5.2 売られた少女をムンバイから救出したリラ
ある父親が、18歳になる娘の市民権証発行の手続き[i]をしないままに、出稼ぎ先のムンバイに行ってしまいました。娘はひとりでムンバイまで出かけ、父親の居場所を探し出しました。8年生まで教育を受けただけの少女が、どうしてそんな勇気をもっていたのでしょうか。ムンバイにやってきて父を驚かせた勇気ある少女は、ジャパ郡ビルタモード、デビバスティ村のリラ・バッタライです。

娘が自分の居場所を自力で探し出したことに、父親は驚きました。ムンバイといえば、何千ものネパールの少女が売られている街です。「もし、娘が人身売買の仲買人の罠にかかっていたら、今頃売られてしまっていたかもしれない」と父親は思いましたが、彼の娘は賢く勇気がありました。彼女は、彼女自身が売られなかっただけでなく、売られそうになっていたふたりのネパールの少女を救出したのです。「娘よ、よくやった!お前は息子にもできないような大切なことをした!」と言って、父は娘を誇りに思いました。そして、すぐに娘の市民権証を申請するため、父もネパールに帰りました。

それは2006年1月の出来事でした。リラがそんなに大きな勇気を持てたのも、数ケ月前に受けた研修の成果です。カトマンズのモヒラコハートを通じて、ナバジョティ女性研修センターで6か月の研修を受けました。その研修が、彼女に危険な状況でも行動する勇気を与えたのです。

リラがムンバイに到着したとき、ふたりのネパール人少女が連れて来られたという話を地元の女性から聞かされました。当初ふたりは、自分たちの意思で来たと言いましたが、リラがネパールから多くの少女たちがインドの売春宿に売られ、ひどい生活を強いられていると話すと、少女たちは、自分たちが村から仲買人に連れて来られたことを打ち明けました。父と地元の女性たちの協力を得て、仲買人たちが朝のお茶を飲みに出かけている時に、リラは少女たちを逃がし、ムンバイからゴラクプル[ii]行きの電車の切符を買って、ふたりをネパールに連れ戻すことに成功しました。

救出されたうちのひとりは、ジャパ郡の無権利居住者の地区クドゥナバリに住むデビ・サルキです。遠い親戚が良い仕事を紹介してやると言って、8年生だった彼女をムンバイに連れて行きました。もうひとりはニルマラ・ダルジです。彼女は中西部の出身ですが、リラは、ニルマラについてそれ以上詳しいことは明かせないといいます。ジャパ郡にデビの伯父と伯母がいたので、リラはニルマラも彼らに預けました。現在デビは9年生です。再び学校に戻ったデビを見て、リラは安心しています。

リラ自身は、モラン郡のパタリで生まれました。とても貧しかったので、彼女の両親は、どこに行けば食事を2度取れる暮らし[iii]ができるかと、住む場所を転々と変えながら暮らしていました。モラン郡からジャパ郡のブダバレ、サニスチャレに移り、さらにビルタモードのデビバスティに来てやっと彼らは落ち着きました。何度も引っ越したために、リラと姉は学校に通い続けることができませんでした。姉は16歳で結婚しました。娘の結婚後、父ディリバハドゥルはムンバイに出稼ぎに行きました。母のクリシュナ・マヤは長女夫婦の助けを借りて小さな食堂を経営し、3人の娘を育て始めました。しかし昼夜をいとわない仕事と、夫と離れて暮らすことの重圧から、母親は若くして病気になり、リラがまだ15歳の時、亡くなりました。

母の死後、リラを含む幼い3人の姉妹を養育する責任は、すでに嫁いだ姉ティカにかかって来ました。自分のふたりの子どもと、妹が3人、計7人の家計を支えるのは容易ではありませんでした。運転手としての給料だけでは家計を支えることはできず、姉の夫ラメシュ・カドカはカタールに出稼ぎに行きました。リラは8年生、妹たちはそれぞれ6年生と3年生で、出費がかかります。全員が学校に行くことはできなかったので、リラは学校を辞め、妹たちと姉の子どもの世話をすることになりました。学校を辞めた日、彼女は一日中泣いて過ごしました。

近所に住むディプジョティ高校の教師、ビンドゥ・ドゥンガナが、彼女の苦境を知り、モヒラコハートから支援を受けて研修を受けてはどうかと助言しました。ストライキの影響でカトマンズまで3日もかかりましたが、研修への興味が、大変だった旅路を忘れさせました。

リラはモヒラコハートが費用を負担してくれたおかげで、カトマンズに来てナバジョティ女性研修センターの6ケ月の研修を受講することができました。リラは言います。「そういうチャンスを得て、初めて私も他の人を助けたい、社会のために役立ちたいという気持ちが心の底から沸いてきました」

6ケ月の研修後、いつも泣いてばかりいたリラは、自分の権利について理解し、何事にも前向きな女性となって家に帰りました。研修前は、人前で話すこともできませんでしたが、帰るなり、父に市民権証がいると言いました。これも研修で学んだことの成果でした。

2006年4月、リラの人生で、もうひとつの転機が訪れました。母の死後、姉が母親代わりでした。姉が縁談を持ちかけたとき、リラは断ることができませんでした。18歳になったリラは、ジャパ郡チャクチャキのラム・バハドゥルと結婚しました。結婚後、リラの夢が叶いました。彼女の勉強への情熱を理解した夫が学校に復学することを認めてくれたので、9年生に編入しました。空いている時間に、洋裁の仕事で自分の収入を得、他の人にもその技術を教えています。また、小さな化粧品の店も開きました。

すでにやることがたくさんあったので、貯蓄信用グループを結成するだけの余力がありませんでした。しかし、サハラ・ネパールとういNGOが結成したグループの集会があれば、自分が研修で身につけた知識を共有するためにいつでも出かけて行きます。彼女自身に余裕ができたら、自分もグループを結成したいと思っています。

妹の変化を見た姉は驚いています。「研修を受けてから、妹は変わりました。歩き方、話し方、仕事の仕方などすべての点で、物腰が落ち着きました。今は安心しています」

どんなふうに社会に貢献したいですか、モヒラコハートに何を期待しますか、という質問にリラは答えます。「SLC(中等学校卒業資格)の試験に受かったら、近所で女性たちに裁縫を教えて、彼女たちが自立できるようにしたいです。10人くらいに研修をしたら、小さな工場を造りたいと思っています。モヒラコハートが、努力を重ねる女性たちに協力してくれると聞いて、とても期待しています」

リラは社会のために貢献しようと前進し続けています。男性と女性が車の両輪だとすれば、彼女の夫も協力してくれています。他の男性たちも妻の活動に協力してくれたら、この世界はどんなに良くなることでしょう。


[i] 子どもの市民権証の発行には父親の署名が必要。
[ii] インドとネパール国境にある電車の駅。
[iii] ネパールでは食事は2度。朝は紅茶のみ。