、未婚、イラム郡、非識字、経済的理由ならびに紛争被害者
2.サクンタラ・チョウダリ、35歳、死別、ナワルパラシ郡、読み書き程度、マオイストに夫を殺害された
3.ニタ・ライ、20歳、未婚、イラム郡、7年生、紛争被害者
4.ガンガ・タパ、23歳、離別、カスキ郡、読み書き程度、夫が蒸発
5.ウシャ・チョウダリ、36歳、離別、ジャパ郡、夫が蒸発
6.ビルマヤ・ネムバン、28歳、未婚、ジャパ郡、10年生卒、紛争被害者
7.ウルミラ・ライ、35歳、死別、イラム郡、読み書き程度、夫死亡

参考文献
Deuba, Aruju Rana. 2006. “A Changing Roles of Nepali Women due to conflicts and its impact”, Kathmandu: Samanta Institute for Social and Gender Equality, Samanta Studies, No.6.
INSEC. 2006. Human Rights Year Book 2006.
INSEC. 2007. Human Rights Year Book 2007.

翻訳:吾妻佳代子、監訳・訳注・編集:田中雅子