4-2. チャリの生きる希望
2002年4月8日の朝、突然国軍に自分の家を囲まれた時、チャリ・チョウダリの心臓はドキドキと鳴りました。
「ラグパティの家はここか?」
「はい、私です、ラグパティは」。
「お前は訴えられている。尋問が終わったら帰してやる」。チャリの夫ラグバティにそう言うと、国軍は彼を連れて行きました。

その後チャリは毎日、自分の家からトゥルシプルの国軍駐屯地に行き、夫の行方を捜しました。「数日後に来なさい」、「2週間後に来なさい」、「今日じゃなく明日来なさい」、「あさってなら絶対に会わせてあげよう」。軍はこのように言い続け、一年半もの時が流れました。

チャリはいつもひとつのことだけを考えていました。夫の顔を一度でいいから見たいと。そのため、軍にいつ呼ばれても良いように準備していました。夫のこと以外何も考えられませんでした。ある意味では彼女は慎重さにかけていました。軍の兵士たちは、夫に会わせると言って、チャリを毎回別の場所に連れて行き、性的暴行を繰り返していたのでした。

彼女のお腹が大きくなり始めると、村で噂が流れ始めました。いきさつがわかると、村人はチャリに同情しましたが、軍への抗議の声が発せられることはありませんでした。その頃の状況では、誰も軍に歯向かうことはできなかったのです。

父親のわからないその息子は現在3歳になりました。彼女には他に7歳と10歳の息子がいます。年を取った舅、姑が彼女の唯一の支えとなっています。70歳のチャリの舅トゥルカラム・チョウダリは言います。「息子は殺されたのだろう。そうでなければ何か知らせが来るはずだ。帰ってこない息子を思っていつまでもくよくよせず、これからは孫と嫁の顔を見ながら暮らしていこう」
 
チャリにも夫の記憶がよみがえります。しかし夫がいなくても、暮らしは立てていかなければならないので、彼女は毎日奔走しています。家の敷地以外には彼女の土地はありません。村の西のはずれの河原にある、所有者のない土地を、少しだけ耕しています。チャリは村で他の家で皿洗いもしています。長男は地主のところで小作をしながら暮らしています。そうやって稼ぎながら、二男は何とか学校に通わせています。彼女は言います。「少なくとも息子の一人くらいは賢くなってもらわなくては」

SEEDを含めいくつかの組織が彼女を弁護し、彼女の心の重荷は少し取り除かれました。紛争犠牲者遺族のために村落開発委員会の救済基金をもらえるようSEEDが働きかけました。しかし、チャリは自分の市民権証がなく、夫の死後に子どもを産んだことで、他の人と結婚したと思われ、村落開発委員会の事務長は市民権証を発行するための推薦状を書いてくれませんでした。
 
そこでSEEDが正しい情報を伝え、身元引受人となり、推薦状をもらい、チャリが市民権証を得るための手助けをしました。チャリは言います。「私は市民権証の必要性さえ知りませんでした。政府機関でどんなサービスを受けるにも市民権証が必要のようです。村落開発委員会に請願書と市民権証のコピーを提出し、私は8千ルピーの支援を得ました」

チャリはそのお金から衣料品を買い、豚を飼いました。彼女は笑みを浮かべて言います。「豚を大きく育ててダサインの時に売りました。そのお金はダサイン(ネパールの祭のひとつ)の買い物に使いました。お金を貯めて他に2匹の子豚を飼うつもりです」。
 
チャリの夫ラグパティ・チョウダリは一介の大工でした。夫の親族でマオイストと関わりのある人が一泊家に泊まったので、国軍はラグパティもマオイストと関係があると考えて捕まえたのでした。「マオイストに家族を殺された人は、政府からたくさんのお金をもらえると聞いています。でも国軍に家族を殺された遺族はほとんど何ももらえません。政府はそのような人も支援すべきです」。チャリはそう主張して支援を訴えます。

政府から支援を受けなくても彼女には家族を養う気力があります。「私のような何千もの女性は紛争によって寡婦となっています。そうなると、女性が一家の大黒柱です。私たちが絶望したら、誰が子どもの面倒を見るのですか」。たとえ神様がチャリの人生を惑わせても、明るい未来になるように彼女は運命と闘っています。

(注)チャリさん自身の許可を得て、本書には実名を載せています。