3-3.路上にしか僕の居場所がない シュリ・クリシュナ(22歳)
僕はシュリ・クリシュナ・シュレスタ、22歳です。家はロルパ郡[i]です。13歳の時、マオイストのせいで家を出なければなりませんでした。

僕たち一家は貧しく、両親が荷物運びの仕事をして生計を立てていました。荷物を受け取りるため遠くまで行き、それを背負って再び遠くまで長い道のりを運ぶのです。僕も両親と一緒に荷物運びをしていました。稼いだお金はすべて食べていくために必要で、ダサインに新しい服を買って着ることすらできませんでした。それほど一家の家計が苦しかったのです。

村には町へ出稼ぎに行っている人がいました。近所の人が出稼ぎの話をもちかけ、両親は僕を近所の青年と一緒に町へ送り出しました。僕がお金を稼いでくるものと両親は期待していましたし、僕も町で十分稼ぐことができると思っていました。家から出稼ぎ先のポカラまで2日間歩かなければならず、歩き続けるのはとても大変でした。道には食べ物もろくにありません。お腹をすかせて歩かなければなりませんでした。途中で足が痛くなり、歩けなくなりましたが、やっとのことでポカラに着きました。

ポカラのホテルで皿洗いの仕事を始めました。ポカラでは僕と同年齢の男の子たちに会いました。彼らがカトマンズの方がたくさん稼げると言うので、僕もカトマンズへ行きたいと思うようになりました。ある日、僕はポカラからカトマンズ行きの夜行バスに乗り込みました。誰かの子どもだと見られたのでしょう、僕は運賃を徴収されませんでした。翌朝、カトマンズのバスターミナルに着きましたが、カトマンズのことは何も知らなかったので、初めての場所に戸惑いました。近くの食堂に仕事を探しに行ったところ仕事が見つかり、そこに住むことになりました。

初めうちこそ主人は僕にとても良くしてくれましたが、だんだん僕を叱るようになりました。食事は与えてくれましたが、給料はくれません。給料を要求しても家に帰るときに渡すとしか言いません。次第に僕はカトマンズのことがわかってきました。知り合いもできました。僕はこの食堂から逃げて、ラガンケルの別の食堂で仕事を探しました。そこでも何ヶ月か仕事をした後、嫌な思いをさせられました。

その食堂に来ていた運転手や車掌と知り合いになり、彼らの紹介でテンプーの車掌として働くことになりました。僕と同じ車掌や、路上で寝ている男の子たちとよく会うようになりました。夜、運転手はテンプーを家に停めるので車掌の僕たちはその中で寝るわけに行かず、寝る場所に困ります。僕は他の友達と一緒に路上で寝るようになりました。路上で寝ている友達がプラスチックを拾う仕事でお金を稼いでいるのを知りました。この仕事は簡単だと思い、僕もプラスチックを拾う仕事を始めたのです。もう8年ほどこの仕事をしています。

両親を思い出して一度だけ家に帰ったことがあります。久しぶりに家に帰ったので両親は僕を見て喜びました。ある日僕が家にいる時、6人のマオイストが来て僕に言いました。「さあ、俺たちと一緒に行こう」。僕は「行きません」と言いました。「行かないのなら、君の両親を殺す」と言って脅しました。両親を殺すというので僕は怖くなり、彼らについて行くことにしました。彼らは何の理由も言わず僕を4日間縛ったまま放置し、殴ったり。蹴ったりしました。食事も与えてくれませんでした。そして4日間は家にもどこにも行かないという条件で、僕を解放しました。僕は家に帰りましたが、両親が、村にいては危ないと言うので、僕は再びポカラを通ってカトマンズにたどり着きました。またプラスチックを拾う仕事を始め、路上で友達と暮らし始めました。運転手になりたいと思っていますが、市民権証がなければ運転免許が取れません。村に戻って市民権証を申請できる状況でもありません。出身地でなければ取得できないのです。

路上で暮らす中で、数え切れない苦労がありました。警察やちんぴらが僕たちに嫌な思いをさせます。稼いだわずかばかりのお金を強奪する人がいます。路上では寒さ、暑さ、冷たさ、すべてを受け入れなければなりません。初めの頃は、町で辛い目に遭うたびに村に帰ろうと思いました。しかし、僕のような子どもたちはマオイストに連れて行かれるので村に戻ることはできません。結局、最後は路上以外に僕のための場所はありません。だから路上生活を始めたのです。


[i] ネパール中西部丘陵地帯の郡。人民戦争が開始された1996年直後からマオイストの影響が強かった。