平和をもとめて-紛争を逃れ、村から町に来た子どもたち-

クリシュナ・サルバハリ 編著
シャンティ・タパ・マガール 著
目次

はしがき
謝辞

1. 紛争下における子どもたちの状況
1.1 親を亡くした子どもたち
1.2 国内避難民
1.3 強制動員
1.4 拷問・性的虐待
1.5 学校閉鎖
1.6 カトマンズで暮らす紛争被害者の子どもたち

2. 子どもたちの物語
2.1 親を亡くしたキショール
2.2 「先生になりたい」カゲンドラ
2.3 フムラからカトマンズに来たサタン
2.4 生まれ変わったジャヤ
2.5 「夢は医者になること」プラティバ
2.6 ムグを思い出すラマン
2.7 都会の生活に心を動かされたムクルとシバラジ

3. 結び

<補足>
シャンティ・セワ・グリハについて
シャンティ・セワ学校
概要
教育方針
卒業生のその後
1. 紛争下における子どもたちの状況
1996年、ネパール共産党毛沢東主義派(以下、マオイスト)が「人民戦争」を開始しました。開発から取り残された山村で、彼らが人心を掌握した時期もありましたが、戦火が拡大するにつれ、彼らは村人たちを恐怖に陥れました。

紛争を交渉によって解決しようという動きは過去にもあり、マオイストと当時の政府代表が和平交渉を行いましたが、合意には至りませんでした。2001年にはマオイストがダン郡の国軍兵舎を攻撃し、その結果和平交渉が決裂しました。シェル・バハドール・デウバ首相率いる当時の政府は、マオイストを「テロ」組織と断定し、同年11月26日国家非常事態宣言を発令しました。

ギャネンドラ国王は、紛争を終結できない政府を非難し、2005年2月1日、権力を掌握しました。しかし、2006年4月24日、主権を国民に戻し、2002年に解散した下院の復活を宣言しました。その後、マオイストは地下組織として活動するのではなく、政治の表舞台に登場するようになりました。しかし、現在も多くの人々は不安定な生活を続けています。2006年の停戦後も、マオイストが未成年を人民解放軍に勧誘しているという報告もあります。

1.1 親を亡くした子どもたち
紛争から幸福は生まれません。10年に及ぶ紛争によって1万人以上ののネパール人が命を落としました。人権団体INSECによると、1996年2月13日から2006年12月31日の間に、政府側に殺されたのは8,377人、マオイストによって殺された者は4,970人にいるといいます
[i]。子どもの人権を守る団体CWINによると、その同期間に親を亡くし孤児になった子どもは8,000人にのぼるそうです[ii]。他の子どもたちも、戦闘によって学校が破壊されたり、マオイストや国軍から危害を加えられるのを避けるため、実家を離れなければならないなど、影響を受けました。親を殺された子どものほとんどは、肉体的にも精神的にも深く傷ついています。自分の目の前で親を殺された子も多いのです。CWINによると、11年間の紛争の間に、485人の子ども(女児134人)が命を落としました。545人(女児152人)が身体に障害を負いました。[iii]

単純に考えても、1年の戦争はその後の10年に影響することでしょう。したがって、10年にわたる紛争は、かなりの長期にわたって影響を及ぼすはずです。例えば、日本は1945年に終わった第二次世界大戦の影響を未だに被っています。紛争を直接体験したネパール人は、生きている限りそれを忘れることはないでしょう。

1.2 国内避難民
CWINの調査によると、40,000人の子どもたちが紛争の間に国内避難民となって実家を離れたそうです。大部分の子どもにとって、それは「学習の終わり」を意味しました。多くの人々が、危険を避けるために村から町に移住しましたが、子どもたちを危険から守るために子どもだけを町に送り出した親もいました。しかし、ネパールやインドの町にたどり着いた子どもの多くは労働者として働かされました。結果的に、児童人身売買を増加させることにつながりました。

マオイストが子どもに党の仕事をさせるよう強要したため、親たちは首都にいる知り合いに子どもを預けるようになりました。引き受けた人が、子ども一人あたり1万ルピー
[iv]から2万ルピー払えば良い学校に入れてやると言ったため、親たちは子どもを危険な村で過ごさせるより良いだろうと首都に行かせたほうが良いと考えました。

女性への法的支援を行うNGO、Forum for Women, Law and Development (FWLD)は、ユニセフの協力を得て、2005年1月3日から6日にフムラ郡で調査を行いました
[v]。ある人の証言によれば、子どもたちの多くは両親が生きているにもかかわらず、孤児として郡外に送られたそうです。郡の行政長官が何も手を施さなかったため、状況はさらに悪くなりました。孤児だと偽って都市に連れて行かれた何百人という子どもたちの運命は、依然として分かりません[vi]

紛争の間、誘拐されることを恐れた多くの村人が、国内避難民として都市に逃れました。マオイストは、スパイ行為をしたと言いがかりをつけて村人たちを捕えました。一方、国軍は彼らをマオイストと疑って連行しました。INSECの報告では、1996年2月16日から2006年9月15日の間に、63,925人の人々がマオイスト、あるいは国軍に誘拐されました
[vii]。その多くはひどい拷問を受けました。

1.3 強制動員
CWINによると、11年におよぶ紛争の間に、31,087人の生徒と教師が強制的にマオイストの行事に参加させられ、中には生徒に「人民教育」と称したカリキュラムを強要したところもありました。国際法では、18歳未満の子どもが戦争またはそれに付随する活動に関わることを禁止しています
[viii]。国軍は子どもを正規に勧誘していなかったものの、マオイストは子どもを徴兵しているとして非難されました[ix]。マオイストの「各世帯から一人の兵員を」という徴兵方針から逃れるために、安全な場所へ避難した人もいました。2005年8月から2006年7月の間に1,057人(男子533人、女子524人)の子どもが行方不明になりました[x]

1.4 拷問・性的虐待
子どもたちは、マオイストから行事に参加するよう強制され、一方警察からは、マオイストと関わりをもったという理由で拷問されました。警察は情報を集めるために、子どもたちを逮捕しました。そして精神的、身体的拷問を加えました。女子の中には、警察署でレイプされた後、自殺した者もいます。記録によると、2006年1月から8月の間に、19人の子どもが警察に逮捕されました
[xi]

カイラリ郡ティカプール村のウマ・チョウドリ(仮名)は、5年前、彼女が15歳の時に逮捕されました。当時、彼女はアジャヤ・シン・タクリ大佐の家で家事使用人として働いていました。ウマによると、彼女は釈放された後、何人かの治安部隊の兵士に目隠しされ、牛小屋に連れて行かれました。夜、服を脱がされ、身体を触られたそうです。彼女は叫びましたが、口をふさがれたと言います。紛争中、ウマが受けたような性的虐待が各地で起きました。

1.5 学校閉鎖
政府の統計によると、ネパールには公立、私立を含めて35,000の学校があるそうです。そこで学ぶ生徒の数はおよそ5,000,000人です
[xii]。紛争中、多くの学校が干渉を受け、200の私立学校はマオイスト傘下の学生組織に閉鎖を強いられました。「私立学校は教育ではなく金儲けをしている」というのが彼らの言い分でした。

学校閉鎖の最大の被害者は子どもたちです。国際基準に基づくと、学校は少なくとも1年のうち185日は開校しなければなりません
[xiii]。しかしネパールでは、過去5年間わたり、毎年せいぜい150日しか開校できていません。2006年4月の第二次民主化運動後も、学校閉鎖の頻度はむしろ増えているのです。CWINによると、2005年1月から2006年8月の20ケ月間で、3,735校が閉鎖されたそうです。首都カトマンズの3,838の学校も紛争の影響を直接受けました。

「子どもをピースゾーンに」というキャンペーンが行われても、マオイストも政府もそれとは正反対の動きをしました。2006年の8月までに、国軍は8つの学校に基地を造り、マオイストは56の学校で塹壕を掘ったそうです。

多くの生徒が紛争で命を落としました。2003年10月3日には、ドティ郡ムドバラ村のシャルダ高校でマオイストが行事の準備をしているときに、国軍が攻撃しました。巻き込まれた4人の生徒が亡くなり、9人が負傷しました。これは学校での戦闘で最も死傷者が多かった例です。

現在、ネパールは2015年まで「万人のための教育」
[xiv]という事業を行っています。『プラチ』という隔月刊誌に掲載された2006年8月の政府統計によれば、学齢期の子どものうち約20%が学校に通っていません。学校に通っている子どもの中にも紛争の影響で、学業を続けられなくなった子もいます。

ミレニアム開発目標
[xv]の中間報告によると、63%のネパールの子どもたちは初等教育を終えずに学校を去っています。2015年までの間に50%の生徒しか5年生まで修了することができないそうです。

紛争は多くの子どもたち、特に戦闘の激しかった中部、西部地域の子どもたちを精神的に不安な状態に陥れました。震えたり、絶えず怖がったり、また集中することができないといった徴候は、紛争によるトラウマに他なりません。

1.6 カトマンズで暮らす紛争被害者の子どもたち
紛争被害者の多くは、子どもも含め、ネパールの農村で暮らす人々でした。カトマンズでの戦闘はありませんでした。2006年9月18日、マオイストの学生組織が、小さな子どもたちを彼らの全国集会に参加するよう強制しました。この子どもたちは政治を理解するには幼なすぎました。当日、カトマンズ、ラリトプール、バクタプールの学校は閉鎖するよう強要され、マオイストは公共のバスと私立学校のバスに子どもたちを乗せて会場まで連れて行くよう指示しました。子どもの数に対してバスの数が極端に少なかったため、彼らは子どもたちをバスの屋根に乗せました。子どもたちは「Janatako chhora chhori sabai akhil krantikari」(すべての一般市民の子どもはマオイスト)と大声で繰り返していました。このイベントでは、子どもたちに、マオイストの星マークのついた赤い鉢巻をさせ、スローガンを連呼させました。

カトマンズ盆地だけでなく地方でもマオイストが子どもを動員すべく、1年生から10年生までの子どもからなるグループをつくりました。このような行為は子どもたちに不安を与え、勉強を中断せざるを得ない場合もありました。国家人権委員会が子どもの動員を止めるよう呼びかけましたが、マオイストは受け入れませんでした。カトマンズでも、マオイストが学校に押し入ったり、放火するといった行為が起きました。2006年9月15日までに、首都の学校の半数は自前で警備員を雇い、学校の屋根の上から見張りをさせました。

紛争のために何千という家族がカトマンズに移住しました。多くの場合、寒くて暗い一部屋に家族全員が住んでいます。空気もよどみ、薄暗い明かりしかない場所は、子どもたちの勉強には不向きです。彼らは健康に暮らせる環境にないため、病気になりがちです。

紛争に巻き込まれた子どもや、児童兵として武装グループに利用されている子どもたちは、できるだけ早く家族の元に戻って社会復帰できるようにしなくてはなりません。子どもの権利を守り、子どもの成長を促すためにも、政府や政党は彼らが子どもたちのために決めたことを実行しなくてはなりません。



[i] INSEC. 2007. Human Rights Yearbook 2007. p10.
[ii] 出典未確認。
[iii] 出典未確認。INSEC 2007によれば、1996年から2006年末までの子どもの犠牲者は政府による者246名、マオイストによるもの201名の計447名。
[iv] 2009年1月現在、1ルピーは1.16円。
[v] 出典未確認。
[vi]実際に人身売買の犠牲者になった者もいれば、辺境地には教育の機会がないために、親が承知の上で子どもを孤児だと偽って都市に送る例もある。
[vii] 出典未確認。
[viii] 「児童の権利に関する条約」第38条、「武力紛争における児童の関与に関する児童の権利に関する条約の選択議定書」第1条。
[ix]国軍が正規に子どもを採用することはなかったものの、武装警察や軍の雑用係や見張りという形で働かされた子どもがいた。
[x] 出典未確認。
[xi] データ出所不明。
[xii]データ出所不明。原文では生徒数は50万人だったが、500万人に修正。
[xiii]原文のまま。データ出所不明。
[xiv] 「万人のための教育」Education for All (EFA) http://portal.unesco.org/education/en/ev.php-URL_ID=46881&URL_DO=DO_TOPIC&URL_SECTION=201.html
[xv] Millennium Development Goals (MDG)
2. 子どもたちの物語
数え切れない子どもたちが、紛争から逃れるために故郷を後にせざるを得ませんでした。できるだけたくさんの子どもの話を紹介したいのですが、多くの子が同じような理由で村を離れています。ここではその中から7人の話を取り上げます。

2.1 親を亡くしたキショール 
キショールはわずか7歳で母を亡くしました。癌を患っていた母親は充分な治療を受けることができませんでした。幼い子どもが母の愛と心地よい腕のぬくもりを奪われたのです。キショールの父モティラム・ネパリは貧しい木こりで、土地もなく、一家はチトワン郡
[i]にある公有地で暮らしていました。

妻が亡くなって数ヵ月後のある日、モティラムがジャングルで木を切っていると、突然兵士たちが来て彼を逮捕しました。彼らはモティラムをマオイストだと決めつけ、2年間牢屋に入れました。キショールと兄のスレシュは多くの人に父の無実を訴えましたが、誰も耳を貸してくれませんでした。彼らが父親の釈放を求めて警察署に行くと、そこで彼らは「マオイストの子」と呼ばれ追い返されました。兄弟が低カースト層の出身ゆえに、近所の人々も、また社会全体も彼らを助けようとしませんでした。両親のいない生活で、キショールは笑顔を忘れてしまいました。当時20歳だったスレシュは日に2度の食事を確保するだけで精一杯でした。

2年の長い歳月の後、モティラムは釈放されました。父に再会できたことは、キショールの人生の中で最も嬉しい瞬間でした。兄弟ふたりとも父の顔を見た途端に泣きました。モティラムは日々の糧を得るため、すぐに仕事を再開しました。ジャングルで木を切り、町で売るのです。しかし、ある日、彼はまたもや軍に拘束されました。不運なことに、今回は彼は牢屋に入れられませんでした。軍は彼をマオイストだと非難した後、その場で銃殺したのです。

キショール兄弟は新たな悲劇に立ち向かわなければなりませんでした。葬式の後、彼らは同じ場所には住めないことに気づきました。ほとんどの人はカーストの出自のせいで彼らを嫌っていましたし、軍隊が今度は彼らのこともマオイストだと決めつけるのではないかと恐れたのです。

兄弟はチトワンの粗末な小屋を出て、カトマンズのスンダリジャル
[ii]に来ました。スレシュは日雇い労働者として仕事を得て、ほどなくシャンティ・セワ・グリハについての噂を聞きました。彼は早速シャンティ・セワ・グリハに行き、仕事と兄弟が住む部屋がほしいと頼みました。シャンティ・セワ・グリハはスレシュにスンダリジャルにあるその団体の土地で働く機会を与えました。キショールはシャンティ・セワ・グリハがブタニルカンタ[iii]で運営する学校に入学しました。

キショールはチトワンでも学校に通ったことがありましたが、家にお金がなかったため、1年以上続けることができませんでした。現在彼は10歳ですが、2年生の授業を受けています。彼は小さい時に事故に遭い左目に傷を負いました。お金がなくて治療を受けることができず、今も彼の目には障害があります。「村にいた時は、ほとんどの人が僕の貧しさと、カースト、外見の醜さをからかい、嫌いました。でも、ここでは誰も僕のことを笑ったりしません。その代わり、皆が愛し合い、お互いをいたわり合っています。ここで暮らせて幸せです」と、キショールは言います。

キショールは、シャンティ・セワ・グリハで新しい人生が始まったように感じるそうです。スレシュも時々彼に会いに学校に行きます。キショールの担任であるラビナ・シャイはキショールについて、「とても行儀がよく、ほかの子どもたちとも仲良くてしていますが、時々とても悲しそうに見えます。彼の成績は、英語を除けば、どの科目も優秀ですよ」と言います。

キショールは母の癌による死を忘れていません。彼は将来、医者になって病気に苦しんでいる人、貧しい人を助けたいと思っています。いつか彼の夢が実現することを祈っています。

[i] カトマンズの南、タライ平野中部の郡。
[ii] カトマンズの東の郊外にある村。
[iii] カトマンズの北の郊外にある村。
2.2 「先生になりたい」カゲンドラ 
カゲンドラ・バハドゥール・シャヒはシャンティ・セワ学校の5年生です。カゲンドラはフムラ郡
[i]のダルマ村にいた頃、紛争からどんな影響を受けたかを日記に綴りました。

私たちの国の政情が、多くのネパール人を危機的状況に追いやりました。
人々はどうやって生きていくか悩み、苦しんでいます。
みんな幸せを望んでいます。私も幸せを望んでいます。
みんなが自分の人生を幸せに送れたらいいと思います。

マオイストが貧しい村人を苦しませなければいいのにと思います。
私が村にいた時、マオイストは人々の財産を取り上げました。
村人が土地を差し出すことを拒否すると、家を焼いてしまいました。
彼らは生徒の本やノートを捨てました。
マオイストは米の売買を止めてしまいました。
勉強するためにカトマンズや他の町に行こうとする者を許さず、
自分たちの要員として連れて行ってしまいました。

カゲンドラは村で勉強を続けたかったのですが、マオイストが学校にもやってきたため、彼が学校を終えるまでの間、母親は彼を親戚のいる町に送りました。母親と姉妹、兄弟と離れるのはとても辛いことでしたが、良い教育を受けられるのだという希望をもって彼は出発しました。フムラからスルケット
[ii]まで6日間歩いて、そこからバスでネパールガンジ[iii]に行きました。そこが、カゲンドラの母親が息子が安全に暮らせると信じた場所でした。しかし、カゲンドラを村から連れて行ってくれた男は、彼を学校に入学させず、家事使用人にしたのです。

カゲンドラは皿洗い、洗濯、掃除といったすべての家事をしなければなりませんでした。家族に会いたくて、母親の腕の中にいる心地よさや友達を思い出しては泣きました。フムラよりもずっと暑いネパールガンジに慣れるのも大変でした。村の近くを流れるカルナリ川を懐かしく思いました。彼の家から誰かが来てくれるよう、神様にお祈りしました。そしてある日、彼の兄のラジェンドラが彼に会いに来てくれたのです。彼は兄にすべてを話し、すぐに二人はカトマンズに向かって旅立ちました。

カトマンズにいたラジェンドラの友人の一人がシャンティ・セワ・グリハについて知っていました。その人の協力でカゲンドラはシャンティ・セワ学校で勉強する機会を得ました。彼はここに来て良かったと思っています。それでも家族や村を思い出すと胸が痛むと言います。「僕の村はとても貧しかったです。塩を買うこともできず、刺草(いらくさ)
[iv]を塩なしで食べることもありました。紛争の間、村人はマオイストとの色々な問題に直面しました。しかし村人たちは自分たちの宗教儀式や文化を決して忘れませんでした。神を信じ神に平和を祈りました。私の村の人たちは本当に純粋な人々なんです」

カゲンドラは、小さい頃に父親を亡くしました。どうして亡くなったのか、彼は知りません。彼の兄ラジェンドラは、マオイストを恐れて4~5年前に村を離れて郡庁所在地に逃げました。

カゲンドラが今通っている学校では、教科書を暗唱するだけでなく、自分で見たり、さわったりしながら学びます。彼はその実践的な教え方に驚き、とても喜んでいます。

カゲンドラは詩を書くことが大好きです。フムラの人たちについてこんな詩を書きました。
悲しみは多いけど、僕はそれに耐え続ける。
僕は自分の文化と伝統を守りたい。
どんなに頬を打たれても、僕はそれに耐え続ける。
どんなに辛くても、僕はそれを忘れることができる。

フムラの人たちの悲しみ、痛み、辛さと、それでも自分の故郷を守り続けたい気持ちが、彼の詩に表現されています。
このように今でも、フムラの人たちは苦しみながらも、自分たちの文化を大事にしています。「村には、僕と同じくらいの年齢の子どもがたくさんいます。でも多くの子どもは紛争の影響で学校に行くことができません。僕は将来、先生になって、村の子どもたちに教えたい」とカゲンドラは言います 。

[i] ネパールの北西の端に位置し、チベットと国境を接するカルナリ地方の郡。
[ii] ネパール中西部の丘陵地とタライ平野の間に位置する郡。
[iii] インド国境に近い中西部最大の町。
[iv] 山野の陰地に自生する多年草。ネパール語でSisnu。茎の繊維を織物の原料とし、若芽を食用にする。
2.3 フムラからカトマンズに来たサタン
サヌ・バンダリは、彼女の18歳の長男をマオイストに誘拐されてから、眠れない夜が続きました。まだ7歳だったサタンは、母の涙を見るのが耐えられず、彼も一緒に泣きました。

サタンの父は、彼がまだ小さい頃に亡くなりました。夫を失ってから、子どもを育て、一家を支えていくことは、サヌにとって、とても大変なことでした。それでも、2人の息子を見つめると、彼女は安らぎ、心の痛みや悲しみを忘れることができました。しかし、マオイストが長男を誘拐した時は、昼も夜も泣き続けることしかできませんでした。

幸運なことに、2日後に長男のマダンはマオイストのところから抜け出し、家に戻ってきました。サヌは息子が無事に戻ったことをとても喜びました。マダンはサヌに、マオイストは子どもたちも誘拐するので、サタンのことが心配だと言いました。ふたりは、サタンをカトマンズへ送ることに決め、カトマンズからよく村にやってくる男性にサタンを預けました。

サタンはまだ幼く、彼は母親のそばで遊ぶのが好きでした。彼を遠くに行かせることについて、母親も心を痛めました。しかし、村はとても危険な状態だったので、彼女はサタンを安全で平和な場所へ送った方がいいと判断しました。サタンが村を離れる時は、友達、最愛の母、姉、兄たちと別れるのが辛くて、見送る側も彼自身も泣きました。

サタンは普通の農家に生まれました。母親は一日中農地で働きました。兄のマダンはその手伝いをしていました。姉はフムラの公立校に通っていました。サタンのカトマンズへの8日間の旅は、彼にとって初めての長旅でした。カトマンズに着いた時、どこも明かりがいっぱいで、新しい広い世界へ来たように感じました。彼をフムラから連れてきた人がシャンティ・セワ・グリハを知っていたので、サタンはその学校の2年生のクラスに入りました。

サタンは村の家の住所を知らないので、母親に手紙を送ることができません。彼は、母親に渡す手紙と写真をすでに準備しています。彼をカトマンズへ連れてきてくれた男性に手紙を預けようと思い、彼がここに来る日を待っているのです。サタンは男性の名前がナンダラル・バハドゥール・シャヒだということだけ知っています。彼の連絡先も、どんな仕事をしているのかも知りません。

サタンは、学校のピクニックでサンク、ゴダワリ、タンコット、スンダリジャル、バクタプル
[i]など、カトマンズ周辺のいろいろな場所を訪れました。現在彼は寄宿舎に住んでいます。彼の滞在費、食費、洋服、そして教材はすべて学校が負担しています。彼の担任のラビナは、「サタンはとても人なつこく、行儀の良い子です。しかし、彼が時々寂しそうにしているのを見ると、こちらも悲しくなります」と言います。

サタンは言います。「僕は医者になりたいです。村には、学校や病院の数がとても少ないんです。医者がいないので、ほとんどの人は祈祷師や薬師がくれる薬草を使うしかありません。だから僕が医者になって、村の貧しい人や病気の人を助けたいです」

サタンは自分がシャンティ・セワ・グリハから受けた援助に感謝しています。だから、彼は貧しい人々や病気の人々のために、自分もいつか働きたいと思います。彼は、村や友達のことを忘れることはありません。もしこの国で紛争が起こらなかったら、彼がカトマンズに来ることもなかったでしょう。サタンのようにまだ幼い子どもたちに、いったい何の罪があるというのでしょう。それなのに、彼は村を遠く離れ、一人で暮らさなければならないのです。彼のフムラからカトマンズまでの旅によって、彼の人生の夢が叶えられたわけではないのです。


[i] サンクはカトマンズの東の郊外の村、ゴダワリは南の郊外の村、タンコットは西の郊外の村、バクタプールはカトマンズの東にある古都。
2.4 生まれ変わったジャヤ 
「ドラカ郡のチャリコット
[i]で、マオイストが警察署を攻撃するという噂がありました。その村で私の両親は小さな食堂を経営していました。私たちは持ち家がなく、家を借りて生活していました。マオイストが攻撃してくることを知っていても、逃げられませんでした。他に行くところがなかったからです。私は朝と夜は母の仕事を手伝い、午後は学校に通いました。学校の名前はパシュパティ・カンヤ・マンディール学校です」

この文章は、ドラカのチランカ村出身のグルパ・ジャヤ・カドカが書きました。彼女の村へ行くには、チャリコットから丸一日歩かなければなりません。道が整備されていないのです。

2005年4月9日の夜、ジャヤの生活は大きく変わりました。彼女は4人の弟と母親と寝ていました。彼女の父親は竹を切りに出かけていました。真夜中に突然、ものすごい爆発によって起こされました。人々は叫び、あちこち走り回りました。すぐに、マオイストと治安部隊の戦いが始まったのだと分かりました。「私たちはその時、本当に怖かったです。それから弾丸が私のところに来て、足元で爆発しました。私は母に何か言ったように思いますが、すぐに気絶しました」と、ジャヤはその時の様子を語りました。

ジャヤの母、ドゥルガ・カドカもその夜のことを思い出して、話してくれました。「ジャヤは『お母さん!私の足が片方ない!』と叫びました。私は5人の子どもをベッドの下に押し込みました。それから、こんな危ないところにいられないと思い2人の息子を抱え、ジャヤに他の2人を連れてくるように言いましたが、彼女は意識がありませんでした。真っ暗でしたが、彼女の洋服が濡れているのは分かりました。私は、彼女が恐怖でお漏らしをしたのだと思いました。しかし、あとでまた彼女が『お母さん、本当に足がないの!』と言ったので、もう一度見てみると、彼女の洋服は血でびっしょりと濡れていたのです。私はひどく驚きました」

「私の心臓は、数秒間止まったと思います。その夜は、まるで一晩が百年だったかのようにとても長く感じました。私は朝になるのを待てず、子どもたちをつれて友人の家へ向かって歩きました。私はただ歩きました。戦闘の危険を意識していませんでした。子どもたちを抱え20分ほど歩き、友人の家へ着きました」

友人がジャヤの足を布で縛ってくれました。翌朝、ドゥルガはジャヤを軍の駐屯地へ連れて行き、助けを求めました。ジャヤは軍のヘリコプターでカトマンズへ連れて行かれました。チャウニ
[ii]の軍病院で彼女は適切な治療を受けることができました。

それから、ジャヤの新しい生活が始まりました。

事件の後、ジャヤの両親は村を離れることにしました。2006年6月5日にジャヤと家族はカトマンズに引越し部屋を借りました。

ジャヤの叔父の計らいで、彼女はシャンティ・セワ学校で学ぶ機会を得ました。彼女は授業料を払う必要はなく、昼食も出してもらえました。現在、彼女は6年生です。彼女の弟たちはカトマンズの別の学校に通っています。

はじめは、ジャヤの両親はバグマティ川で砂を取って売る仕事をしていましたが、それは季節労働だったので、ジャヤの母親は道ばたで小さな店を開きました。彼女の稼ぎで彼らの出費のすべてを賄わなければなりません。出費の中には家族7人が住む暗くて狭い部屋の家賃1,200ルピーも含まれています。彼女は日に100~150ルピー稼いでいますから、何とか足りています。

長女であるジャヤがしなくてはならない仕事も多いです。彼女は5時に起きて、学校へ行く前に前日使った食器を洗い、弟たちの朝食の準備をします。放課後は夕食を準備し、弟たちの宿題を手伝います。毎週木曜日は弟たちをお風呂に入れ、時間がある時には、彼女はパシュパティナート寺院を訪れます。

ジャヤは以前は医者になりたいと思っていましたが、彼女が怪我をして病院にいた時、それは簡単なことではないと思いました。今は、彼女の先生のサジャナのような良い先生になりたいと思っています。そして、教育を受けていないすべての子どもたちに教育の光を与えてあげたいそうです。

彼女が足を失った日が彼女の人生で最も忘れられない瞬間です。しかし、シャンティ・セワ学校で他の生徒の悲しい話を聞いた後、彼女は自分のけがについて気にしなくなりました。彼女はシャンティ・セワ学校で勉強できてとても幸せだそうです。村の学校よりも実践的な指導を受けることができ、とても明るい雰囲気だからです。

病院にいた時、ジャヤは人生はこの先真っ暗だと思っていましたが、シャンティ・セワ学校に入ってから彼女は幸せになりました。「私の新しい生活は、前の生活よりもずっと明るいです。そして私はひとりではありません。多くの子どもたちが紛争中の戦闘の犠牲者なのです」と、ジャヤは語ります。


[i] カトマンズより東方、チベットと国境を接する郡。チャリコットはその郡庁所在地。
[ii] カトマンズ市内北西部。
2.5 「夢は医者になること」プラティバ
プラティバ・ルインテルはモラン郡
[i]出身の13歳です。ブダニール・カンタにあるシャンティ・セワ学校の4年生です。彼女は、カトマンズのガウリガート[ii]に家族で部屋を借りて住んでいます。

2006年8月17日、雨の中、私たちはプラティバの帰りを待っていました。スクールバスから降りた彼女は傘を持っておらず、急ぎ足で歩く彼女を私たちが追いかけました。私たちは彼女の両親に会うため、一家が借りている部屋を訪れました。

「あなたが住んでいる部屋はなんて遠いの?」と尋ねる私に、「何て返事をすればいいのかわかならいけど、私にも遠く感じるわ」とプラティバが答えました。

30分ほど歩いて、ようやく彼女たちの部屋に着きました。部屋には母親のインディラしかいませんでした。父親は日雇い労働をしていて、まだ戻っていませんでした。大きな窓があるおかげで、部屋は明るかったです。

プラティバの妹バルクマリも、シャンティ・セワ学校の4年生です。私たちはバルクマリに将来何になりたいか尋ねました。「何になりたいかって言われても、そんなことまだ考えたことがないな」という返事でした。プラティバに同じ質問をしてみると、しっかりした答えが返ってきました。「私はお医者さんになりたいです。私たちの学校にはハンセン病にかかっている人がいます。病気を患っている人たちの苦しみを見て医者になろうと決めたのです」

母親のインディラは、近所の家で洗濯をする仕事を終えて帰ってきたところです。「娘は医者になりたいと言うけれど、毎日食べさせていくのがやっとです。本や鉛筆、ノートを買ってあげることさえできなかったんです。どうしたら彼女の夢を叶えてやれると言うのでしょう」

インディラは以前、3人の娘を近所の公立校に通わせていました。しかし、在籍料を払えなかったので学校を続けることができませんでした。彼女はどうしたら子どもたちに教育を受けさせることができるのか悩んでいました。そんな時、近所の人がシャンティ・セワ・グリハのことを教えてくれました。早速申し込むと、幸運にも彼女の子どもたちは入学を許可されました。彼女はこの学校の教え方が気に入っています。末息子も来年から同じ学校に通わせたいと思っています。子どもたちは学校で朝食も出してもらえるし、良い教育を受けていると思っています。

プラティバの家族は、モラン郡の村で小さな茅葺の家に住んでいましたが、両親は仕事を求めて市場のある町に引っ越しました。父親が日雇いの仕事をしている間、母親はジャングルに行って薪を集め、市場で売りました。彼らは13~4年の間そこで生活しましたが、市場がとても小さかったのでそこで毎日仕事を見つけるのは困難でした。しばらくして、ジャングルで勝手に木を切ることが禁止されました。マオイストによる武装闘争が活発になってきた時、プラティバの両親はその町を去ることに決めました。

プラティバは、彼女が村にいた頃のマオイストの様子について説明してくれました。「マオイストは夜やって来て、ごはんを作れと言いました。私の母は何度も彼らのために料理をしました。彼らが武器を見せて私たちを脅すので、とても怖かったです。だから、私は両親に、村から出て行こうよと言いました」

プラティバの叔父はカトマンズに住んでいました。彼の計らいで、2004年12月、カトマンズに引っ越しました。プラティバの母は言います。「私たちのような貧乏人は、どこで暮らしても大変です。カトマンズでは村ほど仕事を探すのが難しくありません。食器洗いや洗濯の仕事をすれば、日に100ルピー稼げます。子どもたちは村にいた頃よりずっと幸せそうです。叔父さんにもしょっちゅう会えます。今私たち家族は、この新しい場所で落ち着いて暮らしています」

プラティバは村の学校のことを思い出します。「あの学校で教え方はあまりよくなかったです。だから、私たちはよく試験に落ちました」とプラティバが言うと、妹のバルクマリも「カトマンズの学校の教え方が好きです。シャンティ・セワ学校はとてもきれいで、部屋の壁に飾りがあるし、校庭には花がいっぱい咲いてます」と言います。

カンチャン・ポカレルという女の子がプラティバと同じ家に住んでいて、プラティバの宿題を手伝ってくれます。彼女はプラティバたちのことを「あの子たちは英語が苦手です。村の学校で勉強していたせいでしょうね」といいます。

家にはテレビがないので、隣の家がテレビをつけると、それを窓からのぞき見しています。「お金が充分にあったら、私たちもテレビを買いたいです」と、プラティバの母親は言います。それでも、娘が学校で習ってきた歌や詩の朗読を聴くと、とても幸せな気分になれます。

プラティバの家から戻っても、ひとつのことが私の頭を離れませんでした。「果たしてプラティバの医者になりたいという夢は叶うのだろうか」


[i] ネパール東部平野の郡。
[ii] カトマンズ市内北東部。
2.6 ムグを思い出すラマン
ラマンは父親に会いたくてたまりません。彼が6歳の時、マオイストが父親を殺しました。父親がマオイストに加わるのを拒んだからです。ラマンが覚えているのは、その時の母親の泣き顔だけです。ラマンは平均的な農家に生まれました。父親がすべての責任を背負っていましたから、彼の死によって家族はひどい困窮に陥りました。

「お父さんが死んでから、お母さんは苦労の連続でした。畑と家畜、家事と子どもの世話のすべてをひとりでこなすのはとても大変でした。お金がなかったので、お母さんは僕たちを学校に通わせることができませんでした。お父さんの死は、お母さんを不安にさせました。いつもお母さんは、次は子どもたちがマオイストに取られてしまうんじゃないかと心配していました」。今は9歳になったラマンはその頃を思い出して言いました。

ラマンはマオイストが村人をどんなに酷く扱ったか今でも覚えています。彼はある事件について語ってくれました。「ある日、僕と友達が学校に向う途中、マオイストに会いました。彼らは僕たちに、学校は閉まっていると言ったので、僕たちは彼らについて行かざるを得ませんでした。彼らは僕たちを1日中拘束し、彼らの活動について講義しました。すごく怖かったですが、翌日村に帰ることができました」

マオイストを装った他の人たちも、彼の一家を苦しめました。ラマンの母は、彼を紛争の恐怖のない平和な環境で過ごさせたいと思い、ラマンを村から逃げさせることに決めました。彼は母親のいる村から離れたくなかったのですが、母親は彼に、町に行かなければきちんとした教育を受けられなくなると説きました。そして、カトマンズに行く予定だった村人のひとりにラマンを預け、家族は涙ながらに別れたのです。

カトマンズに着いた時、ラマンを連れてきた男性は彼をシャンティ・セワ学校の3年生に入学させました。当初ラマンはこの学校の環境は変わっていると思いましたが、徐々に慣れました。現在彼はシャンティ・セワ・グリハの一員であることを喜んでいます。そこには友達がいっぱいいて、先生たちは彼をとてもかわいがってくれます。

ラマンはいつも「すべての子どもが両親と一緒に暮らせるように。僕のように離れて暮らすべきじゃない」と祈っています。彼はすべての人々が一緒に平和に暮らして欲しいと思っています。ラマンはサッカーが好きです。そして、彼の村からの訪問者が来る時が、一番幸せです。
2.7 都会の生活に心を動かされたムクルとシバラジ
「お兄さんと僕は、カブレ郡
[i]の学校の3年生でした。マオイストのせいで学校で良い教育は受けられませんでした。マオイストはよく僕たちのクラスに来て、無意味な演説をしました。彼らは先生たちに寄付を要求していました」

「ある日、先生のひとりがマオイストを無視したところ、その先生は、僕たちの目の前でひどく殴られました。先生はとても怖がっていました」。ムクル・シャルマは村の学校の様子を説明してくれました。現在、ムクルは家族と一緒にカトマンズに住んでいます。彼らの家は暗くて狭く、十分な広さがありません。

最初、ムクルの父親がカトマンズに来ました。4ヶ月後、母親のショバは家長が不在のまま村で生活するのは大変だと言い、カトマンズに来ました。彼らが村を出たのは「ネパール・バンダ」と呼ばれる国全体のストライキの日でした。

家族は朝4時に起きて出発しました。夜8時半まで歩き、ようやくカトマンズに着きました。ムクルは、カトマンズが初めてちらっと見えたとき、まるで夢の中にでもいるかのようにとても幸せに思いました。しかし、長旅でとても疲れていたので、少し具合も悪かったです。

ムクルが彼らの旅について話す時、とても活き活きとしていましたが、兄のシバラジは心ここにあらず、という感じでした。シバラジは片目が見えず、それほど行動的ではないのです。

ムクルは話し続けました。「村で僕たちが住んでいた家は壊れてしまいました。だから、僕たちは近所の人の小屋に寝泊りしていましたが、何ヶ月か後、そこも壊れてしまいました。それから近所の別の人の小屋に住まわせてもらっていました。でも、すぐあとで、お母さんが僕たちをカトマンズに連れて来てくれました。都市の生活は村の生活よりずっといいです。ね、お兄さん?」ムクルはシバラジにいいました。シクラジは微笑んだだけでした。

息子たちが話している間、母親は苦笑しながら付け加えました。「たぶんこの子の話を信じられないでしょう。でも、本当なんですよ。私たちは本当に村に家がないんです。ムクルの父親は3人兄弟でした。相続する土地について尋ねたとき、義父は75,000ルピーのローンを見せたんです。義父には借金があり、それを3人の息子に分けたんです。ムクルの父親も75,000ルピー払うことになっていました。そこで、私たちは家を出ることに決めました。9,000ルピー貯めるのに、必死で働きました。そのお金で私たちは3ロパニ
[ii]の土地を買い、私の叔父が小さな家を建てるのを手伝いました。しかし、不幸なことに、11年後に地主が土地を奪い返したのです。それから、私たちは他人の小屋に住まわせてもらうためにお願いしなければならなかったのです」

ムクルの父親は、このいかさま地主から土地を返してもらうためにマオイストの助けを借りようとしました。しかし、彼らは助ける代わりに、父親にマオイストに加わるよう強制しました。これが、彼らが村を去った理由です。

カトマンズで、ムクルの両親はパシュパティ開発基金
[iii]の事務所の労働者として働いています。ある日、ムクルの母親はシャンティ・セワ学校の先生に出会いました。彼女は先生に話を聞いてもらいました。その先生は彼女に子どもをシャンティ・セワ・グリハに送るようすすめました。そのおかげで、彼らはシャンティ・セワ学校で勉強する機会を得たのです。

学校では、サタン・バンダリがムクルの親友になりました。ムクルは言います。「サタンが家族を思い出して泣きはじめた時、僕もすごく悲しくなって、涙がこぼれました。でも、僕たちほど幸運な子どもはそういないんだよ、と言って彼をなぐさめました。僕たちはこんなにきれいなところで勉強する機会を与えられたんです。でも、多くの子どもたちは村の普通の学校で勉強する機会さえないんです」

彼なりの方法で、ムクルは心に傷を負った他の友達も慰めます。ムクルはとても賢い子ですが、まだ将来何になりたいかは分かりません。

ムクルはよく彼の村と友達を思い出しますが、それでも村の生活よりカトマンズの生活がずっと気に入っています。ここでは、マオイストを怖がる必要がありませんから。彼は「僕は村には戻りたくない」と言います。

ムクルの母親は言います。「雨宿りできる小屋さえあれば十分です。私たち家族は、この小さい部屋に毎月1,300ルピー払っています。村にいたなら、これは払わなくていいお金です。でも、村ではほとんど仕事がなく、あったとしても日に30ルピーしか稼げませんでした。でも、ここでは私は日に100ルピーは稼げます。村の人たちは、私たちを助けて村に帰れるようにしたいと言っていますが、今の私たちは戻りたくないです。私は、子どもたちにここでなんとかして教育を受けさせます」

ムクルは「僕たちの学校の誕生日はいつなの?」と聞きました。学校で友達の誕生日を祝うことは彼にとってはまったく新しいことでした。村では、誰も誕生日を祝いませんでした。

ムクルの母親は私たちにお茶を飲むようすすめてくれました。その時、ムクルのお兄さんがカップを割ってしまいました。母親は言いました。「コップが割れたって構いません。ただ私は、子ども達の幸運が壊れないように神に祈るだけです」


[i] カトマンズの東に隣接する郡。
[ii] 1ロパニは508.74 平方メートル。
[iii] ヒンドゥ寺院パシュパティナートを管理する財団。
3. 結び
マオイストと政府の11年間にわたる紛争の間、多くの子どもたちは悲惨な生活を送りました。カトマンズにあるシャンティ・セワ学校の生徒たちの生い立ちを聞けば、子どもたちがどのような影響を受けたかわかるでしょう。

紛争は何千もの子どもが教育を受ける機会を失わせました。多くの子は、勉強できる場所を探して都会に移り住みました。中には家族と離れ、ひとり寂しく暮らす子どももいました。また、ひとりで田舎を離れた子の中には、勉強の代わりに家事手伝いを強要された子どももいました。両軍の兵士の性的虐待の被害者となった子もいます。

国軍は、マオイストの倍の人を殺しました。一方マオイストは、村人たちに食事を提供するよう強制したり、寄付や彼らのプログラムへの参加を強要しました。彼らのそのような行為が、多くの人々を村から離れざるを得ない状況へと追い込みました。いくつかの村では男性がほとんどいなくなり、妻たちが悲惨な状況で生活しています。都市へ移ることは、生活が苦しくなったように見受けられることもあります。一家族7人もが小さな部屋に窮屈な思いで暮らしていることもあります。

生徒は、彼らの先生や親戚が虐待されるのを見て、おびえました。多くの生徒が、そのようなトラウマを抱えて都市へ移って来ました。現在でも彼らはあまり勉強に集中することができないでいます。このような生徒たちは適切な精神的ケアを受けていません。不幸なことに、何人かの子どもは勉強を再開する代わりに、隣人にも見て見ぬ振りをされ、精神的・肉体的な虐待の危険の下、働かされています。

多くの生徒が、都会で教育を受けるために孤児と偽って都会に送られました。政府がそれを黙認していたことも、記録からわかります。しかし、学校側も生徒の入学を許可する際に、名前や住所など必要な情報を入手するべきです。そして、学校は記録を紙面で残すべきです。

孤児にはカウンセリングが必要であり、様々な理由で移住した子どもたちには教育が必要です。私たちは、小さい子どもが労働力として働かされているのを見て見ぬ振りをするのでなく、本当はその子たちに、彼らの持っている権利について教えてあげるべきなのです。

何人かの子どもが人身売買されたことも明らかになっています。家族は、子どもたちが勉強を続けるために都会に連れて行ってもらうのだと信じ込まされ、子どもたちが売られていたこともあります。両親は子どもをこのような「保護者」に預ける前に、どんな企みがあるのか見極めなければなりません。

停戦後は、両軍とも合意した行動規範に従うことが義務づけられています。子どもはいかなる政治的集会にも参加すべきではありません。私たちは、「子どもをピースゾーンに」という考えを広めるべきです。

シャンティ・セワ・グリハについて
シャンティ・セワ・グリハは、カトマンズのゴウシャラにあるNGOです。ハンセン病患者、その他の貧乏層、身寄りのない人、障害者、孤児を対象に、1992年に設立されました。現在に至るまで、農村ではハンセン病は神のたたりだと考えられているため、ハンセン病患者は社会から抑圧され、受け入れられていません。前世からのたたりを持ってきたと信じられているため、ハンセン病患者は他の人に触ったり近寄ったりもできません。ハンセン病患者が、侮辱や嫌悪、差別に耐えられず自殺をした例は何件もあります。

ハンセン病は、所定の薬を定期的に使うことで治療することの可能な一般的な病気です。ハンセン病を患っている人々も、他の人々と同様、普通の生活を送ることができるのです。このような考えを広めるため、クリシュナ・グルンさんと医師のラメショール・マン・シンさんが、シャンティ・セワ・グリハを設立しました。ドイツ人のマリアナ・ゴシュプリブも協力しました。

ここでは、ハンセン病患者だけでなく障害者も支援しています。シャンティ・セワ・グリハは生活する場所を提供したり、自分の家を出る他なかった人々に仕事を与えます。

およそ1,200人の農村出身者がシャンティ・セワ・グリハの助けで生活を立て直すことができました。その中には、インド人やバングラデシュ人も含まれています。シャンティ・セワ・グリハでは、支援は信仰の一部であり、必要な人に与えられなければならないと信じられています。

シャンティ・セワ・グリハでは、患者の独立心を促し、自尊心を高めるために、様々な種類の職業訓練の機会を与えています。彼らはいろいろなものを生産しています。例えば手漉き紙、宝石、花輪、ダッカ織
[1]の帽子、カーペットや家具、有機栽培の野菜やはちみつも作ります。これらはネパールの国内外で販売されています。

シャンティ・セワ・グリハには自前の診療所があり、そこでは無料の検診を行っています。

シャンティ・セワ・グリハは、人々に現金を与えるよりも、自信をつけてもらうほうが大切だと信じています。団体の使命は、貧しい人の生計を助けることです。また子どもたちを独り立ちさせることが目的です。

シャンティ・セワ・グリハのチャイルド・ケア・センターはガウシャラ
[2]にあり、65人の子どもがいます。11人の生徒は障害者学級に出席しています。すべての子どもから教育を奪うべきではないと信じ、シャンティ・セワ・グリハのソーシャル・ワーカーがブダニルカンタにシャンティ・セワ学校を建てました。そこにはクリニックもあります。ティルガンガには近代的な病院も建てました。

シャンティ・セワ・グリハの哲学は、人々の心が平穏な時だけ、その家族にも平和が訪れ、平和はひとつの家族から他の家族に伝わり、そこからもっと大きいグループへ、そして社会へ、最後には国全体が平和になるというものです。 シャンティ・セワ・グリハ は、すべての人がこうした子どもやその家族を支えるように訴えます。 そういう支えがあって、彼らも簡素ながらも安全な環境で生活することができるのです。

シャンティ・セワ学校
概要

シャンティ・セワ学校は1998年にシャンティ・セワ・グリハによってカトマンズのブダニルカンタに設立されました。最初はハンセン病患者だけの学校でしたが、現在は紛争被害者の子どもたちも入学できます。

学校はブダニルカンタから徒歩25分の距離にあります。学校は木々と緑に囲まれていて、とても静かで美しい環境にあります。新しくやってきた生徒たちは、この環境を見ると、自分たちの抱えている問題を忘れてしまいそうです。

(2006年)現在、88名(男女同数)がこの学校で学んでいます。託児所もあり、14名の乳児が来ています。障害者のクラスもあり、8名の生徒がいます。学校はハンセン病患者のために建てられましたが、現在、ハンセン病患者の生徒は10名だけです。その他17名が経済的に貧しい家庭の子どもたち、13名が紛争被害者です。生徒の中には6名の障害をもつ子どもと、家族の問題を抱えた子ども9名、孤児5名も含まれています。教師は7人です。

生徒の多くは遠隔地出身です。出身郡は、シンドゥパルチョーク、カブレパランチョーク、フムラ、ムグ、ヌワコット、ジャナクプール、ドラカ、マクワンプル、バラ、バグルン、ナワルパラシ、チトワン、サルラヒ、ダーディン、コタン、ボジプール、ソルクンブなどです。また、インド出身の子どももいます。

代表であるクリシュナ・グルンさんによると、経済的に困難な状況にある子どもたち、もしくは/同時に紛争被害者である子どもたちという順で入学できる優先順位が上がります。それぞれ入学を希望する事情を説明する必要があります。

クリシュナ・グルンさんは学校を環境に負荷を与えない空間にしようと考えました。そういうわけで、子どもたちもポリエステルの鞄ではなく、シンプルな布の鞄を使っていますす。計36名のハンセン病患者とその家族が構内に住んでいます。構内で暮らす人は約100名に及びます。シャンティ・セワ・グリハでは学校の生徒全員に、太陽熱パネルを使って料理をした給食を出しています。

鉛筆、ペン、本、ノートやその他の文房具と制服は無料で生徒に供与されます。その資金は外国援助機関が出してくれています。シャンティ・セワ学校の教師であるサビン・カドカさんは「子どもたちに関心をもつ外国の人たちが、学校を支援するために最善を尽くしてくれています」と語ります。

教育方針

2001年からウォルドルフ教育
[3]を新しい教育方針として導入しました。これは、実践的な知識が本物の知識を導くという考え方です。シャンティ・セワ・グリハでは、生徒が平穏な気持ちでいられる場合のみこれが達成できると信じています。したがって、教師の義務は平穏な環境で教育を与えられるようにすることです。ウォルドルフ教育は、適切な知識を分け合うには、神聖な魂、冷静な心、そして教師と生徒の間の強い繋がりが不可欠だと強調しています。これはシャンティ・セワ学校の幼稚園か6年生までのクラスで実践されています。

毎日授業が始まる前に、教師と生徒はお互いを励ますあいさつをし、新しい1日の始まりに感謝します。子どもたちは季節の素材を使って教室を飾り、自分たちの世界を作ります。

シャンティ・セワ学校で教える知識は、他の学校では得られません。各科目は実践的な方法で教えられます。例えば、もし題材が灌漑なら、子どもたちは水路を造って、畑に小麦を撒き、それが育つために水がどんな働きをするのか観察します。

シャンティ・セワ・グリハは、多くの人が人工的な物をめぐって争い、快楽を求める傾向があると思います。それゆえに、シャンティ・セワ・グリハでは生徒たちに、人工的な物についての知識と同時に、自然で精神的な世界についても教えます。教師は人間と魂、すべての生き物、動物、植物と人間の関わりについて教えます。黒人も、白人も、仏教徒も、ヒンドゥ教徒も、キリスト教徒も、みな同じ人間なんだと教えます。そして何より、私たちは神の創造物です。詩や物語を参照しながら、人生は美しいものだと強調します。

シャンティ・セワ学校の子どもたちは、教科書や講義から学ぶだけでなく、実際に見て、感じて、やってみる、実践的な方法からも学びます。このように直接経験して学んだことは、ずっと忘れないものです。生徒は、頭に知識を詰め込むだけなく、精神修養もします。それによって自分のもつ可能性に気づくのです。

シャンティ・セワ学校の教師はインドやネパールの様々な所で研修を受けました。彼らは絵、描写、粘土細工も教えます。子どもたちはダンス、歌、演劇を学び、そしてこれらの技能を他の科目を学ぶ時に生かすこともあります。

教師のひとりケシャブ・リマルさんは、以前はカトマンズの全寮制学校で教えていました。彼はその学校とシャンティ・セワ学校の間の多くの違いを見つけ、これからは教室で生徒に罰を与えるための棒を持ち歩く必要はないのだと感じました。彼は、生徒が彼の指導を理解することができない場合は、彼らの興味をそそるような、やさしい別の方法で教えるそうです。生徒は、彼らの興味に一致した方法で習うと、自分たちの間違いも簡単に発見できるようになります。

シャンティ・セワ学校は、ダサインやティハール、シバラトリなどのお祭りをお祝いします。生徒たちはそれを通してネパールの様々な伝統を学びます。

卒業生のその後
ガネッシュ・プラダンとサンジュ・マジはシャンティ・セワ学校で6年生まで勉強し、現在はカトマンズにある(別の私立学校)サンライト・スクールに通っています。彼らの学費は、シャンティ・セワ・グリハが払っています。彼らはシャンティ・セワ学校での勉強をとても楽しんだと言っています。「僕たちが新しい学校に入った時、僕たちは教科書の中の知識は他の皆より少ないと感じたけど、教科書以外の知識は、他の生徒たちより多いことがわかりました。シャンティ・セワ学校では、先生たちは生徒のニーズに合わせて教えてくれました。でも、今、僕たちは勉強と宿題に追われています。僕たちは英語だけで話さなくてはいけません。もしネパール語を使ったら、罰を受けなくてはいけません。シャンティ・セワ学校では、一度も罰を受けたことはありませんでした」

17歳のスマン・シグデルは、シャンティ・セワ学校で4年間過ごしました。彼は、その前は路上で生活していました。彼は、学校が本当の家族のように愛とケアを与えてくれたと言います。彼はまた、そこで多くのことが学べたことを喜んでいます。現在通っている学校とはずいぶん色々なことが違うそうです。「僕たちは一度も直接知識を学ぶことはありませんでした。もっと、遊びや絵、スケッチや楽しいことをしながら学びました。このような環境は、他の学校にはないものだと思います」

スマンは、現在の学校の規則や規定はとても厳しいと言います。生徒はたくさんの宿題をしなければならず、詰め込み型の勉強をしなければなりません。生徒たちは罰が怖いので、よく予習をします。シャンティ・セワ学校では、子どもたちは友達のように扱われていました。彼は、シャンティ・セワ学校のきれいに飾られた教室や、毎週のように近くの村や森へ出かけていった日のことが忘れられません。

参考文献
Community Study and Welfare Centre (CSWC). A Decade of Disaster, Human and Physical cost of Nepal conflict, 1996-2005, research report. Kathmandu.
INSEC. 2007. Human Rights Year Book 2007.

Shrestha, SK. 2004. Print Media, Coverage on Children’s Issues: A Report. Hatemalo Sanchar, Lalitpur.
नेपाल शान्ति संस्था। आन्तरिक व्यवस्थापनसम्बन्धी वकालत पुस्तिका २००५। ललितपुर।
नेपाल साप्ताहिक। २०६३ असोज ८।
प्रधान, गौरी। २०६० माघ। युद्धको भुमरीमा बालबालिकाहरू। सिविन, काठमाडौँ।
प्राची द्वैमासिक। २०६३ साउन।
हिमाल पाक्षिक। २०६३ कार्तिक १६-३०।

翻訳:木戸稔恵、監訳・訳注・編集:田中雅子


[1] 東ネパールから広がった手織り布。
[2] カトマンズ市内東部。
[3] シュタイナー教育の別名。