4. 当事者が語る紛争の現実
4-1. ミナたちの運命

「家の止まり木で鳴くカラスは、何かの知らせを持ってくる」とネパールの人々は信じています。ダンのゴウタクリ地区にカウワガリという村があります。タルーの言葉で「カウワ」はカラスを意味します。そこは昔、何千ものカラスが棲みつくようになり、村の名前がカウワガリとなりました。現在はサルキ(丘陵部の皮革職人カースト)が定住しています。

2002年6月30日、カウワガリでカラスは悲しい知らせを運び、鳴きました。その地域の森に入っていた12人の村人を国軍が銃殺したのです。当時を思い出しながら85歳のソンビル・ネパリ(サルキ)は言います。「私たちの先祖は1885年頃サルヤン郡からダン郡に移住した。様々な苦労も乗り越えてきた。でも神様は見守ってくれなかった。村の夢多き12人の若者たちが一瞬にして帰らぬ人となるのを、この目で見なければならなかったのだから」

ダン郡に移住した後、サルキはサンダルや靴などの革製品を作って売りながら生計を立てていました。ソンビルは自分の過去を思い出して話します。「その頃は靴一足で1ムリ(約75キロ)の米と交換できた。馬の鞍をひとつ打てば3ムリ(約225キロ)の米が手に入った。仕事は年中あり、生活にも困らなかった。だが政府がバンスバリに靴工場を作ると、皮にも税金がかかるようになった。それで、カウワガリのサルキたちは先祖代々営んできた靴・サンダル作りをやめた。それからは、日雇い労働をしたり、薪を売ったり、豚やヤギを飼って生活するようになった。それでも何とか生活は成り立っていた。しかし、2002年6月30日、国軍が12人の村の若者を殺害してから、その家族の生活はめちゃくちゃになった」

死亡した12人の中のひとり、レサム・ネパリには娘と息子がひとりずついました。レサムの妻ラダ・ネパリは、その後もなんとか子どもたちを育てようとしましたが、一家の稼ぎ手を亡くした家族を支えるのはとても大変でした。レサムは幼い頃に父母とは離れ離れになったため、ラダは舅、姑のところにも行きませんでした。

夫が殺されてからの3年間はラダにとって30年間にも感じられました。この3年間で娘のミナは10歳になり、家の手伝いもできるようになりました。息子アニルも4歳になり学校に行くようになりました。ラダはタケノコの新芽のように育つ子どもを見て傷心を慰めていました。2005年8月30日、ラダが子どもを少し早く学校に送り出しました。これまで学校から遅く帰ってくると怒るラダが、その日に限って「学校から帰ってきたら向こうのおじいさんの家の方で遊んでね。」と娘に言いました。

昼間、村に突然悲しいニュースが広がりました。ミナの母ラダが、家で首つり自殺をした知らせは草原の火事のように瞬く間に村中に広まりました。ミナと4歳の弟アニルは両親を失い、孤児となりました。彼女たちは現在、祖父母と一緒に暮らしています。ミナの祖母パルパティ・ネパリはこう言って悲しみを吐露します。「私たちは軍に息子を突然殺された。そのうえ、なぜ嫁までこの子たちを置いて自分の命を捨てなければいけなかったのか。この歳になって私は自分の面倒を見ることさえ大変だというのに、どうやって孫の世話までしろと言うのだろう」

孤児になったミナとアルニは適切な養育を受けられず、服は汚れ、体には掻き傷が見られます。ミナは体中に発疹ができていますが、治療費がありません。発疹のせいで学校に行くこともできません。小学校3年生のミナは言います。「お父さんが軍に殺されたときは、とっても悲しかったです。やっと悲しみを忘れられたと思ったころにお母さんが自殺しました。私たちのような孤児はこれからいったいどうしたらいいのでしょう。今、悲しみを忘れられるのは、私たちが作った子どもクラブで活動している時だけです」

カウワガリ村には、ミナやアニルのような不幸な子どもたちが他にもたくさんいます。紛争とは無関係な子どもたちが餌食になっているのです。彼女たちの心の傷を癒す薬はあるのでしょうか。