シャンティ・セワ・グリハについて
シャンティ・セワ・グリハは、カトマンズのゴウシャラにあるNGOです。ハンセン病患者、その他の貧乏層、身寄りのない人、障害者、孤児を対象に、1992年に設立されました。現在に至るまで、農村ではハンセン病は神のたたりだと考えられているため、ハンセン病患者は社会から抑圧され、受け入れられていません。前世からのたたりを持ってきたと信じられているため、ハンセン病患者は他の人に触ったり近寄ったりもできません。ハンセン病患者が、侮辱や嫌悪、差別に耐えられず自殺をした例は何件もあります。

ハンセン病は、所定の薬を定期的に使うことで治療することの可能な一般的な病気です。ハンセン病を患っている人々も、他の人々と同様、普通の生活を送ることができるのです。このような考えを広めるため、クリシュナ・グルンさんと医師のラメショール・マン・シンさんが、シャンティ・セワ・グリハを設立しました。ドイツ人のマリアナ・ゴシュプリブも協力しました。

ここでは、ハンセン病患者だけでなく障害者も支援しています。シャンティ・セワ・グリハは生活する場所を提供したり、自分の家を出る他なかった人々に仕事を与えます。

およそ1,200人の農村出身者がシャンティ・セワ・グリハの助けで生活を立て直すことができました。その中には、インド人やバングラデシュ人も含まれています。シャンティ・セワ・グリハでは、支援は信仰の一部であり、必要な人に与えられなければならないと信じられています。

シャンティ・セワ・グリハでは、患者の独立心を促し、自尊心を高めるために、様々な種類の職業訓練の機会を与えています。彼らはいろいろなものを生産しています。例えば手漉き紙、宝石、花輪、ダッカ織
[1]の帽子、カーペットや家具、有機栽培の野菜やはちみつも作ります。これらはネパールの国内外で販売されています。

シャンティ・セワ・グリハには自前の診療所があり、そこでは無料の検診を行っています。

シャンティ・セワ・グリハは、人々に現金を与えるよりも、自信をつけてもらうほうが大切だと信じています。団体の使命は、貧しい人の生計を助けることです。また子どもたちを独り立ちさせることが目的です。

シャンティ・セワ・グリハのチャイルド・ケア・センターはガウシャラ
[2]にあり、65人の子どもがいます。11人の生徒は障害者学級に出席しています。すべての子どもから教育を奪うべきではないと信じ、シャンティ・セワ・グリハのソーシャル・ワーカーがブダニルカンタにシャンティ・セワ学校を建てました。そこにはクリニックもあります。ティルガンガには近代的な病院も建てました。

シャンティ・セワ・グリハの哲学は、人々の心が平穏な時だけ、その家族にも平和が訪れ、平和はひとつの家族から他の家族に伝わり、そこからもっと大きいグループへ、そして社会へ、最後には国全体が平和になるというものです。 シャンティ・セワ・グリハ は、すべての人がこうした子どもやその家族を支えるように訴えます。 そういう支えがあって、彼らも簡素ながらも安全な環境で生活することができるのです。

シャンティ・セワ学校
概要

シャンティ・セワ学校は1998年にシャンティ・セワ・グリハによってカトマンズのブダニルカンタに設立されました。最初はハンセン病患者だけの学校でしたが、現在は紛争被害者の子どもたちも入学できます。

学校はブダニルカンタから徒歩25分の距離にあります。学校は木々と緑に囲まれていて、とても静かで美しい環境にあります。新しくやってきた生徒たちは、この環境を見ると、自分たちの抱えている問題を忘れてしまいそうです。

(2006年)現在、88名(男女同数)がこの学校で学んでいます。託児所もあり、14名の乳児が来ています。障害者のクラスもあり、8名の生徒がいます。学校はハンセン病患者のために建てられましたが、現在、ハンセン病患者の生徒は10名だけです。その他17名が経済的に貧しい家庭の子どもたち、13名が紛争被害者です。生徒の中には6名の障害をもつ子どもと、家族の問題を抱えた子ども9名、孤児5名も含まれています。教師は7人です。

生徒の多くは遠隔地出身です。出身郡は、シンドゥパルチョーク、カブレパランチョーク、フムラ、ムグ、ヌワコット、ジャナクプール、ドラカ、マクワンプル、バラ、バグルン、ナワルパラシ、チトワン、サルラヒ、ダーディン、コタン、ボジプール、ソルクンブなどです。また、インド出身の子どももいます。

代表であるクリシュナ・グルンさんによると、経済的に困難な状況にある子どもたち、もしくは/同時に紛争被害者である子どもたちという順で入学できる優先順位が上がります。それぞれ入学を希望する事情を説明する必要があります。

クリシュナ・グルンさんは学校を環境に負荷を与えない空間にしようと考えました。そういうわけで、子どもたちもポリエステルの鞄ではなく、シンプルな布の鞄を使っていますす。計36名のハンセン病患者とその家族が構内に住んでいます。構内で暮らす人は約100名に及びます。シャンティ・セワ・グリハでは学校の生徒全員に、太陽熱パネルを使って料理をした給食を出しています。

鉛筆、ペン、本、ノートやその他の文房具と制服は無料で生徒に供与されます。その資金は外国援助機関が出してくれています。シャンティ・セワ学校の教師であるサビン・カドカさんは「子どもたちに関心をもつ外国の人たちが、学校を支援するために最善を尽くしてくれています」と語ります。

教育方針

2001年からウォルドルフ教育
[3]を新しい教育方針として導入しました。これは、実践的な知識が本物の知識を導くという考え方です。シャンティ・セワ・グリハでは、生徒が平穏な気持ちでいられる場合のみこれが達成できると信じています。したがって、教師の義務は平穏な環境で教育を与えられるようにすることです。ウォルドルフ教育は、適切な知識を分け合うには、神聖な魂、冷静な心、そして教師と生徒の間の強い繋がりが不可欠だと強調しています。これはシャンティ・セワ学校の幼稚園か6年生までのクラスで実践されています。

毎日授業が始まる前に、教師と生徒はお互いを励ますあいさつをし、新しい1日の始まりに感謝します。子どもたちは季節の素材を使って教室を飾り、自分たちの世界を作ります。

シャンティ・セワ学校で教える知識は、他の学校では得られません。各科目は実践的な方法で教えられます。例えば、もし題材が灌漑なら、子どもたちは水路を造って、畑に小麦を撒き、それが育つために水がどんな働きをするのか観察します。

シャンティ・セワ・グリハは、多くの人が人工的な物をめぐって争い、快楽を求める傾向があると思います。それゆえに、シャンティ・セワ・グリハでは生徒たちに、人工的な物についての知識と同時に、自然で精神的な世界についても教えます。教師は人間と魂、すべての生き物、動物、植物と人間の関わりについて教えます。黒人も、白人も、仏教徒も、ヒンドゥ教徒も、キリスト教徒も、みな同じ人間なんだと教えます。そして何より、私たちは神の創造物です。詩や物語を参照しながら、人生は美しいものだと強調します。

シャンティ・セワ学校の子どもたちは、教科書や講義から学ぶだけでなく、実際に見て、感じて、やってみる、実践的な方法からも学びます。このように直接経験して学んだことは、ずっと忘れないものです。生徒は、頭に知識を詰め込むだけなく、精神修養もします。それによって自分のもつ可能性に気づくのです。

シャンティ・セワ学校の教師はインドやネパールの様々な所で研修を受けました。彼らは絵、描写、粘土細工も教えます。子どもたちはダンス、歌、演劇を学び、そしてこれらの技能を他の科目を学ぶ時に生かすこともあります。

教師のひとりケシャブ・リマルさんは、以前はカトマンズの全寮制学校で教えていました。彼はその学校とシャンティ・セワ学校の間の多くの違いを見つけ、これからは教室で生徒に罰を与えるための棒を持ち歩く必要はないのだと感じました。彼は、生徒が彼の指導を理解することができない場合は、彼らの興味をそそるような、やさしい別の方法で教えるそうです。生徒は、彼らの興味に一致した方法で習うと、自分たちの間違いも簡単に発見できるようになります。

シャンティ・セワ学校は、ダサインやティハール、シバラトリなどのお祭りをお祝いします。生徒たちはそれを通してネパールの様々な伝統を学びます。

卒業生のその後
ガネッシュ・プラダンとサンジュ・マジはシャンティ・セワ学校で6年生まで勉強し、現在はカトマンズにある(別の私立学校)サンライト・スクールに通っています。彼らの学費は、シャンティ・セワ・グリハが払っています。彼らはシャンティ・セワ学校での勉強をとても楽しんだと言っています。「僕たちが新しい学校に入った時、僕たちは教科書の中の知識は他の皆より少ないと感じたけど、教科書以外の知識は、他の生徒たちより多いことがわかりました。シャンティ・セワ学校では、先生たちは生徒のニーズに合わせて教えてくれました。でも、今、僕たちは勉強と宿題に追われています。僕たちは英語だけで話さなくてはいけません。もしネパール語を使ったら、罰を受けなくてはいけません。シャンティ・セワ学校では、一度も罰を受けたことはありませんでした」

17歳のスマン・シグデルは、シャンティ・セワ学校で4年間過ごしました。彼は、その前は路上で生活していました。彼は、学校が本当の家族のように愛とケアを与えてくれたと言います。彼はまた、そこで多くのことが学べたことを喜んでいます。現在通っている学校とはずいぶん色々なことが違うそうです。「僕たちは一度も直接知識を学ぶことはありませんでした。もっと、遊びや絵、スケッチや楽しいことをしながら学びました。このような環境は、他の学校にはないものだと思います」

スマンは、現在の学校の規則や規定はとても厳しいと言います。生徒はたくさんの宿題をしなければならず、詰め込み型の勉強をしなければなりません。生徒たちは罰が怖いので、よく予習をします。シャンティ・セワ学校では、子どもたちは友達のように扱われていました。彼は、シャンティ・セワ学校のきれいに飾られた教室や、毎週のように近くの村や森へ出かけていった日のことが忘れられません。

参考文献
Community Study and Welfare Centre (CSWC). A Decade of Disaster, Human and Physical cost of Nepal conflict, 1996-2005, research report. Kathmandu.
INSEC. 2007. Human Rights Year Book 2007.

Shrestha, SK. 2004. Print Media, Coverage on Children’s Issues: A Report. Hatemalo Sanchar, Lalitpur.
नेपाल शान्ति संस्था। आन्तरिक व्यवस्थापनसम्बन्धी वकालत पुस्तिका २००५। ललितपुर।
नेपाल साप्ताहिक। २०६३ असोज ८।
प्रधान, गौरी। २०६० माघ। युद्धको भुमरीमा बालबालिकाहरू। सिविन, काठमाडौँ।
प्राची द्वैमासिक। २०६३ साउन।
हिमाल पाक्षिक। २०६३ कार्तिक १६-३०।

翻訳:木戸稔恵、監訳・訳注・編集:田中雅子


[1] 東ネパールから広がった手織り布。
[2] カトマンズ市内東部。
[3] シュタイナー教育の別名。