紛争の爪あと-ダン郡での紛争の影響と生活再建の試み-

シュリラム・チョウダリ&バギラム・チャウダリ著
目次

出版によせて
序文
著者まえがき

1. 記録プロジェクトの背景、目的、方法

2. ダン郡の地形と歴史、紛争の影響
2-1. 地形と歴史
2-2. 紛争の影響
2-3. 紛争被害の実態
2-4. ダン郡で起きた事件

3. 紛争解決に目覚めた青年たち
3-1. SEEDの誕生
3-2. 活動内容
3-3. 活動の特徴:紛争被害者と共に働き、彼らから学ぶ
3-4. 紛争下での活動に伴う困難

4. 当事者が語る紛争の現実
4-1. ミナたちの運命
4-2. チャリの生きる希望
4-3. メギの勇気
4-4. ビニタの願い
4-5. シタの苦闘
4-6. 殺し合いのない国に-シタラム
4-7. サビットラに対する姑の裏切り

5. おわりに

参考文献
出版によせて
「社会が変化し、発展するためには、紛争は避けられず、受け容れなければならない」。そんなことを紛争に巻きこまれた人たちの前で軽々しく言うことができるでしょうか。

この本は、ネパール西部のダン・デウクリ盆地で、殺し合いに巻き込まれ、傷を負った人たちの苦悩や苦闘を、シュリラム・チョウダリさんたちがまとめたものです。ここに登場する犠牲者の遺族は皆、紛争当事者 とは関係のない人たちです。電柱として使うための木を森に探しに行く途中で国軍 に殺害された12人のダリット(不可触カースト)の人々、収穫後の12月に米の脱穀を終えて家で貯蔵作業中に国軍に殺害された人々、祭りの日のごちそう用に水牛の肉を切り分けている時に国軍の誤射で亡くなったタルーなど先住民族の青年たちです。

夫を国軍に殺されたラダ・ネパリは、10歳の娘と4歳の息子を残して自殺しました。このような話を聞くと、心にガラスの破片が突き刺すような痛みを感じます。野蛮な者たちの戦いに、罪も無く巻きこまれ、打ちのめされた、無力な遺族たちのことを想像してみてください。家族の大黒柱を国軍によって奪われた後、生活の糧を失ってしまった遺族たちはどのように生きているのでしょうか。ダン・デウクリ盆地の遺族たちの苦しみや悲しみ、そして彼らの奮闘は全国の紛争被害者たちに共通するものです。

政府とマオイストの和平協定により、現在ネパールは停戦状態となっています。少なくとも武器を持つ者たちは、誰も殺したり、誘拐することができません。過去に国軍の横暴さが国民から非難された時、「軍隊の威信を落とすことは許されない」と言い訳した首相や政治家たちは今、政策や方針は変わったと自らに言い聞かせています。マオイスト党首のプラチャンダは、紛争は終わったと宣言しており、ネパールは新しい時代に入ったと言っています。政府側も、マオイスト側も、ネパールは今、世界の見本となる平等な社会を目指して新らたな政治を行い、スイスやシンガポールのような繁栄を達成して世界を驚かせることができる、と主張しています。紛争で両親を亡くし孤児となった子どもたちが、スイスやシンガポールの生活を夢見るかどうか定かではありませんが、政府は、彼らに冷えた体を温めるセーターを与え、空腹を満たし、病いを癒すことを最優先に行うべきです。それがこの本が訴えていることでもあります。

2006年11月
ネパール・キルティプール市
トリプヴァン大学社会人類学部               
ダンバル・チェムジョン
序文
2001年11月23日、ダン郡の郡庁所在地ゴラヒにある国軍司令部をマオイストが攻撃しました[i]。事件から3日後、政府はネパール全土に非常事態を宣言し、外出禁止令を出しました。他地域で非常事態宣言が解除された後も、ダン郡では断続的に4年半もの間、夜間外出禁止令が出されていました。その間に起きた事件の記録から、この『紛争の爪あと』という本が生まれました。関係者のプライバシーに配慮して、事件と直接関係のある写真は掲載していませんが、私たちSEEDの活動地で起きた事件をもとに、紛争で混乱する市民たちの暮らしや思いをここに記録しています。11年前に始まった紛争は、2006年11月21日にマオイストと政府の間で和平協定が成立し、平和構築のために関係者による努力が続けられています。これは非常に喜ばしいことです。いつか再び非常事態宣言が出されることがないように祈りましょう。

紛争の苦しみを経験した子ども、青年や女性、そして彼らを支援する仕事をしてきた団体の職員たち、彼らすべての協力により生まれた本書は私にとっても特別な意味があります。本書はそのような人々でも本を書くことができること示し、彼らに自信を与えるでしょう。そして、また一般の方々にもSEEDの活動を理解していただく機会になると思います。本書の出版により、勇気を持って自らの苦悩を公にする紛争被害者が増えていくと私は信じています。

本書のための取材は、関係者にとって全く新しい仕事であり、初めての試みでもあったので、かなりの精神的重圧になったかと思われます。しかし、彼らの忍耐強い、命がけの仕事のおかげで、本書は出版されることになりました。取材班のリーダーであるシュリラム・チョウダリさん、メンバーのアムリタ・チョウダリさん、レカ・サハさん、プルナ・チョウダリさん、デベンドラ・チョウダリさん、アプサラ・パリヤルさん、マン・バハドゥル・チョウダリさん、サントス・チョウダリさんに感謝します。そして取材に応じて下さった方々にも感謝の気持ちでいっぱいです。彼らは自らの人生経験を公にすることに協力してくれました。

本書の出版を支援して下さった庭野平和財団、「平和のための市民による紛争の記録プロジェクト」のコーディネーター、田中雅子さんにお礼を申し上げます。出版費用だけでなく、取材に関する助言や、技術面でも支援もしていだきました。また、編集の段階で助言をくれた親友クリシュナ・サルバハリさんに心より感謝します。今後も皆様から支援、助言をいただければ幸いです。

ダン郡 トゥルシプル市
SEED会長バギラム・チョウダリ

[i] 2001年7月、政府とマオイストは停戦を宣言し、8月から和平交渉を行っていたが、11月23日のゴラヒ攻撃で、マオイストは停戦を破棄した。11月26日、政府は国家非常事態宣言を発令し、マオイスト掃討作戦として当時の王室ネパール軍を全面展開させた。
著者まえがき
平和は人類にとって最も大切なことですが、一方で、紛争もまた人間が起こす社会変化だという側面があります。歴史をさかのぼって見ると、世界は古代から大きな紛争と変化を繰り返しています。これは自然なことです。社会のあらゆるところで暴虐や不正行為が激化しており、恒久の平和のためと称して正当化される紛争は避けることができないと言われています。事実、社会変化を促すのは一般市民であり、民衆への圧力が社会変化を引き起こします。しかしながら、歴史には一般の人々の貢献はめったに書かれることはなく、政治家や紛争を起こした者たちの行動、歴史だけが記録されるのです。民衆の血、汗、貢献が扱われることはほとんどありません。このような想いから、SEEDはこの小さな本を通じて、ダン郡の人々の記録を始めました。この調査と記録によって、少しでも多くの人々が次の世代に自分たちの紛争体験を公表する勇気を得ることを願っています。

SEEDの理念は、民衆の心の声に支えられており、貧しいダリットや先住民族を側面から弁護することを活動目的にしています。この小さな本には、彼らが過去に背負った苦境についてのエピソードが記録されています。紛争により困窮状態にある子どもや女性たちの経験を、とりわけ多く取り上げました。紛争の状況下で、彼らはどうやって心の平静を保つことができたのか?彼らはどのように生活し、他の人々に平和に生きていくすべを教える勇気を持ち続けることができたのか?このような疑問への答えがこの本には書かれています。

この本を読んだ後、必ずや読者は、紛争の中でダンのタルーやダリットがどのような恐怖を味わったのか、現実のものとして感じることができるでしょう。この本には、小さな子どもたち、女性たち、青年たち―彼らの紛争状態における生活、歌、話、絵が紹介されています。これらに接することで、調査をした私たちも力づけられました。

この本は、高い教育を受けた者だけが物を書き、本を出版できるのだという先入観を変えるものと信じています。それだけではありません。紛争によって被害を受けた子どもと女性たちの身の上に現実に起きている苦難を聞く中で、こうした記録活動を継続する必要性を感じました。そして苦難の経験者自らが記録活動に関わったことで、彼らも知識や技術を得ました。

SEEDは紛争下で活動をしてきましたが、記録と本の出版の面ではとても遅れています。そんな中、「平和のための市民による紛争の記録プロジェクト」で技術面、財政面で支援をしてくださった庭野平和財団と、そのコーディネーターの田中雅子さんに感謝します。彼女の支援なしではこの出版は不可能でしたし、紛争で心の傷を負った子どもや女性たちの声が外に出ることもなく、私たちの記録活動の成果もノートや非公式な報告書という形でしか残らなかったでしょう。そしてこの記録の協力者アムリタ・チョウダリさん、レカ・サハさん、プルナ・チョウダリさん、デベンドラ・チョウダリさん、アプサラ・パリヤルさん、マン・バハドゥル・チョウダリさん、サントス・チョウダリさんに深く感謝の気持ちを表したいと思います。

本の編集で貴重な時間を費やしてくださった、クリシュナ・サルバハリさんに心から感謝します。そして本のために貴重な時間を費やし、序文を書いてくださった文化人類学者のダンバル・チェムジョンさんにも感謝します。この活動に直接または間接的に関わってくれた子どもたち、女性たちを含めすべてのダンの市民にこの本を捧げます。
 
「平和のための市民による紛争の記録プロジェクト」
ダン郡チームリーダー
シュリラム・チョウダリ
1. 記録プロジェクトの背景、目的、方法
紛争とその実態については世界中で無数の本が出版されていますが、紛争当事者か、あるいは紛争とは直接関わりのない研究者が書いている場合がほとんどです。そのような本には、一般の市民の視点からの記録はごくわずかしか含まれていません。どんな紛争も人々に困窮をもたらし、そうした経験を記録する必要があると考えられていますが、そのような本はあまり見受けられません。

とりわけネパール国内にはそのような本は全くありません。だからこそ、貧しく、力のない、底辺で生活をする人々の思いを記録するのは重要な仕事です。そんな思いから、「ダン郡における紛争の影響と生活再建の試み」というテーマで本を書く作業を始めました。

<目的> 
私たちの調査の目的は4つありました。
1) 紛争被害者の生活実態と彼らの経験を記録する。
2)紛争の実態と平和構築のための活動を記録する。
3)記録活動で学んだことを分かち合う。
4)記録活動を通じて紛争被害者を力づける。

<方法>
この本は、紛争被害者の日記や体験談、事件の調査など直接的な観察をもとにしています。事実関係を確認し、さらに真実に近づくために、過去に出版された本や報告書も参照しました。

<調査地>
学術研究ではなく市民の記録なので、調査地域を選択するにあたって、私たちが普段活動しているところで調査を始めることにしました。SEEDがダン郡で活動している場所を選択しました。私たちが自身が出かけて行って、記録の過程で助言をすることができるからです。

<参加者> 
この記録活動のためだけの特別な調査グループは結成しませんでした。調査地域の子ども、女性、成人、老人たち自身が参加者になりました。ただし、記録活動がうまく進むように、チームリーダーと記録を担当するボランティアを募ることにしました。
 
紛争の被害を受けた人たちから協力の意思を取りつけると、私たちは実際に記録活動に参加するボランティアを選びました。地域の住民であること、可能な限り紛争被害者であることを条件に、最近高等学校卒業資格試験を合格した者から、12年生の学生までを対象としました。彼らは2006年7月29日、ダン郡のトゥルシプール市に集まり、研修を受けました。『平和のための市民による紛争の記録プロジェクト』のコーディネーター田中雅子さんが彼らに日記や文章の書き方を指導をしてくれました。研修によって調査グループの意欲が高まりました。そしてこれまでに行ってきた活動が整理され、確実なものとなり、記録活動の助けとなりました。
2. ダン郡の地形と歴史、紛争の影響
2-1 . 地形と歴史

ダン郡は首都カトマンズから400キロメートル、バスで約12時間のところにあります。ダン郡は海抜213メートルから2,048メートルの高さにあります。郡の面積は29万5000ヘクタールです。ダン郡の地形はユニークで、ふたつの盆地の合流点になっています。そのひとつはダン盆地、もうひとつはデウクリ盆地です。ダン盆地はマハバーラト山地とチュレ丘陵[i]の間にあり、デウクリ盆地はチュレ丘陵とドゥダワ丘陵の間に広がっています。郡内は北部の山地と接する丘陵地帯、チュレ丘陵とそれに囲まれた低地、内部タライの3つに区分されています。

ダン郡には39の村とふたつの市があります。人口は46万2380人です(2001年国勢調査)。うち男性は22万8958人、女性は23万3422人です。民族・カースト別に見ると、タルーが14万7328人、チェトリが10万5146人で、マガルが5万5711人、丘陵地出身のバフンが4万8806人と続きます。ダリットも5万人弱[ii]、他にサンヤシ、ヤダブ、タクリ、ムスリム、ネワールなどが住んでいます。

新石器時代からこの郡にはタルーが住んでいました。デビット・セドンによるとタルーはここに約30万年前から住んでいるとのことです[iii]。「ダン」という郡の名前は、約5千年前にここを統治していたタルーの王様、ダンギシャランに由来しています。

ダン郡は歴史、考古学、経済、政治、社会、文化のすべてにおいて特徴のある場所です。ダンはタルーが暮らしてきた肥沃な土地です。ネパールで土地改革が行われる前はタルーだけが住んでいました。しかし、マラリア撲滅事業[iv]が実施されると、彼らはこの地域から移動し始めました。政府が1912年に測量を実施する前は、ダンの土地所有者の9割がタルーでした。時が移り変わり、タルー以外の人々が移住して来ると、政治的な力をもつ彼らがタルーの土地を奪ってタルーを債務労働者カマイヤとし、タルーとそれ以外の民族が対立するようになりました。これがダンにおける紛争の歴史の始まりです。自分たちが失った土地の権利を奪い返すためにタルーは苦闘しました。土地獲得運動の先導をしながら、「土地は耕す者のものだ!家はその壁を塗った者のものだ!」と、スローガンを大きな声で叫んだ、ダンの農民主導者グムラ・タルーは1960 年7 月21日、統治者によって射殺されました。

このようにタルーに対する多くの抑圧、残虐、搾取の長い歴史があります。これに対し、タルーの政治家たちはパンチャヤット制[v]が始まった頃から、彼らの権利のために命がけで抗議を行ってきました。しかし、タルーは利益を得ることはできませんでした。利益を得るのは新たに土地所有者となったタルー以外の者だけでした。1990年以降の政治の変化が起きても、タルーは何も獲得できませんでした。搾取と謀略による変化があり、物事の核心には何も変化はありませんでした。このためタルーたちの間で、国と統治者に対する憎悪が増していきました。

2-2. 紛争の影響
当初ダンではマオイストの影響はそれほどありませんでしたが、マオイスト発祥の地であるロルパ、ルクム、サルヤン郡の近くでもあり、マオイストにとっては戦略上の拠点だったので、その影響も次第に増していきました。政府による一般市民への統制が、マオイストの活動を一層激しくしました。戦いが激しくなると、国とマオイストはダンで自分たちの影響力を誇示し合い、競い合うようになりました。その争いの犠牲者はダンの貧しいタルーやダリットなど、権力を持たない人々でした。

2001年11月23日、マオイストがダン郡の郡庁所在地ゴラヒを襲撃しました。この事件で14人の国軍兵士を含む37人の治安要員が死亡しました。ここでマオイストは多くの武器を獲得するのに成功しました。この襲撃で、政府との和平交渉は決裂しました。政府は11月26日にネパール全土に非常事態宣言を出したため、さらなる緊張が生まれ、ダンの治安は悪化しました。興奮状態でやってきた武装警察官は、郡のさまざまな場所で力づくの治安維持活動を始めました。

そんな状況下、非常事態宣言が出て5日も経たない間に、国軍がダン郡のバルガッディ村で11人の罪のないタルーの農民を殺害しました。報復のためにマオイストが有志を集めた結果、地元タルーの青年たちはマオイストの兵士として参加しました。素朴なタルーの人々が住んできた村は戦場へと変わりました。四方八方で泣き叫ぶ声がしました。

2-3. 紛争被害の実態
国家人権委員会が2006年8月30日に公表した統計によると、2001年以降、ネパール全体で936人が行方不明となっています。うち(当時の)政府側によって行方がわからなくなった人は563名、マオイスト側によって行方不明となった人は315名、どちらかわからない人が58名となっています。ダン郡では、政府によって行方がわからなくなった者が66名、マオイストによる者が2人、計68人の消息がわかっていません。

<死亡者数>
ネパールの人権団体INSECによると1996年2月13日から2006年9月9日までにダン郡で合計686人が死亡しています。うち、国軍によって殺された人の数は422人で、うち女性10人、男性312人、残り100人の性別がわかっていません。マオイスト側によって殺された人の数は264人で、女性7人、男性257人となっています。この統計で両者ともに男性の死亡者が多く、国軍はマオイストの倍以上の人を殺していることがわかります。

-----------------------------------女性/男性/性別不明/合計
国軍の攻撃による死者------ 1 0人/312人/100人/422人
マオイストの攻撃による死者 7人/257人/-/264人
合計------------------------------ 17人/569人/100人/686人
 
<死亡者の民族・カースト別内訳>
最も死亡者が多いのは、チェトリです。この地域の研究者バラト・ダハル氏によると、チェットリの人々は代々、治安関係の仕事に就くことが多く、マオイスト、国軍の両者の兵士として死亡者が多く見られるからです。最も人口の多いタルーは、死亡者数では2番目に多い200人です。ギャン・ジョティ小学校のメガ・ラジ・ギミレ校長は、その理由として、マオイスト、国軍の兵士にもタルーがいるからだと言います。また知識人たちは、国側が一般のタルーをマオイストだと疑い、罪のない人々を殺す事件も少なくないからだと見ています。


カースト/ 郡の総人口(2001年) /死亡者の数(2006年まで)
チェットリ/105,146人/220人
タルー/147,328人/200人
マガル/55,711人/88人
ダリット(カミ、ダマイ、サルキの計/44,921人/78人
丘陵地出身バフン/49,906人/58人
ネワール/4,094人/14人
その他/55,274人/28人
合計/462,380人/686人

[i] インド国境に近いタライ平野の一部には、山地から流出する河川が運んだ地層からなる急峻な地形チュレ丘陵がある。その南側をタライ平野、丘陵によって囲まれた北側の低地をインナータライ(内部タライ)と呼ぶ。
[ii] 郡別人口統計では、カミが24346、ダマイが12349人、サルキが8226人という統計があるが、バディ等、他のダリットの人口の詳細は不明。
[iii] 開発学者、David Seddonの著作を引用していると思われるが、出典不明。
[iv] 1960年以降に実施され、丘陵地からタライ平野への移住奨励政策につながった。
[v] 1959年にマヘンドラ国王が導入した、国、県、郡、市町村各レベルの評議機関パンチャヤットが全国を統治する仕組み。1990年の民主化まで続いた。
2-4. ダン郡で起きた事件
<カリャン村事件>

2001年11月23日ダンの郡庁所在地ゴラヒで起きたマオイストによる攻撃で、国側は2001年11月26日、トリブパン市第3区バルガッディ村の貧しいタルーの農民に怒りをぶつけました。カリャン地区で地主との折半で農作物を配分していた農民を、マオイストだと決め付け、一度に11人を殺害したのです。この事件でジャグマン・チョウダリ、シタラル・チョウダリ、クリシュナ・チョウダリ、アサラム・チョウダリ、チョナ・チョウダリ、チズ・チョウダリ、ビクラム・チョウダリ、ラクシマン・チョウダリ、クシラム・チョウダリ、ソンラル・チョウダリ、プラサド・チョウダリが死亡しました。

<ウルハリ村ディリラジ暴行事件>
2002年4月1日深夜1時、突然ドンドンとドアを叩く音で、ウルハリ村に住む58歳のディリラジ・アディカリは目を覚ましました。「誰だ?」と彼は尋ねました。「ダイ(兄貴)、ちょっと下に来てくれ」という声は、彼には知り合いのように聞こえました。村の誰かに何かあったのかと、彼は急いで下に降りようとしました。「こんな夜遅くに何で外に行くの?」と息子の妻が止めましたが、彼は「すぐ戻って来るよ。村の誰かに何かあったらしい」と言って、下に降りてドアを開けました。ドアの外にはマオイストが集団で立っていました。マオイストは「お前にちょっと用がある」と言って、家から少し離れた村の交差点まで連れてゆき、激しい暴行を加えました。彼は両足と背中を骨折しました。治療費は家族が3万5千ルピーを支払い、残りは政府が負担しました。治療をして彼は生き延びることはできましたが、身体に障害が残りました。マオイストは彼を国側のスパイと疑って暴行したのでした。その後、支援を受けることもできないままディリラジ・アディカリは現在、2人の息子夫婦と孫3人と一緒に、障害者生活を送っています。

<ペンデャ祭事件>
2001年12月9日、ラクシミプル村のベルワで、タルーの農家が米など穀物の収蔵を祝うペンデャ祭を行っていました。朝から食べたり飲んだりした後、夜は歌ったり、踊ったりしていました。その時でした。家の周りを国軍が包囲し、突然発砲して11人が死亡しました。事件後、直ちに国軍は、罪のない村人たちを、外出禁止令を破ったマオイストだという声明を出しました。

<わら葺き屋根事件>
2002年6月17日、ベラ村のカトゥベルワで人々が屋根のわらを葺き始めていたところ、軍の調査団が村人7名を拘束しました。そのうちチャトゥク・バハドゥル・チョウダリとガネシュ・チョウダリが拳銃によって殺害されました。残りのウダヤラム・チョウダリ、ハリラル・チョウダリ、ケダルナト・チョウダリ、ダニラム・チョウダリ、ビムバハドゥル・チョウダリはマソト川で殺害されていました。
 
<ラジャコット村ジャングル事件>
ゴルタクリ村カウワガリの人たちは、2002年6月30日、村に電気をひくため、電柱になる木を切りに森へ行きました。村人たちは3つのグループに分かれてジャングルに入りました。これらのグループには一般人を含め、村落開発委員会の委員もいました。ジャングルに行く途中の道で、ラジャコット・タワー(通信塔)の警備をしていた兵士と2番目のグループが遭遇しました。最初のグループは先に進んでいて、もう一つのグループは後ろにいました。兵士は斧を持っていた彼らをマオイストだと決めつけ、自分たちの基地へ連れて行きました。

村人たちは自分たちの名前、住所、仕事、森へ行く理由を言いました。そして自分たちがマオイストではないことを証明するため、ラジャコット・タワーにいる知り合いの兵士の名前も言いました。しかし、「運命は神様でさえ止められない」と言うように、兵士たちの疑惑を解くことはできませんでした。彼らは服を脱がされ、目隠しをされ、12人が拳銃で殺害されました。死亡者はすべてサルキ(ダリットのうち皮革職人のカースト)の人々でした。基地に連行された村人の一人、ソバラム・ネパリは絶壁から飛び降り、逃亡に成功しました。彼がこの事件の証言者です。死亡者の遺体は返されず、遺族にさらに悲しみを与えました。死亡者の中で未婚者は1人、結婚したばかりという人が1人、10人が結婚していて子どももいました。

事件直後から、SEEDの協力でデブ・バハドゥル・サルキをはじめ、12人の犠牲者の遺族が国家人権委員会に損害補償のために嘆願書を出しました。2005年5月17日、委員会は村人たちは無実であるとの判決を下し、遺族に補償金としてそれぞれ5万ルピーを支払うよう国に命じました。SEEDはダンの役所に補償金を遺族に与えるよう働きかけましたが、まだ支払われていません。そのため、その後も引き続き国家人権委員会に申し立てを行っています。
 
一家の稼ぎ手を亡くした家族は混乱に陥りました。少しでも家族の支えになるようにという目的で、SEEDが編み物と絵の3か月間の研修を行いました。研修では、彼らに悲しみを共有する機会を与えました。そして彼らは自分の子どもや自分のためのセーターを編むことができるようになりました。SEEDは遺族の子どもたちが学校に行けるよう、必要な制服も準備しました。このように自分の子どもが学校に行くことができるようになると、遺族も少しずつ生きる意欲が湧いていきました。

SEEDは、山羊や豚の肥育や畑仕事、小商いなどのように、彼らに必要な職業の訓練や支援もしました。仕事を始めると、家の中での小さな問題も自分たちで何とか解決できるようになりました。村では人権教育も始めました。これらの支援で、村人たちに悲観的な姿勢から前向きな姿勢への変化を促しています。

<ティージ事件>
ラジャコット村ジャングル事件の約2ヶ月後、フルバリ村のバクレで2002年9月8日にもう一つの大きな事件が起きました。村人たちは、ティージという祭りのためにごちそう用に水牛を切り、肉を分け合っていました。その時、国軍はマオイストの一集団を追跡していました。マオイストたちは、その肉を分けていた村人たちの近くの道を通って逃げていったので、国軍は村人たちをマオイストだと思い込み6人に発砲しました。ラムクマル・ネパリ、トプバハドゥル・ビカ、マノジ・ネパリ、チュダマニ・シュレスタ、ダルム・ネパリ、トプ・バハドゥル・ネパリはその場で死亡しました。国軍はそこにいたプナラム・ビカとバクタ・バハドゥル・ネパリに穴を掘らせ、死者を埋めさせました。そして、この2人にも暴行を加えました。薬の治療では良くならず、2003年10月にプナラム・ビカ、同年11月22日にバクタ・バハドゥル・ネパリも死亡しました。このようにして、この事件では計8人が犠牲となりました。

<ハリラル・ダンギ殺害事件>
2004年5月22日、フルバリ村のダマルに住む45歳のハリラル・ダンギにマオイストたちは約1時間の道を歩かせ、ダクナ村に連れて行き、明け方4時頃、首を切り殺害しました。彼は森林管理委員会と学校運営委員会の委員長でした。マオイストから、公共の森林と学校の予算に絡む贈収賄容疑、スパイ容疑をかけられていました。現在、彼の4人の娘と1人息子、妻は村で苦労しながら生活しています。

3. 紛争解決に目覚めた青年たち
3-1. SEEDの誕生

2001年11月23日のゴラヒ襲撃後、国はマオイストに対して厳しい取締りと諜報活動を始めました。一方で、マオイストも国のこのような姿勢に対抗するため、さまざまな場所で繰り返し事件を起こしました。立て続けに起きた上述の事件が、地元タルーの青年たちの心を動かしました。なぜなら、犠牲者の大部分がダリットやタルーなど貧しい人々だったからです。国やマオイストは、なぜ、ただでさえ貧しいダリットや先住民族を紛争に巻き込むのか、自分たちの目の前でこのような事件が起きているのに見て見ないふりをすることができるのか、ということを深く話し合うようになったのです。このような話し合いのなかから、問題意識に目覚めた青年たちは、皆で協力して紛争の解決のために活動することを決意し、SEEDが誕生しました。

Society For Environment Education Development (SEED)は非営利組織として2001年に設立されました。設立の年にカトマンズで社会福祉協議会に登録し、2003年にはダン郡のNGO連合会とNGO調整委員会に登録をしました。その主な目的は、人々の意識を向上させ、彼らの生活を改善し、権利の確保のために人々を組織化することです。SEEDが支援するのは紛争犠牲者、貧困層、ダリット、孤児、寡婦、老人といった人々です。活動分野は、平和、ガバナンス(良き統治)、初等教育、子どもの権利です。

設立以来、SEEDは社会を深く分析し、広い視野を持ち、地域社会や一般市民、国内・国外の組織と協力しながら紛争の解決に努めてきました。その結果、貧困の原因を解決できなければ紛争の解決もできないという認識のもとに、貧困削減と紛争解決のための様々な活動を行っています。

危険な環境のなかで紛争被害者のための活動を開始するにあたって、SEEDは村落開発委員会の人々と、支援の方法について何度も話し合いました。紛争が頻発する最中での活動はとても危険でした。どのように危険を最小限に抑えるか、常に意識しなければなりませんでした。地域の人々の助言と提案により、小さな規模でSEEDは活動を開始しました。

3-2. 活動内容
2001年から2003年にSEEDは、マンプル、ディクプル、ハルワル、ウルハリの各村落開発委員会から活動資金を得ました。他に、ゴルタクリとフルバリの村落開発委員会も活動に協力する意思を表明しています。村人の知識や技術を積極的に活用して、紛争被害者のために活動する計画を立てました。それは、紛争で被害を受けた女性のための3か月間の初級編み物研修と絵の研修でした。これら6つの村落開発委員会で、紛争の被害を受けた女性たちを一箇所に集めて、悲しみを共有する機会を与えたのです。この最初の活動で、私たちは、紛争被害者の心の痛みを理解し和らげることができました。

先住民開発基金(National Foundation for Development of Indigenous Nationalities: NFDIN)は 、SEEDがタルーの調査を行っていることに注目し、SEEDと共同でタルーの歴史をまとめました。この活動により、タルーの歴史を収集し記録する仕事ができました。こうして、地域レベルや国レベルの組織、さらには国際的な団体とも仕事をする機会が増えていきました。アクション・エイド(イギリスを代表する国際NGOのひとつ)とSEEDの協力による、ダン郡の持続的な平和と安全のための活動は、現在まで続いています。

さらにSEEDは、2003年から2004年までDFID(イギリス政府国際開発援助庁)の地域支援活動に協力し、経験を増やす機会を得ました。2003年にはUNDP(国連開発計画)の、平和と開発のための短期事業に協力しました。2005年には、日本のNGOであるシャプラニール=市民による海外協力の会と、解放後のカマイヤ(債務労働者)たちの経験交流集会と相互訪問研修を行いました2006年7月からは、セーブ・ザ・チルドレン・ジャパンと紛争犠牲者の子どものための教育活動を行っています。この他、郡開発委員会や保健所、ラプティ眼科病院とも一緒に活動しています。
 
3-3. 活動の特徴:紛争被害者と共に働き、彼らから学ぶ
紛争被害者、貧しい村人、ダリット、そして先住民族を支援することは、非常に困難で、私たちにとって危険を伴うものでした。マオイスト側と国軍側の双方の紛争被害者を公平に支援するにはどうしたらよいのか、私たちは問い続けました。

SEEDの活動方法の特徴は以下のようにまとめられます。
・紛争下で他団体の活動が制限されている場合でも、紛争被害者、貧しい村人、ダリット、 先住
 民族に対し資金・物資面および精神面での支援を続ける。
 ・組織の中央委員、幹部、メンバーは人口比に応じて、ダリット、先住民、女性から構成される。
 ・登録開始時から村落開発委員会と協力関係を築く。
 ・地元の人々の技術や能力を使って、紛争解決のための活動を行う。
 ・紛争被害者たちの中でも被害を最も多く受けた女性や子どもを中心とした活動を行う。
 ・他団体の支援が届かない、僻地や恵まれない貧しい地域で活動する。
・他者を信じることができなくなってしまった紛争被害者たちが、団結できるようになるための環境 
 を整える。
 ・紛争被害者たちに再び苦痛を与えるのではなく、希望を与える活動を行う。
・女性のグループ活動支援を通じて、紛争被害者が自らの苦痛と喜びを分かち合う機会を作る。
 
紛争犠牲者の家族の顔合わせでは、人々はたくさんの悲しい経験や苦悩を語り合いました。そうやってSEEDは日々、紛争被害者たちに少しずつ近づいていきました。私たちが活動を始めたばかりの頃、女性や子どもたちは、悲しい経験を語り合うための集まりでも、自己紹介をする時に他の方を見たり、下を向いたりし、なかには全く話せないこともありました。何人かの子どもたちは、知らない人を見た途端、国軍やマオイストが来たと思って、家のなかに隠れることもありました。

紛争被害者たちは見知らぬ人々と話をすることを好まず、こちらが会話を始めても、発言せずに涙を流すだけでした。そんな時は、慰め、励まし、辛抱強く彼らから話を聞き出す以外、なすすべがありませんでした。しかし、ゆっくりと話し合いながら、すべての参加者と親しくなり、信頼関係ができると、彼らとSEEDの関係も近づきました。そうやってSEEDはいつでもどこでも彼らと自然に活動ができるようになりました。不安を見せず、常に彼らを弁護し、彼らの心や表情にどうやったら喜びを取り戻すことができるかを考えながら、私たちは前進を続けました。

地域の人々の信頼を得て良い関係を築けば、私たちはどんな環境でも活動できます。地域と協力しながら活動することで、住民と私たちの距離はとても近くなりました。村で何か事件が起きても、すぐに報告し、すぐさま状況を判断して、話し合い、助け合うので、私たちの活動は順調に発展してきました。地域の人々と情報を交換したり、警告したり、伝達するためのシステムをつくったので、私たちの活動に対しても彼らから信頼を得ることができたのです。
 
SEEDは、地元の青年たちのチームを設けて、紛争下の厳しい条件のなかでも野外での調査など様々な活動を行っています。そのような過酷な任務に伴う苦痛や困難について、ソーシャルワーカーのデベンドラ・チョウダリさんはある日の日記にこう書いています。「2002年6月16日、私は調査のためにカウワガリ村に赴いた。村は国軍に取り囲まれていたが、私は身分証明書を携帯していなかったため、いったいどうなることかと、とても恐ろしかった。しかし村の女性たちが、この人は私たちの村に住んでいる人です、と言って救ってくれた。この体験を通じて私は、紛争下の厳しい条件でも活動を続ける自信を得たのだった」

私たちは、地域の人々の知識や技術を私たちの活動計画に取り入れ、重要な手段として活用しました。そのため、過去に紛争下で活動した経験がなくても、人々から教えられながら活動を続けることができました。一般の人々が知識の源でした。紛争に関わる事件を目の前で見た子どもたちは、その脳裏に深い傷跡を残しています。そのような子どもたちが、普通の環境で毎日を過ごすことができるようにと、学校で子どもクラブを結成し、さまざまな行事を始めました。ある行事のときに「ラリグラス子どもクラブ」のプラミラ・チョウダリが、平和について、次のように唄いました。
  私たちの国に平和を持ってきて
  銃を持つ手でペンをつかんで
  勉強するのが私の望み、私を学校に行かせて
  銃を持つ手でペンをつかんで・・・

サンディプ・ゴウタムも唄いました。
  ネパール人が外国へ行かないように
  悲しみの涙を流さないように
  今日の私たちは小さいけれど明日はリーダー
  子どもの権利を守ろう
 
スシラ・ビカをはじめとする3人の子どもたちが一緒に唄いました。
  この国に平和が来るのは難しい
  子どもが学校に行くことは難しい
  話し合いをしてください
  民主主義だけではなく、平和の種をまいて
 
これだけではありません。子どもたちのこのような歌、詩、小説などの作品を使った「子どもカレンダー」も出版されています。

3-4. 紛争下での活動に伴う困難
私たちの団体は、もともと紛争下で誕生しましたが、その後も、マオイストから何度もいわれのない嫌がらせを受けました。理由もなく、小さな口実を作っては、昼夜を問わず、遠くのジャングルの奥まった場所に呼び出し、わたしたちの活動について詳細な報告を迫りました。「私たちの部隊に登録しなければ、どんな仕事もさせない。さもなければスタッフを暴行する。私たちの部隊と協定を結び、仕事をしなければいけない。さもなければ活動禁止だ」、などと脅迫し、精神的苦痛を与えました。そして政府側も治安部隊が何度も私たちを調査し、気に入らないことがあると厳しく接しました。ある日、SEEDのリーダーが活動地域を訪ねた時に、道で偶然出会った国軍は、彼を尋問して鞄やポケットを調べ、手帳を取り上げて電話番号を調べました。彼をマオイストではないかと疑い、1時間拘束し、精神的苦痛を与えました。

SEEDのリーダー、バギラム・チョウダリはある事件のことを日記に次のように書いています。「2004年4月3日だった。私たちがジープで活動地のカウワガリに向っていると、フルバリ村のダカナで、マオイストが私たちのジープを止めて火をつけようとした。私がSEEDの活動について説明すると、彼らはジープに火をつけるのを止め、私たちに協力することさえ約束した。しかし実際には、この日から私たちの活動はとても困難なものとなった。なぜなら毎日マオイストと会って、私たちのすべての活動について詳細な報告をしなければならず、組織の運営についても詳細に陳述しなければならなくなったからである。このように大変危険な状況にもかかわらず、私たちが行うそれぞれの活動について目的をはっきりさせ、地域社会のなかで中立な立場で犠牲者遺族のために活動を行ったので、逆境のなかでも私たちは活動を続けることができたのだった」

他の政党も私たちの活動を疑いの目で見ていました。このように四方八方から困難な状況に追い込まれた時も、SEEDはその目的と目標を見失いませんでした。外部の問題に対しては粘り強く解決の手段を探し、社会のために役立つことだけを考えて活動を続けてきました。危険な状況下でも冷静に二つの銃の間に留まって、紛争解決のために努力してきました。

SEEDのためにマンプル村の村落開発委員会が事務所内の部屋を提供してくれました。ところが2002年11月、マオイストが村落開発委員会事務所を攻撃し、SEEDの資財5万ルピー相当も損害を受けました。SEEDは損害賠償を要求しましたが、マオイストはSEEDの損害に同情はしたものの、賠償しようとはしませんでした。しかし最後にはマオイストも謝罪の意を伝えてきました。この出来事で、SEEDは危険な状況下でも活動を続ける自信を得たのです。

4. 当事者が語る紛争の現実
4-1. ミナたちの運命

「家の止まり木で鳴くカラスは、何かの知らせを持ってくる」とネパールの人々は信じています。ダンのゴウタクリ地区にカウワガリという村があります。タルーの言葉で「カウワ」はカラスを意味します。そこは昔、何千ものカラスが棲みつくようになり、村の名前がカウワガリとなりました。現在はサルキ(丘陵部の皮革職人カースト)が定住しています。

2002年6月30日、カウワガリでカラスは悲しい知らせを運び、鳴きました。その地域の森に入っていた12人の村人を国軍が銃殺したのです。当時を思い出しながら85歳のソンビル・ネパリ(サルキ)は言います。「私たちの先祖は1885年頃サルヤン郡からダン郡に移住した。様々な苦労も乗り越えてきた。でも神様は見守ってくれなかった。村の夢多き12人の若者たちが一瞬にして帰らぬ人となるのを、この目で見なければならなかったのだから」

ダン郡に移住した後、サルキはサンダルや靴などの革製品を作って売りながら生計を立てていました。ソンビルは自分の過去を思い出して話します。「その頃は靴一足で1ムリ(約75キロ)の米と交換できた。馬の鞍をひとつ打てば3ムリ(約225キロ)の米が手に入った。仕事は年中あり、生活にも困らなかった。だが政府がバンスバリに靴工場を作ると、皮にも税金がかかるようになった。それで、カウワガリのサルキたちは先祖代々営んできた靴・サンダル作りをやめた。それからは、日雇い労働をしたり、薪を売ったり、豚やヤギを飼って生活するようになった。それでも何とか生活は成り立っていた。しかし、2002年6月30日、国軍が12人の村の若者を殺害してから、その家族の生活はめちゃくちゃになった」

死亡した12人の中のひとり、レサム・ネパリには娘と息子がひとりずついました。レサムの妻ラダ・ネパリは、その後もなんとか子どもたちを育てようとしましたが、一家の稼ぎ手を亡くした家族を支えるのはとても大変でした。レサムは幼い頃に父母とは離れ離れになったため、ラダは舅、姑のところにも行きませんでした。

夫が殺されてからの3年間はラダにとって30年間にも感じられました。この3年間で娘のミナは10歳になり、家の手伝いもできるようになりました。息子アニルも4歳になり学校に行くようになりました。ラダはタケノコの新芽のように育つ子どもを見て傷心を慰めていました。2005年8月30日、ラダが子どもを少し早く学校に送り出しました。これまで学校から遅く帰ってくると怒るラダが、その日に限って「学校から帰ってきたら向こうのおじいさんの家の方で遊んでね。」と娘に言いました。

昼間、村に突然悲しいニュースが広がりました。ミナの母ラダが、家で首つり自殺をした知らせは草原の火事のように瞬く間に村中に広まりました。ミナと4歳の弟アニルは両親を失い、孤児となりました。彼女たちは現在、祖父母と一緒に暮らしています。ミナの祖母パルパティ・ネパリはこう言って悲しみを吐露します。「私たちは軍に息子を突然殺された。そのうえ、なぜ嫁までこの子たちを置いて自分の命を捨てなければいけなかったのか。この歳になって私は自分の面倒を見ることさえ大変だというのに、どうやって孫の世話までしろと言うのだろう」

孤児になったミナとアルニは適切な養育を受けられず、服は汚れ、体には掻き傷が見られます。ミナは体中に発疹ができていますが、治療費がありません。発疹のせいで学校に行くこともできません。小学校3年生のミナは言います。「お父さんが軍に殺されたときは、とっても悲しかったです。やっと悲しみを忘れられたと思ったころにお母さんが自殺しました。私たちのような孤児はこれからいったいどうしたらいいのでしょう。今、悲しみを忘れられるのは、私たちが作った子どもクラブで活動している時だけです」

カウワガリ村には、ミナやアニルのような不幸な子どもたちが他にもたくさんいます。紛争とは無関係な子どもたちが餌食になっているのです。彼女たちの心の傷を癒す薬はあるのでしょうか。
4-2. チャリの生きる希望
2002年4月8日の朝、突然国軍に自分の家を囲まれた時、チャリ・チョウダリの心臓はドキドキと鳴りました。
「ラグパティの家はここか?」
「はい、私です、ラグパティは」。
「お前は訴えられている。尋問が終わったら帰してやる」。チャリの夫ラグバティにそう言うと、国軍は彼を連れて行きました。

その後チャリは毎日、自分の家からトゥルシプルの国軍駐屯地に行き、夫の行方を捜しました。「数日後に来なさい」、「2週間後に来なさい」、「今日じゃなく明日来なさい」、「あさってなら絶対に会わせてあげよう」。軍はこのように言い続け、一年半もの時が流れました。

チャリはいつもひとつのことだけを考えていました。夫の顔を一度でいいから見たいと。そのため、軍にいつ呼ばれても良いように準備していました。夫のこと以外何も考えられませんでした。ある意味では彼女は慎重さにかけていました。軍の兵士たちは、夫に会わせると言って、チャリを毎回別の場所に連れて行き、性的暴行を繰り返していたのでした。

彼女のお腹が大きくなり始めると、村で噂が流れ始めました。いきさつがわかると、村人はチャリに同情しましたが、軍への抗議の声が発せられることはありませんでした。その頃の状況では、誰も軍に歯向かうことはできなかったのです。

父親のわからないその息子は現在3歳になりました。彼女には他に7歳と10歳の息子がいます。年を取った舅、姑が彼女の唯一の支えとなっています。70歳のチャリの舅トゥルカラム・チョウダリは言います。「息子は殺されたのだろう。そうでなければ何か知らせが来るはずだ。帰ってこない息子を思っていつまでもくよくよせず、これからは孫と嫁の顔を見ながら暮らしていこう」
 
チャリにも夫の記憶がよみがえります。しかし夫がいなくても、暮らしは立てていかなければならないので、彼女は毎日奔走しています。家の敷地以外には彼女の土地はありません。村の西のはずれの河原にある、所有者のない土地を、少しだけ耕しています。チャリは村で他の家で皿洗いもしています。長男は地主のところで小作をしながら暮らしています。そうやって稼ぎながら、二男は何とか学校に通わせています。彼女は言います。「少なくとも息子の一人くらいは賢くなってもらわなくては」

SEEDを含めいくつかの組織が彼女を弁護し、彼女の心の重荷は少し取り除かれました。紛争犠牲者遺族のために村落開発委員会の救済基金をもらえるようSEEDが働きかけました。しかし、チャリは自分の市民権証がなく、夫の死後に子どもを産んだことで、他の人と結婚したと思われ、村落開発委員会の事務長は市民権証を発行するための推薦状を書いてくれませんでした。
 
そこでSEEDが正しい情報を伝え、身元引受人となり、推薦状をもらい、チャリが市民権証を得るための手助けをしました。チャリは言います。「私は市民権証の必要性さえ知りませんでした。政府機関でどんなサービスを受けるにも市民権証が必要のようです。村落開発委員会に請願書と市民権証のコピーを提出し、私は8千ルピーの支援を得ました」

チャリはそのお金から衣料品を買い、豚を飼いました。彼女は笑みを浮かべて言います。「豚を大きく育ててダサインの時に売りました。そのお金はダサイン(ネパールの祭のひとつ)の買い物に使いました。お金を貯めて他に2匹の子豚を飼うつもりです」。
 
チャリの夫ラグパティ・チョウダリは一介の大工でした。夫の親族でマオイストと関わりのある人が一泊家に泊まったので、国軍はラグパティもマオイストと関係があると考えて捕まえたのでした。「マオイストに家族を殺された人は、政府からたくさんのお金をもらえると聞いています。でも国軍に家族を殺された遺族はほとんど何ももらえません。政府はそのような人も支援すべきです」。チャリはそう主張して支援を訴えます。

政府から支援を受けなくても彼女には家族を養う気力があります。「私のような何千もの女性は紛争によって寡婦となっています。そうなると、女性が一家の大黒柱です。私たちが絶望したら、誰が子どもの面倒を見るのですか」。たとえ神様がチャリの人生を惑わせても、明るい未来になるように彼女は運命と闘っています。

(注)チャリさん自身の許可を得て、本書には実名を載せています。
4-3. メギの勇気
フルバリ村の村人たちはティージ(ネパールの祭のひとつ)を祝うことに夢中になっていました。ティージの前日で、水牛を切って肉を分配していたのです。その時、村は突然喧騒に包まれました。軍が、村にマオイストが入ったという情報を得て、攻撃体勢に入ったのです。村人たちは肉の分配をやめて逃げました。しかし何人かは国軍の発砲の犠牲となりました。犠牲となったのは村人6人でした。肉の配分のために作られたリストを、国軍はマオイストのリストと決めつけたのです。ラジオのニュースは軍がマオイストを殺害したと伝えましたが、死亡者はすべて罪のないダリット(不可触カースト)の人々だったのです。

これは3年前の事件です。メギ・ビカの夫もその事件で亡くなりました。彼女は寡婦となりました。娘3人と息子1人は父親の愛情を奪われました。メギは何ヶ月かの間、夫を亡くした悲しみに沈んでいました。家のそばの鍛冶小屋が彼女に夫を思い出させました。しかし夫を思い出し、泣いて過ごしても夫が帰ってくることはありませんでした。メギは決心しました。「もう私は泣かない。泣いて暮らして私の悲しみは消えない」

メギは言います。「死んでしまった者は戻ってきません。私が泣けば子どもたちも悲しみます。だから私はいつも笑っているよう努力します。夜、寝る時も子どもたちに話をしながら、笑わせて寝かせます」。メギの息子は父親の鍛冶屋の仕事を続けることができません。父親は息子に鍛冶屋の仕事を教えていなかったからです。SEEDは、学校に行けず家にいたメギの息子に、バクタプル郡サノティミにある職業訓練所で植字工の訓練を受けられるように協力しました。しかし訓練は受けたものの、まだ職を得ることはできていません。

家を含めた10カッタ[i]の土地だけでは、メギの家族は食べていけません。彼女の家族は日雇い労働をしています。高校に入った二人の娘も土曜の休日に働いています。彼女たちの文具、鞄、制服などはSEEDが支給しました。郡教育事務所からも奨学金を受けています。そのため、娘たちの教育費の心配はありません。

夫が殺された後、いくつかの援助団体がメギの家族について調査し、食事会に招待しました。招待の連絡を受けた時、メギは新しい生活が始まったように思えました。彼女は言います。「ようやく、何人かの人たちが私たちの悲しみを理解する努力をしてくれたのです」
 
ダリットや寡婦の集会があると、メギ・ビカはいつでも参加します。彼女はダンの寡婦グループのメンバーでもあります。他の女性は演説をしながら、悲しみや苦しみに涙を流します。しかし、メギは演説でも笑いながら話します。男性の役割を私たち女性がやっていかなければと自分と同じ境遇の女性たちに言い聞かせます。彼女のいるところにはいつも笑いがあるかのようです。

夫を殺された他の女性たちにも彼女は笑いを届けます。そんな彼女を中傷する人もいます。どうせどこからか金をもらっているんだろう、特別な援助を受けているんだろう、あちこち遊びまわっている・・・。しかし、メギはこのような話を片方の耳からもう一方の耳に聞き流します。彼女は笑いながら言います。「私たち女性は家の中にだけいて世間から取り残されています。私まで家の中にじっとしていたら、他の女性たちは私が話しているようなことをいつになったら聞けると言うの?」

女性の権利を守るため「同一職種、同一賃金」の運動にもメギは参加しています。マオイストが行事を妨害し、女性の活動代表者に仕事を辞めさせようとしました。メギはそれに反論しました。「これは私たち女性にとって大切な活動よ。マオイストが女性の活動をやめさせるなら、女性もマオイストの活動を応援しないわ。それでもいいの」

メギ・ビカのもうひとつの特徴と言えば、彼女の議論のスタイルです。村にくるマオイストたちにも心を開き、自分の話をすることができます。国軍とも目を合わせながら話をすることができます。SEEDによる6ケ月の識字教室で名前が書けるようになったメギは言います。「出席帳にサインすることができて私は自分で驚いています」。村のダリット社会では、メギのように普通に読み書きができ、社会の再建について話しながら村を歩く女性はごくわずかです。メギ・ビカの前向きに考えながら生きる人生を、みんなが学ばなければいけません。
 
SEEDは、メギ・ビカの夫を含む殺害された無実の村人6名の家族から、国家人権委員会宛に、補償金請求の手紙を出しましたが、皮肉にもこの事件の調査はまだ行われていません。

[i] 1カッタは約337平方メートル
4-4. ビニタの願い
ウラハリ村のビニタ・チョウダリはとても喜んでいました。なぜなら夫が現金収入を毎日持って帰るからです。タルーの伝統的な生業である農業では利益が上がらないので、夫のブッディラム・チョウダリは鶏を売買する商売を始めました。タルーの村ではふつう農業以外の仕事はほとんどしません。そのため農閑期は仕事がなく、収入がない状態になります。しかし、夫が鶏の商売を始めると、ビニタの家計は良くなっていきました。彼女は私たちにも幸せな日々がやって来たと思うようになりました。

ある日の夕方、夫ブッディラムはダン郡で鶏を買いネパールガンジで売って帰ってきました。夫婦は地酒を飲みながら苦楽を語り合っていました。2001年11月26日に国家非常事態宣言が出されてから、何日も経っていませんでした。その時事件が起きたのです。

彼女の村のあるバフンの地主をマオイストが暴行したようでした。その事件を調べるために村にやってきた国軍は、他の村人たちと一緒にブッディラムを逮捕しました。ビニタは「私の夫は無罪です。事件のあった時、村にいませんでした」、といって泣き叫びました。「捕まえるなら私も連れて行って」と言いながら、彼女は国軍が夫を乗せたジープにぶら下がりました。しかし彼女は放り出されました。

夫が捕まった翌日、ビニタは国軍事務所に行きました。夫を捕まえた軍人は「君の夫が無罪なら釈放するから、心配する必要はない」と言い、彼女を送り出しました。そして数週間後、捕まっていた他の村人はすべて解放されました。しかし、ブッディラムは解放されませんでした。

ビニタは再び国軍のオフィスに行きました。しかし彼女が知っていた兵士は転勤してそこにはおらず、別の兵士が言いました。「君の夫はここにはいないよ」

ビニタの夫が捕まえられてから4年以上が経ちました。しかし彼女の夫への愛情は消えていません。彼女はふぅーとため息をつきます。「いつか戻ってくる時が来るかもしれない」。ビニタはSEEDが支援するウラハリ村の女性グループのメンバーでもあります。彼女は収入を得るために畑仕事をし、豚を飼っています。そこから二人の息子と娘を学校に行かせています。ビニタは自分の望みを語ります。「野菜の栽培は季節によって波がある仕事です。いつでも収入のある仕事を身につけることができればいいのに」

夫が行方不明になってもビニタは自分で自分を励ましています。いったん家の外に出れば、彼女は笑顔を忘れません。女性グループの会議でも彼女は活発です。「私の夫を行方不明にさせた神様が、今度は返してくれるかもしれません」。これが彼女の希望です。ビニタは続けて祈ります。「国にいつも平和が訪れますように。すべての人の命が簡単に奪われませんように」
4-5. シタの苦闘
私たちがゴルタクリ村サルワダンダのシタ・バスネットの家を探していた頃、彼女は子ヤギを連れて森に行っていました。家の前の空き地で、彼女の二人の娘が遊んでいました。「お母さんはどこ?」と聞くと、8歳の長女は言いました。「お母さんは森に行っているの。夕方帰ってくるよ」

シタの娘たちはまだ幼いのにもかかわらず、家で留守番しなければならないのです。朝夕の食事の支度のほか、シタは男性がするすべての仕事をせざるを得ない状況にあります。2002年、国軍は彼女の夫ビジヤ・バスネットをマオイストと疑って捕まえ、ウラハリ村のモティプルの森で銃殺したのです。シタの4歳の末娘に聞きました。「君のお父さんはどこにいるの?」彼女はすぐに答えました。「私たちのお父さんは神様の家に行ったの。警察が殺してそこに送ったの」

寡婦となったシタは現在、SEEDによって設立されたパシュパティ女性救済グループの代表として働いています。そこで貯めたお金でシタはヤギを飼い、家族の生活費を補っています。夫名義の8カッタの土地で米を作っています。しかし、そこからの収穫だけでは家族の半年分の米にしかならないので、足りない分をまかなうため、日雇い労働をして稼がなければなりません。病気になった時は借金をして薬を買い、治療をしなければいけません。SEEDが娘たちを学校に入学させるための費用をすべて用意し、その後も勉強を続けるための支援してくれたので、シタは道が開けたと言います。「でも、SEEDがいつまでも援助してくれるわけではないでしょう?」彼女は寄るべのない表情で言います。
 
夫を殺された後、シタの人生は空回りしていました。自分の苦しみを彼女はある日の日記にこう書いています。「私は夫を失っただけではない。精神的な病にもなってしまった。ある時は熱が出る。ある時は頭が痛む。またある時はお腹が痛くなるという幻覚に陥ってしまう。医者に見せても何も起きていないのにだ。一日に一、二回は笑いなさいと言われるだけ。でも、心の中にある苦痛を抱え、私はどうやったら笑うことができるというの?」
4-6. 殺し合いのない国に-シタラム
ガンダルバといえばサランギ(ネパールの伝統的な弦楽器)を弾きながら、唄い歩く人々の顔が思い浮かびます。ガンダルバのカースト出身だからでしょうか、シタラムは踊りや歌といえば、小さい頃から夢中になっていました。『マチ カンダイレ マヤ ラウンダイマ チェキョ ダンダレ』、このような映画の歌がラジオから流れてきます。この歌を唄っている人こそ、シタラム・ガンダルバです。

彼の生まれはサルヤン郡のワヤルダンダ村です。丘陵地帯のダリット居住地に生まれ、子どもの頃は学校へ行く年齢になっても、薪を切ったり草を刈ったりして過ごしていました。人生の大部分をロルパ郡の母の兄弟の家で過ごしました。そこで彼は結婚もしました。その後、ダン郡ハプル村のナヤバスティ地区に引っ越しました。
 
ガンダルバはダン郡に来てからも自分の歌声で多くの人々の心をつかみました。ここで彼は短期間のうちにとても有名になりました。1984年の第3回ドホリ・ギト[i]大会で、彼は優勝し金メダルと7千ルピーの賞金を勝ち取りました。優勝したのでカナダに行くこともできるはずでした。しかしコンテストの主催者との面識がなかったため、そのチャンスは失われました。カナダには主催者の知り合いが送られたのでした。

その出来事以来、シタラムは憂鬱になり、家を出ました。歌手をやめ、警察の仕事を得ました。彼は1991年から2005年まで14年間働きました。温順な性格のシタラムは、紛争の最中に上司から人を殺すよう命令されると途方に暮れました。彼は神様に祈りました。人を殺すような罪深い仕事は彼にはできなかったからです。どんな生き物でも殺すことをしない慈悲深い心のシタラムは、年金を受け取る資格を得るまでの2年間を残して仕事をやめ、家に帰りました。

職を失った彼は、14年間働いた仕事をした後でも自分の住む家を作ることはできませんでした。自分より後に警察に入った友人は町に家を建てています。しかし、彼はといえば仕事をやめて、年金積立金を少し持ち帰っただけでした。一生懸命稼いだお金で、彼はトゥルシプル市第6区、スンダルバスティ地区のパトゥコラというところに5ドゥル[ii]の土地を買い、小さな小屋を建てました。現在その小屋に妻と息子3人、娘1人と一緒に暮らしています。

自分の好きな、そして先祖代々受け継がれてきた歌手という職業を失ったシタラムは、仕事を辞めた後、どうやって家族を養っていくか不安になりました。でも彼は落胆しませんでした。職は失ったけれど、それがどうしたのだ、ジャングルはなくなっていないじゃないか。彼は日雇い労働を始めました。短期間で大工仕事も学びました。そして、現在は家を建てる職人として仕事をし、一日に180ルピー稼いでいます。何とか自分の家族を養うことができています。

自分の人生経験のページをめくりながらシタラムは言い聞かせます。「私には歌の大会で優勝した62個のメダルと賞状があります。でもそれで食べていくことはできません。どうしましょう。人は、人生で起きたことをそのまま背負っていかなければいけないのです」

シタラムの希望は、国に永久の平和が訪れることです。「すべてのネパール人が仕事をしてお腹いっぱいごはんを食べられなければいけません。すべての人が幸せな眠りにつけるよう、安全で幸福に生きるようにならなければいけません。殺し合いは誰にも利益をもたらしません」

4-7. サビットラに対する姑の裏切り
サビットラ・ケーシーの夫は警察官でした。紛争のせいで、彼女はいつでも夫の安否を心配していました。そのせいで昼も夜も眠れませんでした。「私たちには畑があるじゃない。だから警察の仕事は辞めて」。サビットラの度重なる願いを聞いて、夫テジ・バハドゥル・ケーシーは警察を辞めました。仕事を辞めた彼は家族と一緒にダン郡タリガウン村ラジェナの家で暮らしました。3歳の娘も父親と一緒に暮らせるようになったのを喜びました。それ以上にサビットラは、何年かぶりに夫といっしょに暮らすことができ、世界が明るくなり始めていました。

テジ・バハドゥルは父母と離れて暮らしていました。そのためサビットラは嫁姑の確執に耐える必要はありませんでした。小さな家族、幸せな家族でした。テジ・バハドゥルも村の生活を楽しんでいました。しかしサビットラの幸せは、そう長くは続きませんでした。2002年6月25日昼、近所の村、バンガウンに仕事に行っていたテジ・バハドゥルをマオイストが殺害しました。警察をすでに辞めていたにもかかわらず、死を避けることはできませんでした[iii]

サビットラは寡婦になりました。一人娘を支えに生きようと、彼女は悲しみを忘れるための努力もしました。しかし彼女にさらなる悲しみが襲ったのです。サビットラの姑が「私の息子が殺されたのはお前のせいだ!」と、毎日彼女を非難し始めたのです。サビットラの側に立って姑に話をしてくれる人は誰もいませんでした。彼女は誠実だった夫の親が非難の言葉を浴びせてくるのを受け止めるより他に方法がありませんでした。

そんなある日、サビットラが水浴びに行っている隙に、姑はドアを壊してサビットラたちの住む家に入り込み、家具、服から食器まで持って行きました。姑に荷物のありかを尋ねると、ひどい言葉で罵られました。食事を作る道具もすべて失うと、彼女は娘を連れて実家に帰りました。

現在もサビットラは実家で暮らしているので、夫が遺した8~9カッタの土地も耕作できません。誰かに小作してもらおうにも、村に行くことができません。彼女は言います。「家族が敵になったら、どうしたらいいのですか?」

[i] ドホリは、日本でいう歌垣のように掛け合いで唄う歌。
[ii] 1ドゥルは約17平方メートル
[iii] ここに説明はないが、マオイストは、国軍、警察関係者やその家族を標的としていた。

5. おわりに
ダン郡は紛争の被害が大きかった地域のひとつです。2001年11月23日マオイストはダンの郡庁所在地ゴラヒを攻撃し、その3日後、国家非常事態宣言が出ました。その後、夜間外出禁止令は4年半も続きました。紛争中、ダンの事件はいつもニュースで取り上げられました。タルーの発祥の地とも言われるダンで、紛争により甚大な影響を受けた社会を彼ら自身が見てきました。ダリットや他の少数民族の人々も紛争から多くの影響を受けました。

非常事態宣言の意味を理解できない、真面目でおとなしい村人が祭りを祝っている時、また電柱の木を切りに森へ行っていた時、軍隊の銃の標的になりました。家の屋根を作っていた一般の村人を収容所に連れて行き殺害しました。国軍側から殺害されたダンの多くの無実の市民は未だにマオイストと呼ばれています。彼らについてどんな調査も行われていません。マオイストの疑いで殺害され、調査により無実と認められたダンのカウワガリの12人のサルキの遺族に、国家人権委員会は1人5万ルピーの補償金を出すという書状を出しましたが、現在まで支払われていません。
 
一家の稼ぎ手を亡くし、経済的な困難に陥った女性にとって、家族の扶養は大きな負担です。ラダ・ネパリのように、国軍から夫を殺害された苦しみに苛まれ、自殺に追い込まれた人がいる一方で、国軍によって夫を亡くしたメギ・ビカのように、他の人々に生きる勇気を与え、自分たちの社会のために行動を起こし、他の人を励ましている女性もいます。行方不明の夫を捜索する中で、偽りの慰めの言葉をかける国軍兵士から性的暴行を受けた女性もいます。夫を亡くした精神的苦痛が原因でシタ・バスネットを襲った病を、医者は正しく診断できていません。彼女に笑うことを心がけなさいという助言をしていますが。笑うための薬はなく、多くの女性は心の苦痛に耐えながら生きています。警察官の夫をマオイストに殺害されたサビトッラ・ケーシーに、彼女の家族は無関心です。紛争で亡くなった人に占める女性の割合は少なくても、その影響をより強く受けているのは彼女たちなのです。

SEEDは、次の勧告をします。
・ゴルタクリ村カウワガリのデブバハドゥル・サルキを含む、12人の犠牲者の遺族に、国家人権委
 員会が出した書状に基づき、国は直ちに救済金を用意すべきである。
・ダン郡で起きた、この本に記述されているすべての事件の調査をし、救済金と罪を正当に審判す
 る準備を国が迅速に行うべきである。
・政府は紛争犠牲者遺族の子どもたちに教育の機会を提供しなければいけない。
・国は遺族女性に心のケアをしなければいけない。
・国は犠牲者遺族の生活を支援しなければいけない。
・NGOは犠牲者の怨恨感情によって社会が分断されないよう、和解のために一致団結して活動を
 行わなければいけない。
・市民社会は、国が紛争犠牲者遺族を公平に扱い、彼らの権利を保障するよう、国に圧力をかけて
 いかなければいけない。

<参考文献>
新聞
Ganyari. Tharu Newspaper
Kantipur Rastriya Dainik, 18 September 2006
Kantipur Rastriya Dainik, 29 September 2006Naya Yugbodh, 2006. National Daily
書籍
Central Bureau of Statistics. 2003. National Census 2001
Chaudhary. Mahesh. 1994. Telawa Monthly.
District Development Committee of Dang. 2006. District Profile Dang 2005/06
Gopal. Dahit. 2005. Short Introduction of Tharu Culture.
INSEC. 2003. Nepal Human Rights Year Book 2003.
INSEC. 2004. Nepal Human Rights Year Book 2004.
INSEC. 2005. Nepal Human Rights Year Book 2005.
INSEC. 2006. Official Profile.
Tharu Santram Dhar Katuwa. 2005. Chitkal Bawana.

翻訳:吾妻佳代子、協力:定松栄一、監訳・訳注・編集:田中雅子