空を見上げて-紛争下のストリート・チルドレン-

レワット・ラジ・ティミルシナ著
目次

出版によせて
推薦文-経験と事実の要約
謝辞
まえがき

1. ネパールのストリート・チルドレン
1-1. 概要
1-2. 特徴
1-3. 生計、ごみ問題との関連
1-4. 民族、カースト、階級
1-5. 紛争の影響
1-6. 場所によるストリート・チルドレンの違い-カトマンズとラリトプルの比較から
1-7. 将来の夢
1-8. ストリート・チルドレンのその後

2.Jagaran Forum Nepal (JAFON)
2-1.設立まで
2-2.『僕らの家』

3.路上生活をした青少年たちの語り
3-1.誘拐を恐れて アミト(17歳)
3-2.学校にやってきたマオイスト ビラジ(16歳)
3-3.路上にしか僕の居場所がない シュリ・クリシュナ(22歳)
3-4.マオイストと国軍の板ばさみ モテ(18歳)
3-5.母に疎まれて ラジェス(13歳)

付表:ラリトプルのストリート・チルドレン

出版によせて
この本には、路上で暮らす子どもたちの日々の暮らしと彼らの夢が、ありのままに記されています。きっと路上で暮らす子どもたちに関心のある方々の心に触れることと思います。子どもたち自身が語る生い立ちのほか、家族を離れて路上で暮らすようになった理由、将来の夢、また子どもたちの多様さが聞き取りに基づいて紹介されています。ストリート・チルドレンのための活動にあたっては、かつてストリート・チルドレンだった青年や今もストリート・チルドレンである子どもたちとの協働が不可欠ですが、ここで紹介されている情報もまた、こうした活動にとって役立つに違いありません。

どんな調査も、社会が変化する方向性を示すことを本来の目的としているはずです。しかし、社会変化を目指す団体がその結果を分析し、導かれた結論を実際の活動に取り入れなければ、調査が役に立ったとは言えません。「開発途上国」と呼ばれる私たちの国では、調査によって裏付けられた結論から実践へとつなげることは、まだ一般的ではありません。それゆえ、私たちはこの本が示唆することを活動へと結びつける責任があります。ストリート・チルドレンの実態をあらわにした著者の努力を評価し、本書の出版が成功することを祈ります。

元 中央児童福祉委員会[i]委員
現 セーブ・ザ・チルドレン・ノルウェー・ネパール事務所
子どもの権利保護アドバイザー
シバ・プラサード・ポウデル


推薦文-経験と事実の要約
私がこの本の著者であるレワット・ラジ・ティミルシナさんを紹介された時、彼はまだ若い青年でしたが、年のわりに落ち着いていました。彼自身のストリート・チルドレンとしての人生経験が、彼を分別ある大人にさせたのでしょう。ともに活動するようになり、彼を支える人たちとも知り合う機会を得ました。私たちの国が、レワットさんのような青年たちの勇気と情熱、その献身的な取り組みを結集させることができていたなら、大きな変化を起こしていたでしょう。

路上で暮らす子どもたちに対してレワットさんが続けてきた努力と決意は生半可なものではありません。彼の判断はいずれも彼自身の経験から生まれたものです。レワットさんの最初の著作『路上の人生』ではストリート・チルドレンの生活と彼らを取り巻く者のやりとりが描かれています。本書はさらに深く、子どもたちの隠された事実を明らかにしています。
この本はストリート・チルドレンのために活動する団体が、効果的に事業を計画し、実施するためのヒントを与えています。著者が問いかけているのはとても単純なことです。真実を知ってほしいということだけです。彼の問いが学問的な命題のようであったなら、子どもたちに再び苦しい体験をさせていたかもしれません。この本がそのような形をとっていないことを、私はうれしく思います。ここに込められたメッセージが力強いのは、これまでにも筆者がストリート・チルドレンとしての体験を本や報告書に書いたことがあるからというだけではなく、日夜問わず彼らの生活がよりよくなるために活動を続けているからです。この本では著者自身の経験も綴られています。これはストリート・チルドレンたちの経験と事実の要約なのです。
                        
元 Friends of Needy Children (FNC)[ii]
現 The ISIS Foundation[iii] ネパール事務所長
プラルハード・クマール・ダカル


謝辞
Jagaran Forum Nepal (JAFON) がストリート・チルドレンについて広く社会に知ってもらうための本を出版するにあたり、「平和のための市民による紛争の記録プロジェクト」の一環として支援をして下さった庭野平和財団にまず感謝の気持ちを伝えます。またこの本の舞台である『僕らの家』の運営資金を援助して下さっているシャプラニール=市民による海外協力の会[iv]にも感謝しています。これまで繰り返し助言をして下さったハリ・クリシュナ・ダンゴルさん、クマール・ライさん、ゴパル・ゴラ・チャンドラさん、ラジュ・マハルジャンさん、ラジュ・ラマさん、ビシャル・ラマさんにもお礼を言いたいと思います。

私たちに出版を熱心に勧めてくれた「平和のための市民による紛争の記録プロジェクト」のコーディネーター田中雅子さんにも心から感謝しています。未だ完璧な形とは言えませんが、この本は彼女の夢の一つを実現しようとしたものです。

当初、この本の出版にあたっては路上で暮らす子どもたちの生活をとらえた写真を載せる予定でいましたが、国内・国外での写真の収集を試みたものの、さまざまな理由でネパール語版に写真を掲載することができませんでした。計画通りにはいかなかったものの、カメラを提供して下さったネパールの、また外国にお住まいの支援者のみなさんにお礼を申し上げます。

準備段階から関わったふたりのストリート・チルドレンと、生い立ちの聞き取りや写真の撮影を了解してくれたすべての路上で生活する子どもたちと青年たちにも心から感謝しています。出版までの作業は容易ではありませんでしたが、多くの困難を乗り越えて出版することができたことはこの上ない喜びです。最後に、本が完成するまでの過程を支援して下さったすべてのみなさまに感謝を言葉を捧げます。
Jagaran Forum Nepal (JAFON)代表
レワット・ラジ・ティミルシナ


まえがき
この本の取材には二ヶ月ほどかかりました。多くのストリート・チルドレンが協力してくれたおかげで何とかまとめることができたものの、振り返れば、良い思い出も、悪い思い出もあります。読者のみなさんにもその一部をご紹介しましょう。
生い立ちを尋ねるために子どもたちの後を文字どおり追いかけねばならないことがありました。ある時は彼らが話をするのを嫌がり、包み隠さず事実を話してもらうには根気が必要でした。しかし、聞き手が路上生活の経験者だったことで、何とかやりとげることができました。路上生活の光と陰の両面を盛り込み、子どもたちの生活を記録することは容易ではありませんでした。写真を撮るために真夜中に出かけたこともありました。彼らの多くはシンナー中毒[v]にかかっており、意識がもうろうとしている彼らに写真を撮ることの承諾を得るのは難しいことでした。

多くの援助団体が昼間にストリート・チルドレンの写真を撮っていますが、自分の団体の広報や財源確保に利用するだけで、子どもたちに利益が還元されることがないことに、彼らは不満を持っています。そこで、我々の場合は、路上生活の経験がある者だけが撮影すること、写真が誤用されることはなく、子どもたちのためだけに使われることを約束した上でようやく了解を得ました。写真を撮らせてもらうために、現金やごちそう、服を与えたり、将来見返りとして何かしてあげると約束する団体もあるので、子どもたちの中にはJAFONにも同じような要求をする者がいました。

私たちは子どもたちのさまざまな表情を写真にのこしたいと考えました。そこで、彼ら自身が好きな時に、仲間同士で写真が撮れるよう、30人のストリート・チルドレンと青年たちを対象に、カメラの扱いを教える「写真教室」を開きました。参加者の中から熱心な10人をまず選び、さらに7人にカメラを渡し、仲間の一日を撮影してもらいました。14、15歳のストリート・チルドレンがマオイストの行事のために旗を作っている現場に出くわした者がいましたが、マオイストが撮影を許しませんでした。

準備段階から関わったふたりのストリート・チルドレンは、こうした過程において、筆者、編集者、撮影指導をしてくれた写真家、経済的支援をしくれた団体と同等の貢献をしてくれました。

この本はネパールのストリート・チルドレンを取り巻く状況を10年前と比較する際に役立ちます。10年に及ぶ紛争が彼らの暮らしにどんな影響を与えたか、国家とマオイストの紛争によって彼らが路上で暮らさざるを得なくなる引き金要因とは何か、現在のストリート・チルドレンはどんな夢や希望を抱いているのか、彼らは朝から夜までどのように一日を過ごしているのか、政治デモや交通ストライキ、外出禁止令が出た時に彼らはどう対処しているのかといった疑問に、本書は答えようとしました。この本はストリート・チルドレンのために活動するすべての団体にとって役立つことでしょう。

[i] Central Child Welfare Board (CCWB) は、ネパール政府、女性・子ども・社会福祉省内で子どもの権利の保護を目的に設置された委員会。http://ccwb.gov.np/
[ii] Friends of Needy Children (FNC)は、1996年に設立されたネパールのNGOで、子どもや青年が自分の権利を享受できる社会をつくることを目指している。http://www.fncnepal.org/
[iii] The ISIS Foundationは、1997年に設立されたアメリカのNGOで、ネパールとウガンダにおいて子どもの保健と教育分野の支援をしている。ネパール国内ではカトマンズのほか、カルナリ地方のフムラ郡で活動している。http://www.isis.bm/
[iv] 1972年に設立された日本のNGO。ネパールのほかバングラデシュとインドで活動している。http://www.shaplaneer.org/
[v] 靴底を修理する接着剤など手軽に入手できるものを利用している。ストリート・チルドレンのシンナー中毒の実態についてはCWIN(2002)の調査結果を参照のこと。
1. ネパールのストリート・チルドレン
1-1. 概要

ネパールのストリート・チルドレンの歴史はよくわかっていません。いつどんな状況で路上で暮らす子どもが現れたのか、どの団体にも記録が残っていません。彼らに関する詳しい研究がない理由は、具体的な資料が得られにくいからです。ストリート・チルドレンはなぜネパール語で「カテ」と呼ばれるのか、どうして路上で生活するようになったのか、誰が最初に彼らへの支援を始めたのか・・・・。多くの疑問がわいてきますが、長くストリート・チルドレンのために活動してきた団体にさえ、これらの質問には答えられません。

過去の話はともかく、多くの団体は子どもたちの現状すら把握できていません。2002年に出版されたCWIN[i]の報告書によると、ネパール全体でのストリート・チルドレンの人口は約5,000人でした。その後新たな調査は行われておらず、各団体ごとに異なった統計を出しており、どの数字を信用すればよいか判断しかねます。前述の報告書によれば、当時カトマンズでは約500~600人の子どもたちが路上にいました。他団体の話[ii]では、ポカラに250人[iii]、ダランとビラトナガルに200人ずつ[iv]、ナラヤンガート、ブトワルに200人ずつ[v]の子どもたちがいると言います。

記述された歴史がないとは言え、25年ほど前からネパールの子どもたちが路上生活を送り始めたと推察できます。その頃、国内外のさまざまな団体がそういう子どもたちについて注目し始めたからです。このように20年以上にわたって、外国の団体がネパールの団体とともにストリート・チルドレンのために活動しています。今では、ストリート・チルドレンと関わる団体が増えましたが、その成果は必ずしもかんばしくありません。その多くが子どもたちにとって何が必要なのか十分把握しないで仕事を始めているように見えます。これらの団体は子どもたちが本当に望んでいることを未だ知らないままでいるようです。

この20年間で、ストリート・チルドレンのためという名目で、30カロール・ルピー[vi]相当の援助金が使われたと推測されますが、問題は解決していません。8~10年前もネパールには5,000人ほどのストリート・チルドレンがいました。過去10年間で彼らのために活動する団体の数が3~4倍に増えたので、ストリート・チルドレンの人数は減っていかなければならないはずですが、現在も人数に変わりはないと聞きます。活動団体の増加につれて援助額も増えているにも関わらず、効果が現れていないのでしょうか。この事実は、ストリート・チルドレンのための活動が未だ有効でないということを物語っています。あるいはこれらの団体は8~10年前の統計を未だに使い続けているのでしょうか。

数年前に中央児童福祉委員会がJAFONを含む団体やストリート・チルドレン自身の協力を得て調査を試みました。カトマンズのストリート・チルドレンの数を740人とする統計を出したものの、それも不十分な調査でした[vii]。ストリート・チルドレンの増減を断定するのは、大変難しいことなのです。

私たちが、ストリート・チルドレンのために活動する国内外の団体に訴えたいのは、まず適切で長期的な計画が必要だと言うことです。現在すでに実施している方針と事業計画の修正も必要でしょう。個人にも、団体にも、また国家にも資金は必要です。しかし、それは本来の目的に沿って用いられるべきです。適切な政策や計画がなければ、どれだけ多くのお金があっても成果を挙げることはできません。また、ストリート・チルドレンを支援する各団体は共通の理解に基づいて計画を実施し、それを進化させていく必要があります。

1-2. 特徴
現在ストリート・チルドレンの人口は減ることなく、むしろ増え続けていると思われます。数年前まで、路上に子どもたちがやってくる原因は貧困にあると言われてきましたが、次第にその理由も多様化しています。子どもに対する両親の無関心、友達の誘惑、家庭内暴力などを理由に子どもたちが路上に出てきています。裕福な家庭の子どもが路上にやってくる場合もあります。

10年ほど路上生活をしている者と最近そうなった子どもの間で最も異なるのは、技術の取得に対する意欲です。技術訓練の機会を増やすことは、問題解決の糸口になり得るようです。もう一つ重要な点は、近年ストリート・チルドレンになった子どもたちの中には、学校教育を受けたことのある子が多いということです。現在のストリート・チルドレンのほとんどが読み書きができますし、8年生まで修了して路上に来た子どももいます。彼らの多くは勉強が嫌いで家を出て路上に来ています。一般の学校教育に興味を失ったからです。彼らは再び学校に行くよりも、手に職をつけることができる技術訓練に関心を示すでしょう。とは言え、教育支援に意味がないと断言するつもりはありません。学校に通い続けることを望むストリート・チルドレンも少なくはないからです。私たちは、一般の学校教育と技術訓練のいずれも重要だと言いたいのです。 

紛争によって家族が国内避難民となり、子どもたちが路上に来る傾向が見られます。首都圏にあるカトマンズと隣接するラリトプルのストリート・チルドレンの人口が特に増えています。子どもたちは一旦都市での生活に慣れると、紛争が終結し村での安全が確保されても、路上で楽しむ癖がつき、村に帰りたがりません。経済的に問題を抱えた家庭の子どもたちは、一旦都会に出るとその誘惑に弱いのです。

大まかに分けると2種類のストリート・チルドレンがいます。昼夜ともに路上で過ごす子どもと、昼は路上で過ごすものの、夜は家族の所に帰る子どもです[viii]。前者については特定の地域で活動するたいていの団体が人数を把握していますが、後者について把握するのは非常に困難です。また最初は夜になると家に帰っていた子どもも、夜、路上で過ごす子どもたちと親しくなるにつれ、家に帰らなくなっていく傾向があります。

路上で生活する子どもや青年たちは、お互いを信頼していますが、見知らぬ人は信用しません。そういう人と親しくすることも好きではありません。それでも、彼らは一度信頼関係ができるとずっと信頼し続けるのです。一度心を開いた後は、良い事であれ悪い事であれ、自分の個人的な秘密を打ち明けるのもためらいません。最初はとても恥ずかしがっていた子どもも、一旦話し始めると打ち解けます。その一方で、あなた自身が彼らにどれだけ心を開いても、彼らがあなたを同等だと感じることはなく、彼らはあなたから何らかの利益が得られないか探しているのです。そのため、一般の人からストリート・チルドレンが荷物やお金を奪い取るという事件が起きるのです。しかし、彼らも路上生活に疲れ、安定した暮らしをしたいと望む日が来ます。その時、彼らはあなたを探します。あなたの支援を受けることができたら、彼らは路上生活をやめ普通の市民として暮らすことができます。彼らの中には良い道に進む子もいれば、一般の人たちになかなか相手にされないことに嫌気がさして、再び路上生活に戻っていく子もいます。

[i] Child Workers in Nepal Concerned Centre(CWIN)は、1987年に設立されたネパールのNGOで、子どもの権利と児童労働に関するロビー活動では草分け的存在。http://www.cwin.org.np/
[ii] 本書のネパール版を執筆した2006年に、地方で活動する各団体に電話で行ったインタビューによる。
[iii] 西部の観光都市。1997年に設立された地元NGO、Child Welfare Scheme Nepal (CWSN)による。http://www.childwelfarescheme.org/
[iv] ともに東部の都市。1993年に設立された地元NGO、Under Privileged Children Association (UPCA)による。http://www.upca.org.np/
[v] ともに中部の都市。2004年に設立された地元NGO、Child Protection Centers and Services (CPCS)による。http://www.cpcs-int.org/
[vi] 1カロールは、1千万ルピー。2008年1月現在、1ルピーは約1.53円。
[vii] ストリート・チルドレンの中には寝る場所を求めて転々とする子どもが多いため、広域にわたる一斉調査を行わない限り、正確な人数を把握することは極めて難しい。
[viii] 生活のすべてが路上にある子どもはChildren of Street、家があり家族のもとに帰るが多くの時間を路上で過ごす子どもはChildren on Streetと区別して呼ばれる。CWIN(2002)参照。
1-3. 生計、ごみ問題との関連
ストリート・チルドレンの中には、バスやテンプーなど公共の乗り物で車掌[i]として働いたり、食堂で皿洗いの仕事をする者もいますが、多くはごみとして捨てられる牛乳や油の入ったプラスチックの袋、割れたプラスチックのバケツ、ガラス瓶、その他さまざまな種類の銅、鉛、アルミニウムなど資源ごみを拾って生計を立てています。彼らは私たちの家のまわりや道端のごみの中からこれらのものを集め、資源回収業者に売るのです。この仕事をする子どもたちは、夜明け前に起きて資源ごみを探しに出かけます。午前中集めたものを売った後、午後は映画を観たり遊んで過ごします。再び夕方から夜中までごみを探して歩き、真夜中になって路上や回収業者の集積場、また施設などで眠ります。

実入りが良いときは、肉のカレーを食べたり、トランプや、映画、酒、また衣類やシンナーを買うのに稼ぎを使ってしまいます。ストリート・チルドレンは普通の貧しい家の子どもより、贅沢をしているように見えます。ネパール人のほとんどは祝祭日の時だけ肉を食べますが、彼らが普段から肉を食べていることを知って驚く人も少なくありません。お金が足りるなら、彼らは肉だけ食べてお腹いっぱいにしたいほどです。毎日映画を見たり娯楽にふけること、むしゃむしゃと何か食べ続けることが好きです。そうしないと気が晴れないのです。

ごみを探し歩く彼らですが、免疫力が強いのか、病気になる子どもは意外に少ないです。道端や私たちの家のまわりからストリート・チルドレンがごみを拾わなくなったら、私たちのまわりはどうなっていたでしょうか。コレラ菌など多くの病原菌が広がっていたかもしれません。ストリート・チルドレンが一般住民を健康被害から遠ざけ、自治体のごみ回収の一端を担っていると考えることはできないでしょうか。しかし、誰もストリート・チルドレンがごみ回収に貢献しているとは考えないのです。ストリート・チルドレンは「カテ」、時には泥棒とまで呼ばれ、見下されています。自治体が彼らのための活動をすることもありません。彼らの働きを評価し、ストリート・チルドレンの健康と安全に役立つような教育や技術訓練を自治体が行うことが必要です。彼らは目に見える働きをしているのですから、一般住民もストリート・チルドレンに対する偏見を捨てなければいけません。自治体のごみ回収が不十分な現状では、ストリート・チルドレンなしでごみの分別や資源ごみの回収はできません。彼らが売った資源ごみを売買することで多くの人が仕事を得ています。しかし、ストリート・チルドレンが大きな利益を得ることはありません。資源回収業者たちも、彼らに対して冷たいです。みな自分の利益だけを考えているのです。ストリート・チルドレンに対して、感謝の気持ちを持っていません。ストリート・チルドレンが資源ごみを回収しなかったら、自治体はごみの分別にどれだけお金をかけることになるでしょうか。これは真剣に考えなければならない問題です。彼らはごみの分別や環境にとって重要な貢献をしているのです。

年少の頃から、道端や住宅街で麻袋を担いでごみを集めていた子どもたちは、青年となった今、警笛を鳴らしながら住宅街でごみ回収をしています[ii]。仕事のやり方が少し違うだけですが、ストリート・チルドレンのほうは相変わらず見下されています。以前は、戸別回収サービスが少なかったため、路上にごみを捨てる人が多かった上、自治体の回収も遅れがちでした。ストリート・チルドレンがプラスチックや金属を集め、お金を稼ぐことはそれほど難しくありませんでした。最近はごみの路上投棄が禁止されており、自治体も早く回収するようになったので、彼らは仕事がしにくくなっています。この仕事で食べていけなくなると、ストリート・チルドレンは悪いことにも手を染めるようになります。盗み、強奪、売春などをしてしまう可能性があるのです。また、路上で物乞いをする子もいます。廃棄物処理の仕組みを改善するのと同時にストリート・チルドレンの生計のことを忘れてはいけません。彼らの仕事を奪ってしまうと、彼らが悪事を働いてしまい、国にとっても問題となるでしょう。こういう点も政府が対策を考えるべきです。

[i] テンプーはオート三輪車の総称。カトマンズとラリトプルで走行しているものはいずれも充電式電気自動車。車掌はネパール語で「カラシ」と呼ばれ、出発時に客を呼び込み、走行時に停車を知らせ、乗車料金の徴収も行う。
[ii] 行政によるゴミ回収システムが確立していないネパールでは、NGOや民間業者が各戸を訪問し、警笛で知らせながらゴミを回収している。
1-4. 民族、カースト、階級
ストリート・チルドレンたちは互いの出自をあまり気にしません。初対面で相手の民族やカーストを表す苗字を尋ねることはありません。それでも一緒に生活するうちに出自がわかり、カースト名で呼び合う者もいます。バフン[i]の友だちに、「バフン」と呼びかけたり、ボテ[ii]の仲間に「ボテ」と声をかけることもあります。しかし、カミやダマイ[iii]の仲間に対して同じようにカースト名で呼ぶことはしません。子どもたちも社会の常識は理解しています。

カーストによる上下関係で差別することはないですが、相手の出自を知ったことで、からかいの材料にすることはあります。「君は他のカーストの僕らが触ったものは食べないよね」と言われたバフンの少年が、「触って僕の分も食べてしまうつもりかい?」と笑いながら返事をすることがあります。このようにカーストに由来することで冗談を言い合ったりすることはありますが、これはふざけているだけで、相手を傷つけたり、差別するわけではありません。

子どもたちが路上生活を始める要因として民族・カーストや宗教が、経済的な問題以外にどういう影響を及ぼしているのか調査が行われたことはありません。それでも、彼らのその後の人生においても民族・カースト、宗教は重要な意味をもつようですから、こうした出自の背景とストリート・チルドレンとなる因果関係ついて調査をする必要性があるでしょう。

子どもから青年になるにつれ、民族・カーストの話はだんだんしなくなります。路上生活をする青年たちはカーストの異なる相手と結婚することがあります。結婚しても路上生活を続けている夫婦もいますし、路上で子どもが産まれた例もあります。路上生活をしていた青年が富と財産、社会的階級という境界を越えて結婚した者もいますが、うまくいかなかった者もいます。約12~13年前からカトマンズで路上生活を送っていたある青年の悲しい恋物語を紹介しましょう。彼が路上で暮らすうちに、カトマンズに家がある少女との間に愛が芽生えました。何ヶ月かの恋愛の後、少女の家族がふたりを引き離そうとしたのでポカラへ駆け落ちしました。少女の家族はポカラから少女を探し出し、カトマンズへ連れ帰って、他の男性と結婚させました。このような話はよく聞きます。一方、裕福な家庭でも、両親が娘の選択を受け入れる場合もないわけではありません。結婚後、両親は自分の娘と結婚した青年が仕事に就けるよう支援することもあります。路上で過ごした青年たちの中にも、順調に結婚生活を送る者もいるのです。

1-5. 紛争の影響
ストリート・チルドレンはネパールの大きな問題ですが、他の問題の影に隠れがちです。この分野で活動する団体の影響力が小さいこともその理由のひとつですが、国家の他の問題とより複雑に絡みあっているため解決が難しいからです。1996年以後、路上にやってきた子どもの中には、紛争の影響を受けて都市に出てきた者も少なくありません。村では多くの子どもたちがマオイストに連れ去られ、逆に国軍からはマオイストのスパイではないかと疑われました。村人たちは両者の板ばさみとなって苦しんできました。子どもたちは自分の意志で、あるいは子どもの安全を願う両親に半ば強制されて村を離れます。彼らは、自分で逃げてきたり、家族と相談の末、町にやって来ます。仕事が見つからない場合の選択肢の一つが路上生活なのです。子どもたちの中には、マオイストと何日か行動をともにした末、逃げてきた例もあります。多くの子どもがマオイストを恐れて町へやって来ます。彼らが望んでも簡単に村に戻ることはできません。

この紛争によって、多くの村人が避難民として都市へ移住しました。両親と一緒に都市に来た子どたちの中には、生活の糧を得るために路上生活を始める子もいます。両親は日々の生計を立てるのに忙しく、子どもの面倒を見ることができません。その結果、子どもたちは昼間、自ら働くようになります。両親を助けるためだと言って、自ら路上にやってくる子もいます。他の子どもたちと接するうちに、次第に昼夜を路上で過ごすストリート・チルドレンとなっていくのです。

2006年4月の第二次民主化運動も、ストリート・チルドレンたちの生活を苦しめました。外出禁止令が出ているときは、屋外にいることが許されません。生活がとても不安定になりました。交差点だけでなく路地にも武装警察や国軍が配置され、いつ銃弾が飛んでくるかわかりません。子どもたちは何日間も、外に出ることができませんでした。ストリート・チルドレンはその頃どこで過ごしていたのでしょう。断定はできませんが、彼らは町のどこかのごみ集積場や、団体の施設で過ごしていたと考えられます。居場所だけでなく、彼らには、もっと深刻な問題がありました。生活の糧を得ることができなくなったのです。デモが行われていた期間中、彼らは資源ごみを集める仕事ができませんでした。稼ぎがなければお腹をすかせて過ごさざるを得ませんでした。

その頃、実際に群衆の中で国軍兵に押さえつけられた子どももいました。外出禁止令の最中に外に出る人々を、国軍が追いかけてきて殴ります。シバ・ラマにとってそれは軍から暴力を受けた悲しい出来事です。彼は7歳から路上で生活していますが、昔よりも現在の方が、軍や警察の態度が厳しくなったと言います。夜、プラスチックを拾いに行くと軍や警察からマオイストではないかと疑われます。「僕はマオイストじゃない」と言うと逆に怒られ、「カテ」と言って怒鳴られた、と彼は言います。国軍兵が彼らに「マオイストとどれくらい頻繁に会うのか」と尋ねることもありました。また、マオイストも路上にいる青少年を彼らの集会に強引に連れて行きました。

留置場に入れられたストリート・チルドレンもいます。例えば、盗み、ケンカ、麻薬等を理由に捕まえられたのです。留置場に入っている子どもたちは警察官から「お前はマオイストではないか」と責められ、とても怯えています。紛争によってストリート・チルドレンはさらに苦悩を負ったのです。

この分野で活動する団体と警察の間で何度も話し合いをしました。警察は、マオイストが青少年を兵士として使っていることばかり言いますが、私たちから見れば、ストリート・チルドレンは、マオイストだけでなく国軍からも嫌がらせを受けています。マオイストに対して不満をもつのと同様、彼らは国軍に対しても恐れを抱いています。私たちは連日報じられる紛争の実態を知っています。そのため、マオイスト側と政府側のどちらか一方の責任であるとは絶対に言えません。

1-6. 場所によるストリート・チルドレンの違い-カトマンズとラリトプルの比較
一般に、ストリート・チルドレンはみな同じだと思われています。路上で生活することは同じように暮らしていると誤解されがちですが、生活場所によって状況は異なります。ネパールの主要都市で路上生活を送る子どもたちを取り巻く環境がそれぞれ違うからです。都市によって便利さや人口規模に差があります。ある町は設備に恵まれ、別の町では人々の生活スタイルが開放的で、食べ物がより現代的である、といった差もあるでしょう。こうした条件によって、ストリート・チルドレンの生活スタイルも決まるのです。

遠く離れた都市を比較してみなくても、同じ首都圏にあって隣り合ったカトマンズとラリトプルのストリート・チルドレンの生活スタイルを比較してみても、大きな差が見られます。2004年から2006年までの間にJAFONと何らかの形で関わりのあったストリート・チルドレンは、ラリトプルに約200人、カトマンズには400人いました。彼らの違いを紹介しましょう。

ラリトプルでは学校教育を受けたことのあるストリート・チルドレンが多く見られました。ストリート・チルドレンの食事の回数にも違いがありました。カトマンズの子どもは昼間2、3回食べることができます。公的な団体の行事が多いため、食事にありつける機会も多いというのです。多くの団体はカトマンズでストリート・チルドレンのための活動をしています。メディアもカトマンズにおけるストリート・チルドレンについて扱うことが多いため、カトマンズの子どもたちはさまざまな人々と接触があるのです。

もう一つ興味深いのは、子どもの行動範囲についてです。カトマンズの子どもたちは頻繁にラリトプルに行きますが、一方ラリトプルの子どもたちはカトマンズに行くことが極めて少ないという点です。カトマンズにはストリート・チルドレンの数が多く、資源ごみ回収で生計を立てる彼らにとって十分なだけのプラスチックが拾えず、ラリトプルまでやって来るのです。

ラリトプルの子どもたちは家族と連絡を取っていますが、カトマンズの子どもたちはそれほど連絡を取っていません。ラリトプルでは年少のストリート・チルドレンの多くが近郊の村からやって来ています。彼らは自分の家に帰ることも難しくありません。ダサインやティハール[iv]の祝祭日に、ラリトプルの子の大部分は帰省します。彼らの両親も路上で商売をして暮らしています。たとえ家族のほうが子どもの心配をしていなくても、彼らのほうから両親に会うために家に帰ります。一方、カトマンズで路上生活をしている子どもたちは、ネパール各地から出て来ているので、家に戻るのも困難です。特に紛争への恐怖心から、多くの子どもたちは村へ行くのを怖がっていました。

1-7.  将来の夢

路上生活でお金を稼ぐこと経験をしたために、路上生活をやめた後も、彼らは自分で稼ぎたいと考えます。ストリート・チルドレンにもお金を儲けたい、有名になりたいといった夢があります。だから1日12時間以上の労働も苦にしません。社会一般の人たちと同じように生活することを望んでいるだけです。彼らは警察官と給料の少ない仕事には興味がないと言います。ストリート・チルドレンにとって一番人気のある職業はタクシーの運転手です。稼ぎが多いと思われているからです。裕福な家庭の娘と結婚する、映画の俳優になる、という夢をもつ者もいます。ネパールの階級制度に反発する彼らの姿が浮かんでいます。人気の高い職業、仕事は以下のとおりです。

運転手、アーティスト、洋品店や食堂などの商店主、コック、建築業、水道管工事、農業、外国への出稼ぎ、自分でNGOを立ち上げてて仲間を支援する、兵士になる。

1-8. ストリート・チルドレンのその後
かつて路上生活をしていた子どもの中には、路上生活を抜け出した者も少なくありませんが、現在の支援の方法には限界があります。多くの団体が18歳未満のストリート・チルドレンのために活動をしていますが、18歳以上の青年たちはその対象になっていません。18歳になったとたん、子どもたちは支援を受けることができなくなります。路上で暮らす子どもにとって、現状の支援は一過性のものに過ぎず、長期的な解決になっていません。

それでも、年少の頃に受けた支援によって自分の人生を変えたという青年の例もありますし、18歳になって自分の力で路上生活をやめた者もいます。多くの街でかつてのストリート・チルドレンが自立した例が見られます。路上生活をやめ、新しい生活を送る青年たちはさまざまな仕事をしています。その多くは運転手です。その次が衣類の商売、公務員、兵士となっています。中には、民間企業で働く者もいます。またストリート・チルドレンを支援する団体に就職したり、自分で団体を設立した青年もいます。

[i] ヒンドゥの最上位カースト
[ii] 本来チベット人を意味し、モンゴロイド系住民一般を指すが、呼ばれる側は蔑称だと感じることがある。
[iii] いずれもヒンドゥの不可触カースト(ダリット)で、カミは鍛冶屋、ダマイは仕立屋および楽士。
[iv] ダサイン、ティハールともに秋に行われるヒンドゥ教の祭礼で、公的機関は長期の休日となる。
2. Jagaran Forum Nepal (JAFON)
2-1.設立まで

現在ストリート・チルドレンのために活動する団体は数多くあります。JAFONもその一つとして2000年に設立されました。JAFONは運営方法などさまざまな点で他団体と違います。代表である私自身がストリート・チルドレンだったことにその理由があります。私が路上生活を送っていた頃の物語はとても長く、苦闘の末、ここまでたどりついたのです。これまでも多くの人々に影響を与えてきたと自負しています。そんな努力があってこそ、JAFONが多くのストリート・チルドレンとつながりをもてたのだと思います。

私の家はシラハ郡[i]にありました。両親のけんかがもとで7歳の時、家を出なければなりませんでした。その後両親は別居しました。母は私を学校に行かせるため、ビルガンジ[ii]に引っ越しました。母は学校で教員の職を得ましたが、私は町で友だちと過ごすことが増え、勉強するより彼らと一緒に映画をみたり遊びまわるようになりました。同年配の少年たちと一緒にいる時間が長くなり、家に帰らなくなりました。

ビルガンジに来て4年後のある日、カトマンズではお金を稼げると考え、私たち12人は連れ立ってカトマンズにやって来ました。知り合いの資源回収場があるダルコ[iii]に住むことになりました。私たちが拾い集めたプラスチックや金属は、1キロ12~14ルピーで売れました。6ヶ月間資源ごみ回収の仕事をしたあと、バグ・バザール[iv]に移りました。それが12年間の路上生活の始まりでした。 

1992年頃のある日、私は友達と一緒にCWINが運営する施設に行きました。CWINはアロハン(Aarohan)[v]という演劇グループと一緒に活動していました。ストリート・チルドレン自身も出演することになり、私も出演者のひとりに選ばれました。アロハンから1ヶ月にわたる演技指導を受けて、私たちは路上生活の劇を準備しました。スニル・ポカレルさんが演出し、私たちストリート・チルドレンが出演した『都会に生きる市民権のない者たち』という劇はさまざまな場所で公演されました。

それから約1年後、私はCWINを去り、友だちと一緒に再び路上生活を始めました。その後、アロハンがストリート・チルドレンの宿泊施設を造ったので、そこに住むことになりました。アロハンを通じてストリート・チルドレン関係の仕事をもらったので、10ケ月後、ホステルでの生活をやめました。同じような仕事でポカラにも行きました。

ストリート・チルドレンに関わる多くの団体と仕事をする機会を得た私は、ある日、自分でもこういう団体を運営できるのではないかと考えました。私もストリート・チルドレンの友人たちも、既存の団体の活動に納得していませんでした。そこで1998年、友人と一緒にJAFONの前身であるJagaran Groupを設立しました。それから2年後の2000年にJAFONを設立しました。

JAFONはさまざまな活動を通じて、路上生活をする子どもたちがいなくなるように社会に働きかけててきました。現在はラリトプルの事務所を拠点に、カトマンズとラリトプルのストリート・チルドレンの支援をしています。

事務所がまだアラムナガル[vi]にあった頃の奮闘の日々は忘れがたいものです。資源ごみ回収を通じて事業収入を得ることを目標にしていました。路上に住む子どもや青年にできる仕事をつくり、そこから得られた収益で他のストリート・チルドレンのための活動を行おうと考えたのです。青年二人が近隣の家庭を戸別訪問しごみの有料回収を始めました。7軒の訪問からスタートしましたが、400軒へと利用者が増えました。この事業は現在も続いており、2008年1月現在9名の元ストリート・チルドレンを含む14人が働いています。

[i] タライ平野東部の郡。
[ii] インド国境沿いの都市。
[iii] カトマンズ内ビシュヌマティ川沿いの地区。資源ごみ回収業者の集積場が多い。
[iv] カトマンズ市内中央の商業地区。
[v] Aarohanは1982年に設立された演劇グループ。カトマンズにある自前の劇場での公演以外に、ネパール各地のグループとの創作活動も行っている。ネパールを代表する演出家・俳優のスニール・ポカレルが主宰。http://www.aarohantheatre.org/
[vi] カトマンズ市内の中央官庁があるシンハ・ダルバールの裏にある。
2-2. 『僕らの家』
2005年から、JAFONは新しい活動を始めました。『僕らの家』というストリート・チルドレンが大人たちの干渉を受けることなく、安心して立ち寄り、生活できる場の運営です。ラリトプルのクンベシュワル寺院の近くで建物を借りています。この活動は、シャプラニール=市民による海外協力の会という日本のNGOの支援を受けています。宿泊施設としてだけでなく、子どもたちが利用できるサービスを提供しています。例えば、病気になったとき医療施設に行くための補助、テレビなど娯楽を楽しめる部屋、スポーツ用品、安心して食べられる安価な食事の提供、稼いだお金を貯金する仕組み、読み書きや計算を習う教室、資源回収場の運営-よその回収業者は子どもたちに妥当なお金を与えないことがあるから-です。他には、ストリート・チルドレンに対する啓発活動、技能訓練、運転免許証や市民権証取得のための支援を行い、ときには芸術家と協働することもあります。

施設の運営すべてを援助に頼るのではなく、いずれ自己資金で活動できるよう、食堂と回収場を自ら経営しています。彼らは自分たちの稼ぎから食事代を払っています。25ルピーあれば『僕らの家』の食堂で食事ができます。ほとんど子どもたちは食扶持は自分で稼ぐ習慣が身についています。

『僕らの家』として借りている2階建ての建物には、部屋が11あります。事務所のほかに、子どもたちがテレビを見る娯楽の部屋、教室として使う部屋などがあります。寝室は三つで、うち二つは年少の子ども、一つが年長の子どもの部屋です。彼らの持ち物を置く部屋が別にあります。台所と食堂、職員の控え室があります。屋外でからだを洗うために、いつも石鹸が用意してあります。薬も常備しています。
ここには常時約30~40人が暮らしています。8歳から26歳までの男の子[i]が暮らしていますが、18歳未満が大半です。生活上の規則はありますが、それぞれ自分のペースで生活しています。朝6時には朝食を用意していますが、中には遅くまで寝ている子もいます。子どもたちの多くは朝食後プラスチックなど資源ごみを探しに出かけ、昼食を食べに戻ってきます。それを売った後は、からだを洗い、テレビを見たり、ギターを弾いて歌ったり、またボードゲームをして遊びます。夕食後、午後6時から夜中までの間、彼らは再び朝と同じように仕事に出かけます。彼らが戻るのは深夜です。

薬物中毒にかかっている子も少なくありません。彼らは靴を修理する接着剤をシンナー代わりにしたり、他の薬物を吸引しています。これはストリート・チルドレンの大きな問題の一つです。『僕らの家』でも、多くの子どもたちが常習していて、注意してもやめさせることができません。

これだけのサービスと設備があっても出ていく子はいます。彼らを止めることはできません。自分の意志でやって来て、そして自分の意志で出て行くのです。それでも、多くの子どもたちにとって、『僕らの家』は自分の家のような存在です。子どもたちの大半はここに来た後は他の場所へ行こうとしません。彼らはここで居心地良く暮らしているのです。友だちをつくり、語り合いながら楽しんで暮らしています。

[i] 女子のストリート・チルドレンもいるが、施設の利用は男子のみに限定している。

3.路上生活をした青少年たちの語り
ここから先の話は『僕らの家』で暮らしている青少年の語りに基づく事実ですが、彼らの将来に悪い影響を与えないよう、名前は彼らの好きなアーティストのものに、また出身地など住所を示すものも替えてあります。

3-1.誘拐を恐れて アミト(17歳)
僕はアミト・ドゥンガナ、17歳です。僕の家はラリトプル郊外のブンガマティ村です。1999年、10歳の頃、友達といとこの影響で、路上で暮らすようになりました。


最初に村を出た友達といとこが、バスターミナルのあるラガンケルやジャワラケルで、テンプーに客を呼びこむ仕事をしていました。彼らに連れてこられた僕は、いとこと一緒に働き始めました。少しずつ知り合いができてくると、いろいろなことに興味を持ち、もっとここで働きたいと思うようになりました。やがて学校もやめ、一人でブンガマティから歩いて町へやって来るようになりました。夜中に歩いて家へ帰ったこともありました。

働くうちにテンプーの運転手と知り合いになり、車掌になりました。はじめは夜中に家へ帰っていました。車掌仲間の多くは路上で寝ており、僕と同年齢の者が多かったです。彼らとは話が合うので、僕も一緒に路上で寝るようになりました。家に帰らなくなると、両親はとても怒りました。学校を辞めたことで叱られましたが、僕は自分の暮らし方を変えることはできませんでした。

車掌の仕事をするうちラガンケルで食堂の主人と知り合いになりました。テンプーの仕事がだんだん嫌になったので、食堂で働き始めました。何ヶ月か働きましたが、皿洗いと掃除の仕事が好きになれず、再びテンプーの車掌に戻りました。少しずつお金を稼げるようになったのですが、路上でちんぴらに嫌がらせをされました。お金を盗られたり、無理やり連れていかれて洗濯をさせられたりしました。路上で暮らしているとずいぶん嫌なことがありました。服がなくて、寒い冬は眠れませんでした。路上生活が嫌になって、家に帰りたくなりました。

村を出て4年後、家帰ると、両親はとても喜びました。久しぶりに家族と過ごすことができて、僕も嬉かったです。村には友達もいて、彼らとも遊びました。両親は僕を再び学校へ行かせようとしていました。しかし、下校中の生徒をマオイストが誘拐したという話を聞き、僕は怖くなり、家族に何も告げず村を出ました。僕はまた路上で暮らし始めました。プラスチックを拾う仕事を始めました。何ヶ月か経ったある日、家に戻りましたが、両親が家にいませんでした。マオイストを恐れて村を出て行ったのでしょう。仕方なく僕は町へ戻って路上で暮らしながら、昔の仕事を始めました。今、僕は『僕らの家』で暮らしています。

3-2.学校にやってきたマオイスト ビラジ(16歳)
僕の名前はビラジ・バッタです。5年前から路上で生活しています。家にはたびたびマオイストが来ていました。警察や国軍兵も来ました。両親と僕は彼らが怖かったので、村から町にやって来ました。

ある日のことです。僕は両親と一緒に木を切りに森へ行きました。木に登っていると、迷彩服を着て武器を持ったマオイストが来て、僕に木から下りるように言いました。僕は恐ろしくなって、すぐ従いました。下りてきた僕に言いました。「もう君は大きくなった。俺たちと一緒に行こう」と。彼らは僕の両親とも話しました。両親も怖くて断ることができず、承諾するしかありませんでした。「この話を村の誰にも言ってはならない。口外したら刑罰が下り、殺されるぞ」、と脅されました。翌日迎えに来ると言って、彼らはそこを去りました。

翌日学校へ行きました。前日の事件を友達と先生に話しました。丁度その時、他の生徒を連れて行くためにマオイストが学校に来ていました。彼らは僕にも「さあ、一緒に行こう」と言いました。先生は僕をこっそり呼んで、「マオイストには『明日行きます』と返事しなさい」と言いました。僕はその通りにしました。マオイストが他の生徒と話をしている間に、先生が僕を逃がしてくれたので、無事家に帰ることができました。僕はとても怖かったです。両親にすべて話した後、僕たち一家はそこから少し離れた父方の叔母の家に行きました。両親はそこに住むことにしましたが、僕は恐ろしくてそこに住む気がしませんでした。そこで僕はバスの運転手をしている知り合いに会いに行き、両親には言わずに彼のバスに乗りました。その夜はバスの中で眠りました。翌朝4時にはカトマンズに着きました。

まずラリトプルの母方の伯母の家に行きました。ラガンケル方面に行ったとき、テンプーの運転手や車掌と知り合うようになりました。その後、テンプーの車掌として働くようになり、路上で寝るようになったので、伯母の家にも行かなくなりました。

村の生活は楽しかったです。学校にも行けました。友達とも遊びました。母のごはんはいつもおいしかったです。でも、今ここでの生活はとても大変です。運転手になりたいですが、どうしたらなれるでしょうか。僕はラガンケルの路上で生活してきましたが、3ヶ月前から『僕らの家』で暮らしています。

3-3.路上にしか僕の居場所がない シュリ・クリシュナ(22歳)
僕はシュリ・クリシュナ・シュレスタ、22歳です。家はロルパ郡[i]です。13歳の時、マオイストのせいで家を出なければなりませんでした。

僕たち一家は貧しく、両親が荷物運びの仕事をして生計を立てていました。荷物を受け取りるため遠くまで行き、それを背負って再び遠くまで長い道のりを運ぶのです。僕も両親と一緒に荷物運びをしていました。稼いだお金はすべて食べていくために必要で、ダサインに新しい服を買って着ることすらできませんでした。それほど一家の家計が苦しかったのです。

村には町へ出稼ぎに行っている人がいました。近所の人が出稼ぎの話をもちかけ、両親は僕を近所の青年と一緒に町へ送り出しました。僕がお金を稼いでくるものと両親は期待していましたし、僕も町で十分稼ぐことができると思っていました。家から出稼ぎ先のポカラまで2日間歩かなければならず、歩き続けるのはとても大変でした。道には食べ物もろくにありません。お腹をすかせて歩かなければなりませんでした。途中で足が痛くなり、歩けなくなりましたが、やっとのことでポカラに着きました。

ポカラのホテルで皿洗いの仕事を始めました。ポカラでは僕と同年齢の男の子たちに会いました。彼らがカトマンズの方がたくさん稼げると言うので、僕もカトマンズへ行きたいと思うようになりました。ある日、僕はポカラからカトマンズ行きの夜行バスに乗り込みました。誰かの子どもだと見られたのでしょう、僕は運賃を徴収されませんでした。翌朝、カトマンズのバスターミナルに着きましたが、カトマンズのことは何も知らなかったので、初めての場所に戸惑いました。近くの食堂に仕事を探しに行ったところ仕事が見つかり、そこに住むことになりました。

初めうちこそ主人は僕にとても良くしてくれましたが、だんだん僕を叱るようになりました。食事は与えてくれましたが、給料はくれません。給料を要求しても家に帰るときに渡すとしか言いません。次第に僕はカトマンズのことがわかってきました。知り合いもできました。僕はこの食堂から逃げて、ラガンケルの別の食堂で仕事を探しました。そこでも何ヶ月か仕事をした後、嫌な思いをさせられました。

その食堂に来ていた運転手や車掌と知り合いになり、彼らの紹介でテンプーの車掌として働くことになりました。僕と同じ車掌や、路上で寝ている男の子たちとよく会うようになりました。夜、運転手はテンプーを家に停めるので車掌の僕たちはその中で寝るわけに行かず、寝る場所に困ります。僕は他の友達と一緒に路上で寝るようになりました。路上で寝ている友達がプラスチックを拾う仕事でお金を稼いでいるのを知りました。この仕事は簡単だと思い、僕もプラスチックを拾う仕事を始めたのです。もう8年ほどこの仕事をしています。

両親を思い出して一度だけ家に帰ったことがあります。久しぶりに家に帰ったので両親は僕を見て喜びました。ある日僕が家にいる時、6人のマオイストが来て僕に言いました。「さあ、俺たちと一緒に行こう」。僕は「行きません」と言いました。「行かないのなら、君の両親を殺す」と言って脅しました。両親を殺すというので僕は怖くなり、彼らについて行くことにしました。彼らは何の理由も言わず僕を4日間縛ったまま放置し、殴ったり。蹴ったりしました。食事も与えてくれませんでした。そして4日間は家にもどこにも行かないという条件で、僕を解放しました。僕は家に帰りましたが、両親が、村にいては危ないと言うので、僕は再びポカラを通ってカトマンズにたどり着きました。またプラスチックを拾う仕事を始め、路上で友達と暮らし始めました。運転手になりたいと思っていますが、市民権証がなければ運転免許が取れません。村に戻って市民権証を申請できる状況でもありません。出身地でなければ取得できないのです。

路上で暮らす中で、数え切れない苦労がありました。警察やちんぴらが僕たちに嫌な思いをさせます。稼いだわずかばかりのお金を強奪する人がいます。路上では寒さ、暑さ、冷たさ、すべてを受け入れなければなりません。初めの頃は、町で辛い目に遭うたびに村に帰ろうと思いました。しかし、僕のような子どもたちはマオイストに連れて行かれるので村に戻ることはできません。結局、最後は路上以外に僕のための場所はありません。だから路上生活を始めたのです。


[i] ネパール中西部丘陵地帯の郡。人民戦争が開始された1996年直後からマオイストの影響が強かった。

3-4.マオイストと国軍の板ばさみ モテ(18歳)
僕の名前はモテ・マガルです。本当の名前は別にあるのですが、仲間が僕をモテと呼ぶのでこの名前が気に入っています。今18歳です。実家はシンドゥルパルチョーク郡です。2年ほど前、16歳の頃から路上で生活しています。

実家は農家です。家にいる時は僕も両親の畑仕事を手伝っていました。学校に通っていました。通学途中の道で、マオイストや国軍兵士に会うこともありました。マオイストは僕たちに「君たちも一緒においで」と声をかけます。一方、国軍は「君の村ではマオイストは誰かい?」と尋ねます。何度か、国軍兵が道で僕たちをマオイストと疑い、検査をしました。そんな怖い体験が続いたので僕の友達の大半は村から逃げて、町に行ったのです。

ある日の話です。僕は両親と畑に出ていました。そこへ何人かのマオイストが来て両親に言いました。「あなたの息子はもう大きい。この子を連れて行くからな」。両親は止めようとしましたが、マオイストは両親に言い聞かせました。「怖がるな。お前の息子は人民解放軍の兵士にはしない。炊事係にするだけだ」。僕は彼らについていきました。両親は何もすることができなかったのです。炊事係だと言われていたのに、僕は荷物運びをさせられました。結局僕は2ヶ月間マオイストの荷物を運びました。

ある日の夕方のことです。マオイストのグループのひとつがジャングルを通って移動する途中、僕も彼らと一緒にいました。ところが、国軍と偶然出会ってしまい、大きな戦闘になりました。僕は逃げ出し、そこからまっすぐラガンケルに着きました。その後、僕はラガンケルのある食堂で働き始めましたが、そこでは夜11時まで仕事をしなければならず、僕は給料をもらわず逃げました。そして荷物運びの仕事をするようになりました。その仕事を始めてから、路上で寝るようになりました。路上では多くの友達と出会いました。テンプーで客を呼び込む仕事とプラスチックを拾う仕事もするようになり、友達が僕をある施設に連れて行きました。それが『僕らの家』です。僕はここで生活するようになりました。

僕は時々、マオイストといた日々を思い出します。その頃、彼らは僕に銃の使い方も教えました。銃で金持ちを殺して彼らの金を奪ってやりたいと考えたものです。僕はこのごろ、村をよく思い出します。友達と遊びに行ったり、魚釣りに行ったり、時々ピクニックに行ったことを思い出すと、楽しくなります。しかし今も僕は路上で生活しています。それは楽しいことではありません。

原著者注:インタビューをした5ヵ月後、彼は『僕らの家』から出て行きました。今、彼がどこにいるかはわかりませんが、この話は彼が『僕らの家』にいた頃に話してくれたものです。

3-5.母にうとまれて ラジェス(13歳)
僕の名前はラジェス・ハマル、13歳です。2年前に家を出ました。僕はラガンケルの私立学校で5年生まで勉強しました。しかし5年生の時、学校を辞めて家出をし、タパタリの食堂で働き始めました。

父はテンプーの運転手で母は畑仕事をしていました。兄は小さい頃から腕白で、妹はまだ小さく、僕たち一家は貧しくて生活が大変でした。母はいつも僕を殴ったり、蹴ったりしました。母は父にも僕を悪く言い、父は僕をベルトで叩くのでした。5歳の時、僕はテンプーにひかれたことがあります。そのせいなのか、僕の思考は混乱し、何かおかしくなった気がします。心の中でもいろんな思いがめぐっていました。そんな僕に母は「出て行きなさい」と言いました。だから、ある日家から逃げたのです。

僕は何ヶ月か食堂で働きました。月給は700ルピーで寝る場所も与えてくれました。しかし何ケ月かするとは給料がもらえなくなり、兄の友達に助けてもらって、給料を支払ってもらってから食堂の仕事を辞めました。僕自身は勉強する習慣がなくなっていましたし、家も出ていましたが、食堂での稼ぎは妹の学費に使いました。

食堂にいた頃は、寝る場所に困りませんでしたが、辞めてから僕は路上で寝るようになりました。路上で過ごした最初の夜のことは今でも記憶に残っています。ラガンケルのバスターミナルに休憩用のベンチがあり、たくさんの男の子たちと一緒に僕もそこで眠りました。お金を稼ぐためプラスチックも拾い始めました。

友達と歩きながら薬物に手を出すようになりました。僕は初めてシンナーを吸った日のことを今も思い出します。ある日友達が、道端に座って、接着剤の箱を置いて吸っているのを見ました。僕がそれを拾って逃げると、彼は追いかけてきました。遠くのほうまで行って、牛乳が入っていたプラスチックの袋にそれを入れて吸ってみました。一瞬、僕は何もわからなくなりました。シンナーはとても刺激が強いようでしたが、一度吸った後、僕にとって気持ちの良いものとなりました。こうして毎日、シンナーを吸うようになりました。意識も朦朧となり、何もわからなくなります。癖になるとやめるのは難しいです。店で買うことができるので、みんな簡単に買って使っています。

僕は音楽が好きです。僕が一番好きな音楽はナラヤン・ゴパルの唄『人生は恋次第』です。この曲の歌詞はとても良いと思います。このラブ・ソングが好きになりました。僕はこのような曲が好きです。僕は歌を唄うのも好きです。ウディト・ナラヤン、ラジュ・ラマの曲も唄えます。『僕らの家』のある兄さんは、僕に歌を教えてくれます。彼は上手に唄います。彼の声を聞くと僕も唄いたくなります。僕は歌手になりたいと思っていますが、僕たちのような者がどうしたら歌手になることができるでしょう。ギターも習いたいです。

昔はマリファナなど他の薬物も使用していましたが、『僕らの家』に来てから止めました。でも煙草を吸わずにいることはできません。小さい頃からの習慣をどうやって止められるでしょう。僕は母から煙草を吸うことを習ったのです。一緒に部屋にいる時、母の煙草の煙をどれだけ吸ったことか。そして、どんな味だろうと味見をし、習慣となってしまったのです。

僕は『春』という映画に出演しています。タパタリの食堂で働いていた頃、そこによく来ていたある俳優と知り合いました。ある日彼のお兄さんが僕に「映画に出てみないかい?さあ、行こう」と誘いました。映画に出演できると聞いた時はとても嬉しくて、僕は「出演します」と言い、すぐ連れて行ってもらいました。自動車修理工場で働く若者、俳優シバ・ハリ・ポウデルの弟となって出演しました。歩道に座り牛乳の袋にボールペンの軸のプラスチックをストロー代わりして、シンナーを吸っている様子を演じました。本当にシンナーを吸わせてはもらうわけにはいかず、そのように演じただけでした。ラジェス・ハマルやジャル・サハといった俳優たちもその時に知り合いました。彼らは僕を忘れているでしょうが、見かけたら僕のほうから声をかけます。

『僕らの家』に来て一年が経ちます。今はもう路上で生活したくありません。路上生活ではテレビを見たくても、テレビを売っている店にのぞきに行かなくてはなりません。『僕らの家』にはテレビがあるので、よく見ています。映画で俳優や女優が踊っているところを見ると、僕もこんなふうになっていたらよかったのにと思います。

昔はからだも洗っていませんでしたが、今は週1回は水浴びをします。ここでは、水浴びや洗濯のための石鹸もあります。昼間はボードゲームで遊びます。でもシンナーを吸う習慣は未だに止やめられません。友達が隠して持ってくるので、吸いたくなるのです。

最近はあまり外を歩き回りません。僕は一日中『僕らの家』にいます。時々、職員のお兄さんの自転車を借りて、ボダナートの方まで行きます。そこに僕の祖母の弟が住んでいます。高齢ですが、会うととても嬉しいです。僕が行くとすぐ「元気だったかい」と聞いてくれます。おじさんも貧しいですが、僕は大好きです。時々、自転車でタパタリやタメルにも遊びに行きます。町に出ると楽しくなります。いろんな人々、大きな家や店を見ているとうきうきします。路上の子どもたちを見かけるのはとても悲しいです。どうして彼らは路上で生活しているんだろうかと考えさせられます。路上で暮らすのは大変です。多くの人たちに軽蔑され、警察にさえも嫌な思いをさせられます。バスも、轢き殺さんばかりのスピードで走ってきます。町でこんな光景を見ると悲しくなります。

僕はテンプーの車掌の仕事もしていました。その仕事で毎日5ルピーずつ貯めていました。一日中働いた後、夕方、あるNGOのお姉さんが5ルピーを預かってくれるのです。僕の貯金は1,500ルピーになりました。しかし、父が病気になったのでお金を下ろし、薬を買ってあげました。今も父は病気なので働けません。母はマンガル・バザールで焼きとうもろこしを売っています。雨が降るとなぜか僕は両親のことが心配になります。両親を思い出し、心の中でたくさんの思いがめぐるのです。

僕の昔の家はデュンゲカルクの村にありました。今も村の思い出がよみがえります。村のことを思い出すと嬉しくなり、楽しくもなります。村では果物をもぎ、食べていました。とても楽しかったです。他の人の結婚式に行ってはお腹いっぱい食べ、一つのポケットに炊き込みご飯、もう一つのポケットにおかず、また別のポケットにお菓子を入れて持ち帰り、翌日の学校のおやつの時間に食べました。結婚式で他の人の目を盗んで、僕たちは甘いお菓子もたくさん持って帰りました。

『僕らの家』での生活は楽しいです。この間、ここの職員のお兄さんがコンピューターを買って来たのが嬉しかったです。「僕たちの施設にもコンピュータが来た!」と、みんな面白がりました。ここで暮らすのは楽しいです。みんな僕を愛してくれます。でも時々、お兄さんたちに叱られると泣きたくなります。でもそれはごくたまに感じるだけで、普段は、まずまずだと思っています。いつも嬉しいことばかり、というわけには行きません。いろいろなことが起きますから。

<邦訳参考文献>
CWIN (2002), Glue Sniffing: Among Street Children in the Kathmandu Valley, CWIN, Kathmandu

翻訳:吾妻佳代子、監訳・訳注・編集:田中雅子