3. 紛争解決に目覚めた青年たち
3-1. SEEDの誕生

2001年11月23日のゴラヒ襲撃後、国はマオイストに対して厳しい取締りと諜報活動を始めました。一方で、マオイストも国のこのような姿勢に対抗するため、さまざまな場所で繰り返し事件を起こしました。立て続けに起きた上述の事件が、地元タルーの青年たちの心を動かしました。なぜなら、犠牲者の大部分がダリットやタルーなど貧しい人々だったからです。国やマオイストは、なぜ、ただでさえ貧しいダリットや先住民族を紛争に巻き込むのか、自分たちの目の前でこのような事件が起きているのに見て見ないふりをすることができるのか、ということを深く話し合うようになったのです。このような話し合いのなかから、問題意識に目覚めた青年たちは、皆で協力して紛争の解決のために活動することを決意し、SEEDが誕生しました。

Society For Environment Education Development (SEED)は非営利組織として2001年に設立されました。設立の年にカトマンズで社会福祉協議会に登録し、2003年にはダン郡のNGO連合会とNGO調整委員会に登録をしました。その主な目的は、人々の意識を向上させ、彼らの生活を改善し、権利の確保のために人々を組織化することです。SEEDが支援するのは紛争犠牲者、貧困層、ダリット、孤児、寡婦、老人といった人々です。活動分野は、平和、ガバナンス(良き統治)、初等教育、子どもの権利です。

設立以来、SEEDは社会を深く分析し、広い視野を持ち、地域社会や一般市民、国内・国外の組織と協力しながら紛争の解決に努めてきました。その結果、貧困の原因を解決できなければ紛争の解決もできないという認識のもとに、貧困削減と紛争解決のための様々な活動を行っています。

危険な環境のなかで紛争被害者のための活動を開始するにあたって、SEEDは村落開発委員会の人々と、支援の方法について何度も話し合いました。紛争が頻発する最中での活動はとても危険でした。どのように危険を最小限に抑えるか、常に意識しなければなりませんでした。地域の人々の助言と提案により、小さな規模でSEEDは活動を開始しました。

3-2. 活動内容
2001年から2003年にSEEDは、マンプル、ディクプル、ハルワル、ウルハリの各村落開発委員会から活動資金を得ました。他に、ゴルタクリとフルバリの村落開発委員会も活動に協力する意思を表明しています。村人の知識や技術を積極的に活用して、紛争被害者のために活動する計画を立てました。それは、紛争で被害を受けた女性のための3か月間の初級編み物研修と絵の研修でした。これら6つの村落開発委員会で、紛争の被害を受けた女性たちを一箇所に集めて、悲しみを共有する機会を与えたのです。この最初の活動で、私たちは、紛争被害者の心の痛みを理解し和らげることができました。

先住民開発基金(National Foundation for Development of Indigenous Nationalities: NFDIN)は 、SEEDがタルーの調査を行っていることに注目し、SEEDと共同でタルーの歴史をまとめました。この活動により、タルーの歴史を収集し記録する仕事ができました。こうして、地域レベルや国レベルの組織、さらには国際的な団体とも仕事をする機会が増えていきました。アクション・エイド(イギリスを代表する国際NGOのひとつ)とSEEDの協力による、ダン郡の持続的な平和と安全のための活動は、現在まで続いています。

さらにSEEDは、2003年から2004年までDFID(イギリス政府国際開発援助庁)の地域支援活動に協力し、経験を増やす機会を得ました。2003年にはUNDP(国連開発計画)の、平和と開発のための短期事業に協力しました。2005年には、日本のNGOであるシャプラニール=市民による海外協力の会と、解放後のカマイヤ(債務労働者)たちの経験交流集会と相互訪問研修を行いました2006年7月からは、セーブ・ザ・チルドレン・ジャパンと紛争犠牲者の子どものための教育活動を行っています。この他、郡開発委員会や保健所、ラプティ眼科病院とも一緒に活動しています。
 
3-3. 活動の特徴:紛争被害者と共に働き、彼らから学ぶ
紛争被害者、貧しい村人、ダリット、そして先住民族を支援することは、非常に困難で、私たちにとって危険を伴うものでした。マオイスト側と国軍側の双方の紛争被害者を公平に支援するにはどうしたらよいのか、私たちは問い続けました。

SEEDの活動方法の特徴は以下のようにまとめられます。
・紛争下で他団体の活動が制限されている場合でも、紛争被害者、貧しい村人、ダリット、 先住
 民族に対し資金・物資面および精神面での支援を続ける。
 ・組織の中央委員、幹部、メンバーは人口比に応じて、ダリット、先住民、女性から構成される。
 ・登録開始時から村落開発委員会と協力関係を築く。
 ・地元の人々の技術や能力を使って、紛争解決のための活動を行う。
 ・紛争被害者たちの中でも被害を最も多く受けた女性や子どもを中心とした活動を行う。
 ・他団体の支援が届かない、僻地や恵まれない貧しい地域で活動する。
・他者を信じることができなくなってしまった紛争被害者たちが、団結できるようになるための環境 
 を整える。
 ・紛争被害者たちに再び苦痛を与えるのではなく、希望を与える活動を行う。
・女性のグループ活動支援を通じて、紛争被害者が自らの苦痛と喜びを分かち合う機会を作る。
 
紛争犠牲者の家族の顔合わせでは、人々はたくさんの悲しい経験や苦悩を語り合いました。そうやってSEEDは日々、紛争被害者たちに少しずつ近づいていきました。私たちが活動を始めたばかりの頃、女性や子どもたちは、悲しい経験を語り合うための集まりでも、自己紹介をする時に他の方を見たり、下を向いたりし、なかには全く話せないこともありました。何人かの子どもたちは、知らない人を見た途端、国軍やマオイストが来たと思って、家のなかに隠れることもありました。

紛争被害者たちは見知らぬ人々と話をすることを好まず、こちらが会話を始めても、発言せずに涙を流すだけでした。そんな時は、慰め、励まし、辛抱強く彼らから話を聞き出す以外、なすすべがありませんでした。しかし、ゆっくりと話し合いながら、すべての参加者と親しくなり、信頼関係ができると、彼らとSEEDの関係も近づきました。そうやってSEEDはいつでもどこでも彼らと自然に活動ができるようになりました。不安を見せず、常に彼らを弁護し、彼らの心や表情にどうやったら喜びを取り戻すことができるかを考えながら、私たちは前進を続けました。

地域の人々の信頼を得て良い関係を築けば、私たちはどんな環境でも活動できます。地域と協力しながら活動することで、住民と私たちの距離はとても近くなりました。村で何か事件が起きても、すぐに報告し、すぐさま状況を判断して、話し合い、助け合うので、私たちの活動は順調に発展してきました。地域の人々と情報を交換したり、警告したり、伝達するためのシステムをつくったので、私たちの活動に対しても彼らから信頼を得ることができたのです。
 
SEEDは、地元の青年たちのチームを設けて、紛争下の厳しい条件のなかでも野外での調査など様々な活動を行っています。そのような過酷な任務に伴う苦痛や困難について、ソーシャルワーカーのデベンドラ・チョウダリさんはある日の日記にこう書いています。「2002年6月16日、私は調査のためにカウワガリ村に赴いた。村は国軍に取り囲まれていたが、私は身分証明書を携帯していなかったため、いったいどうなることかと、とても恐ろしかった。しかし村の女性たちが、この人は私たちの村に住んでいる人です、と言って救ってくれた。この体験を通じて私は、紛争下の厳しい条件でも活動を続ける自信を得たのだった」

私たちは、地域の人々の知識や技術を私たちの活動計画に取り入れ、重要な手段として活用しました。そのため、過去に紛争下で活動した経験がなくても、人々から教えられながら活動を続けることができました。一般の人々が知識の源でした。紛争に関わる事件を目の前で見た子どもたちは、その脳裏に深い傷跡を残しています。そのような子どもたちが、普通の環境で毎日を過ごすことができるようにと、学校で子どもクラブを結成し、さまざまな行事を始めました。ある行事のときに「ラリグラス子どもクラブ」のプラミラ・チョウダリが、平和について、次のように唄いました。
  私たちの国に平和を持ってきて
  銃を持つ手でペンをつかんで
  勉強するのが私の望み、私を学校に行かせて
  銃を持つ手でペンをつかんで・・・

サンディプ・ゴウタムも唄いました。
  ネパール人が外国へ行かないように
  悲しみの涙を流さないように
  今日の私たちは小さいけれど明日はリーダー
  子どもの権利を守ろう
 
スシラ・ビカをはじめとする3人の子どもたちが一緒に唄いました。
  この国に平和が来るのは難しい
  子どもが学校に行くことは難しい
  話し合いをしてください
  民主主義だけではなく、平和の種をまいて
 
これだけではありません。子どもたちのこのような歌、詩、小説などの作品を使った「子どもカレンダー」も出版されています。

3-4. 紛争下での活動に伴う困難
私たちの団体は、もともと紛争下で誕生しましたが、その後も、マオイストから何度もいわれのない嫌がらせを受けました。理由もなく、小さな口実を作っては、昼夜を問わず、遠くのジャングルの奥まった場所に呼び出し、わたしたちの活動について詳細な報告を迫りました。「私たちの部隊に登録しなければ、どんな仕事もさせない。さもなければスタッフを暴行する。私たちの部隊と協定を結び、仕事をしなければいけない。さもなければ活動禁止だ」、などと脅迫し、精神的苦痛を与えました。そして政府側も治安部隊が何度も私たちを調査し、気に入らないことがあると厳しく接しました。ある日、SEEDのリーダーが活動地域を訪ねた時に、道で偶然出会った国軍は、彼を尋問して鞄やポケットを調べ、手帳を取り上げて電話番号を調べました。彼をマオイストではないかと疑い、1時間拘束し、精神的苦痛を与えました。

SEEDのリーダー、バギラム・チョウダリはある事件のことを日記に次のように書いています。「2004年4月3日だった。私たちがジープで活動地のカウワガリに向っていると、フルバリ村のダカナで、マオイストが私たちのジープを止めて火をつけようとした。私がSEEDの活動について説明すると、彼らはジープに火をつけるのを止め、私たちに協力することさえ約束した。しかし実際には、この日から私たちの活動はとても困難なものとなった。なぜなら毎日マオイストと会って、私たちのすべての活動について詳細な報告をしなければならず、組織の運営についても詳細に陳述しなければならなくなったからである。このように大変危険な状況にもかかわらず、私たちが行うそれぞれの活動について目的をはっきりさせ、地域社会のなかで中立な立場で犠牲者遺族のために活動を行ったので、逆境のなかでも私たちは活動を続けることができたのだった」

他の政党も私たちの活動を疑いの目で見ていました。このように四方八方から困難な状況に追い込まれた時も、SEEDはその目的と目標を見失いませんでした。外部の問題に対しては粘り強く解決の手段を探し、社会のために役立つことだけを考えて活動を続けてきました。危険な状況下でも冷静に二つの銃の間に留まって、紛争解決のために努力してきました。

SEEDのためにマンプル村の村落開発委員会が事務所内の部屋を提供してくれました。ところが2002年11月、マオイストが村落開発委員会事務所を攻撃し、SEEDの資財5万ルピー相当も損害を受けました。SEEDは損害賠償を要求しましたが、マオイストはSEEDの損害に同情はしたものの、賠償しようとはしませんでした。しかし最後にはマオイストも謝罪の意を伝えてきました。この出来事で、SEEDは危険な状況下でも活動を続ける自信を得たのです。