ここには常時約30~40人が暮らしています。8歳から26歳までの男の子[i]が暮らしていますが、18歳未満が大半です。生活上の規則はありますが、それぞれ自分のペースで生活しています。朝6時には朝食を用意していますが、中には遅くまで寝ている子もいます。子どもたちの多くは朝食後プラスチックなど資源ごみを探しに出かけ、昼食を食べに戻ってきます。それを売った後は、からだを洗い、テレビを見たり、ギターを弾いて歌ったり、またボードゲームをして遊びます。夕食後、午後6時から夜中までの間、彼らは再び朝と同じように仕事に出かけます。彼らが戻るのは深夜です。

薬物中毒にかかっている子も少なくありません。彼らは靴を修理する接着剤をシンナー代わりにしたり、他の薬物を吸引しています。これはストリート・チルドレンの大きな問題の一つです。『僕らの家』でも、多くの子どもたちが常習していて、注意してもやめさせることができません。

これだけのサービスと設備があっても出ていく子はいます。彼らを止めることはできません。自分の意志でやって来て、そして自分の意志で出て行くのです。それでも、多くの子どもたちにとって、『僕らの家』は自分の家のような存在です。子どもたちの大半はここに来た後は他の場所へ行こうとしません。彼らはここで居心地良く暮らしているのです。友だちをつくり、語り合いながら楽しんで暮らしています。

[i] 女子のストリート・チルドレンもいるが、施設の利用は男子のみに限定している。

3.路上生活をした青少年たちの語り
ここから先の話は『僕らの家』で暮らしている青少年の語りに基づく事実ですが、彼らの将来に悪い影響を与えないよう、名前は彼らの好きなアーティストのものに、また出身地など住所を示すものも替えてあります。

3-1.誘拐を恐れて アミト(17歳)
僕はアミト・ドゥンガナ、17歳です。僕の家はラリトプル郊外のブンガマティ村です。1999年、10歳の頃、友達といとこの影響で、路上で暮らすようになりました。


最初に村を出た友達といとこが、バスターミナルのあるラガンケルやジャワラケルで、テンプーに客を呼びこむ仕事をしていました。彼らに連れてこられた僕は、いとこと一緒に働き始めました。少しずつ知り合いができてくると、いろいろなことに興味を持ち、もっとここで働きたいと思うようになりました。やがて学校もやめ、一人でブンガマティから歩いて町へやって来るようになりました。夜中に歩いて家へ帰ったこともありました。

働くうちにテンプーの運転手と知り合いになり、車掌になりました。はじめは夜中に家へ帰っていました。車掌仲間の多くは路上で寝ており、僕と同年齢の者が多かったです。彼らとは話が合うので、僕も一緒に路上で寝るようになりました。家に帰らなくなると、両親はとても怒りました。学校を辞めたことで叱られましたが、僕は自分の暮らし方を変えることはできませんでした。

車掌の仕事をするうちラガンケルで食堂の主人と知り合いになりました。テンプーの仕事がだんだん嫌になったので、食堂で働き始めました。何ヶ月か働きましたが、皿洗いと掃除の仕事が好きになれず、再びテンプーの車掌に戻りました。少しずつお金を稼げるようになったのですが、路上でちんぴらに嫌がらせをされました。お金を盗られたり、無理やり連れていかれて洗濯をさせられたりしました。路上で暮らしているとずいぶん嫌なことがありました。服がなくて、寒い冬は眠れませんでした。路上生活が嫌になって、家に帰りたくなりました。

村を出て4年後、家帰ると、両親はとても喜びました。久しぶりに家族と過ごすことができて、僕も嬉かったです。村には友達もいて、彼らとも遊びました。両親は僕を再び学校へ行かせようとしていました。しかし、下校中の生徒をマオイストが誘拐したという話を聞き、僕は怖くなり、家族に何も告げず村を出ました。僕はまた路上で暮らし始めました。プラスチックを拾う仕事を始めました。何ヶ月か経ったある日、家に戻りましたが、両親が家にいませんでした。マオイストを恐れて村を出て行ったのでしょう。仕方なく僕は町へ戻って路上で暮らしながら、昔の仕事を始めました。今、僕は『僕らの家』で暮らしています。