1-4. 民族、カースト、階級
ストリート・チルドレンたちは互いの出自をあまり気にしません。初対面で相手の民族やカーストを表す苗字を尋ねることはありません。それでも一緒に生活するうちに出自がわかり、カースト名で呼び合う者もいます。バフン[i]の友だちに、「バフン」と呼びかけたり、ボテ[ii]の仲間に「ボテ」と声をかけることもあります。しかし、カミやダマイ[iii]の仲間に対して同じようにカースト名で呼ぶことはしません。子どもたちも社会の常識は理解しています。

カーストによる上下関係で差別することはないですが、相手の出自を知ったことで、からかいの材料にすることはあります。「君は他のカーストの僕らが触ったものは食べないよね」と言われたバフンの少年が、「触って僕の分も食べてしまうつもりかい?」と笑いながら返事をすることがあります。このようにカーストに由来することで冗談を言い合ったりすることはありますが、これはふざけているだけで、相手を傷つけたり、差別するわけではありません。

子どもたちが路上生活を始める要因として民族・カーストや宗教が、経済的な問題以外にどういう影響を及ぼしているのか調査が行われたことはありません。それでも、彼らのその後の人生においても民族・カースト、宗教は重要な意味をもつようですから、こうした出自の背景とストリート・チルドレンとなる因果関係ついて調査をする必要性があるでしょう。

子どもから青年になるにつれ、民族・カーストの話はだんだんしなくなります。路上生活をする青年たちはカーストの異なる相手と結婚することがあります。結婚しても路上生活を続けている夫婦もいますし、路上で子どもが産まれた例もあります。路上生活をしていた青年が富と財産、社会的階級という境界を越えて結婚した者もいますが、うまくいかなかった者もいます。約12~13年前からカトマンズで路上生活を送っていたある青年の悲しい恋物語を紹介しましょう。彼が路上で暮らすうちに、カトマンズに家がある少女との間に愛が芽生えました。何ヶ月かの恋愛の後、少女の家族がふたりを引き離そうとしたのでポカラへ駆け落ちしました。少女の家族はポカラから少女を探し出し、カトマンズへ連れ帰って、他の男性と結婚させました。このような話はよく聞きます。一方、裕福な家庭でも、両親が娘の選択を受け入れる場合もないわけではありません。結婚後、両親は自分の娘と結婚した青年が仕事に就けるよう支援することもあります。路上で過ごした青年たちの中にも、順調に結婚生活を送る者もいるのです。

1-5. 紛争の影響
ストリート・チルドレンはネパールの大きな問題ですが、他の問題の影に隠れがちです。この分野で活動する団体の影響力が小さいこともその理由のひとつですが、国家の他の問題とより複雑に絡みあっているため解決が難しいからです。1996年以後、路上にやってきた子どもの中には、紛争の影響を受けて都市に出てきた者も少なくありません。村では多くの子どもたちがマオイストに連れ去られ、逆に国軍からはマオイストのスパイではないかと疑われました。村人たちは両者の板ばさみとなって苦しんできました。子どもたちは自分の意志で、あるいは子どもの安全を願う両親に半ば強制されて村を離れます。彼らは、自分で逃げてきたり、家族と相談の末、町にやって来ます。仕事が見つからない場合の選択肢の一つが路上生活なのです。子どもたちの中には、マオイストと何日か行動をともにした末、逃げてきた例もあります。多くの子どもがマオイストを恐れて町へやって来ます。彼らが望んでも簡単に村に戻ることはできません。

この紛争によって、多くの村人が避難民として都市へ移住しました。両親と一緒に都市に来た子どたちの中には、生活の糧を得るために路上生活を始める子もいます。両親は日々の生計を立てるのに忙しく、子どもの面倒を見ることができません。その結果、子どもたちは昼間、自ら働くようになります。両親を助けるためだと言って、自ら路上にやってくる子もいます。他の子どもたちと接するうちに、次第に昼夜を路上で過ごすストリート・チルドレンとなっていくのです。

2006年4月の第二次民主化運動も、ストリート・チルドレンたちの生活を苦しめました。外出禁止令が出ているときは、屋外にいることが許されません。生活がとても不安定になりました。交差点だけでなく路地にも武装警察や国軍が配置され、いつ銃弾が飛んでくるかわかりません。子どもたちは何日間も、外に出ることができませんでした。ストリート・チルドレンはその頃どこで過ごしていたのでしょう。断定はできませんが、彼らは町のどこかのごみ集積場や、団体の施設で過ごしていたと考えられます。居場所だけでなく、彼らには、もっと深刻な問題がありました。生活の糧を得ることができなくなったのです。デモが行われていた期間中、彼らは資源ごみを集める仕事ができませんでした。稼ぎがなければお腹をすかせて過ごさざるを得ませんでした。

その頃、実際に群衆の中で国軍兵に押さえつけられた子どももいました。外出禁止令の最中に外に出る人々を、国軍が追いかけてきて殴ります。シバ・ラマにとってそれは軍から暴力を受けた悲しい出来事です。彼は7歳から路上で生活していますが、昔よりも現在の方が、軍や警察の態度が厳しくなったと言います。夜、プラスチックを拾いに行くと軍や警察からマオイストではないかと疑われます。「僕はマオイストじゃない」と言うと逆に怒られ、「カテ」と言って怒鳴られた、と彼は言います。国軍兵が彼らに「マオイストとどれくらい頻繁に会うのか」と尋ねることもありました。また、マオイストも路上にいる青少年を彼らの集会に強引に連れて行きました。

留置場に入れられたストリート・チルドレンもいます。例えば、盗み、ケンカ、麻薬等を理由に捕まえられたのです。留置場に入っている子どもたちは警察官から「お前はマオイストではないか」と責められ、とても怯えています。紛争によってストリート・チルドレンはさらに苦悩を負ったのです。

この分野で活動する団体と警察の間で何度も話し合いをしました。警察は、マオイストが青少年を兵士として使っていることばかり言いますが、私たちから見れば、ストリート・チルドレンは、マオイストだけでなく国軍からも嫌がらせを受けています。マオイストに対して不満をもつのと同様、彼らは国軍に対しても恐れを抱いています。私たちは連日報じられる紛争の実態を知っています。そのため、マオイスト側と政府側のどちらか一方の責任であるとは絶対に言えません。

1-6. 場所によるストリート・チルドレンの違い-カトマンズとラリトプルの比較
一般に、ストリート・チルドレンはみな同じだと思われています。路上で生活することは同じように暮らしていると誤解されがちですが、生活場所によって状況は異なります。ネパールの主要都市で路上生活を送る子どもたちを取り巻く環境がそれぞれ違うからです。都市によって便利さや人口規模に差があります。ある町は設備に恵まれ、別の町では人々の生活スタイルが開放的で、食べ物がより現代的である、といった差もあるでしょう。こうした条件によって、ストリート・チルドレンの生活スタイルも決まるのです。

遠く離れた都市を比較してみなくても、同じ首都圏にあって隣り合ったカトマンズとラリトプルのストリート・チルドレンの生活スタイルを比較してみても、大きな差が見られます。2004年から2006年までの間にJAFONと何らかの形で関わりのあったストリート・チルドレンは、ラリトプルに約200人、カトマンズには400人いました。彼らの違いを紹介しましょう。

ラリトプルでは学校教育を受けたことのあるストリート・チルドレンが多く見られました。ストリート・チルドレンの食事の回数にも違いがありました。カトマンズの子どもは昼間2、3回食べることができます。公的な団体の行事が多いため、食事にありつける機会も多いというのです。多くの団体はカトマンズでストリート・チルドレンのための活動をしています。メディアもカトマンズにおけるストリート・チルドレンについて扱うことが多いため、カトマンズの子どもたちはさまざまな人々と接触があるのです。

もう一つ興味深いのは、子どもの行動範囲についてです。カトマンズの子どもたちは頻繁にラリトプルに行きますが、一方ラリトプルの子どもたちはカトマンズに行くことが極めて少ないという点です。カトマンズにはストリート・チルドレンの数が多く、資源ごみ回収で生計を立てる彼らにとって十分なだけのプラスチックが拾えず、ラリトプルまでやって来るのです。

ラリトプルの子どもたちは家族と連絡を取っていますが、カトマンズの子どもたちはそれほど連絡を取っていません。ラリトプルでは年少のストリート・チルドレンの多くが近郊の村からやって来ています。彼らは自分の家に帰ることも難しくありません。ダサインやティハール[iv]の祝祭日に、ラリトプルの子の大部分は帰省します。彼らの両親も路上で商売をして暮らしています。たとえ家族のほうが子どもの心配をしていなくても、彼らのほうから両親に会うために家に帰ります。一方、カトマンズで路上生活をしている子どもたちは、ネパール各地から出て来ているので、家に戻るのも困難です。特に紛争への恐怖心から、多くの子どもたちは村へ行くのを怖がっていました。

1-7.  将来の夢

路上生活でお金を稼ぐこと経験をしたために、路上生活をやめた後も、彼らは自分で稼ぎたいと考えます。ストリート・チルドレンにもお金を儲けたい、有名になりたいといった夢があります。だから1日12時間以上の労働も苦にしません。社会一般の人たちと同じように生活することを望んでいるだけです。彼らは警察官と給料の少ない仕事には興味がないと言います。ストリート・チルドレンにとって一番人気のある職業はタクシーの運転手です。稼ぎが多いと思われているからです。裕福な家庭の娘と結婚する、映画の俳優になる、という夢をもつ者もいます。ネパールの階級制度に反発する彼らの姿が浮かんでいます。人気の高い職業、仕事は以下のとおりです。

運転手、アーティスト、洋品店や食堂などの商店主、コック、建築業、水道管工事、農業、外国への出稼ぎ、自分でNGOを立ち上げてて仲間を支援する、兵士になる。

1-8. ストリート・チルドレンのその後
かつて路上生活をしていた子どもの中には、路上生活を抜け出した者も少なくありませんが、現在の支援の方法には限界があります。多くの団体が18歳未満のストリート・チルドレンのために活動をしていますが、18歳以上の青年たちはその対象になっていません。18歳になったとたん、子どもたちは支援を受けることができなくなります。路上で暮らす子どもにとって、現状の支援は一過性のものに過ぎず、長期的な解決になっていません。

それでも、年少の頃に受けた支援によって自分の人生を変えたという青年の例もありますし、18歳になって自分の力で路上生活をやめた者もいます。多くの街でかつてのストリート・チルドレンが自立した例が見られます。路上生活をやめ、新しい生活を送る青年たちはさまざまな仕事をしています。その多くは運転手です。その次が衣類の商売、公務員、兵士となっています。中には、民間企業で働く者もいます。またストリート・チルドレンを支援する団体に就職したり、自分で団体を設立した青年もいます。

[i] ヒンドゥの最上位カースト
[ii] 本来チベット人を意味し、モンゴロイド系住民一般を指すが、呼ばれる側は蔑称だと感じることがある。
[iii] いずれもヒンドゥの不可触カースト(ダリット)で、カミは鍛冶屋、ダマイは仕立屋および楽士。
[iv] ダサイン、ティハールともに秋に行われるヒンドゥ教の祭礼で、公的機関は長期の休日となる。
2. Jagaran Forum Nepal (JAFON)
2-1.設立まで

現在ストリート・チルドレンのために活動する団体は数多くあります。JAFONもその一つとして2000年に設立されました。JAFONは運営方法などさまざまな点で他団体と違います。代表である私自身がストリート・チルドレンだったことにその理由があります。私が路上生活を送っていた頃の物語はとても長く、苦闘の末、ここまでたどりついたのです。これまでも多くの人々に影響を与えてきたと自負しています。そんな努力があってこそ、JAFONが多くのストリート・チルドレンとつながりをもてたのだと思います。

私の家はシラハ郡[i]にありました。両親のけんかがもとで7歳の時、家を出なければなりませんでした。その後両親は別居しました。母は私を学校に行かせるため、ビルガンジ[ii]に引っ越しました。母は学校で教員の職を得ましたが、私は町で友だちと過ごすことが増え、勉強するより彼らと一緒に映画をみたり遊びまわるようになりました。同年配の少年たちと一緒にいる時間が長くなり、家に帰らなくなりました。

ビルガンジに来て4年後のある日、カトマンズではお金を稼げると考え、私たち12人は連れ立ってカトマンズにやって来ました。知り合いの資源回収場があるダルコ[iii]に住むことになりました。私たちが拾い集めたプラスチックや金属は、1キロ12~14ルピーで売れました。6ヶ月間資源ごみ回収の仕事をしたあと、バグ・バザール[iv]に移りました。それが12年間の路上生活の始まりでした。 

1992年頃のある日、私は友達と一緒にCWINが運営する施設に行きました。CWINはアロハン(Aarohan)[v]という演劇グループと一緒に活動していました。ストリート・チルドレン自身も出演することになり、私も出演者のひとりに選ばれました。アロハンから1ヶ月にわたる演技指導を受けて、私たちは路上生活の劇を準備しました。スニル・ポカレルさんが演出し、私たちストリート・チルドレンが出演した『都会に生きる市民権のない者たち』という劇はさまざまな場所で公演されました。

それから約1年後、私はCWINを去り、友だちと一緒に再び路上生活を始めました。その後、アロハンがストリート・チルドレンの宿泊施設を造ったので、そこに住むことになりました。アロハンを通じてストリート・チルドレン関係の仕事をもらったので、10ケ月後、ホステルでの生活をやめました。同じような仕事でポカラにも行きました。

ストリート・チルドレンに関わる多くの団体と仕事をする機会を得た私は、ある日、自分でもこういう団体を運営できるのではないかと考えました。私もストリート・チルドレンの友人たちも、既存の団体の活動に納得していませんでした。そこで1998年、友人と一緒にJAFONの前身であるJagaran Groupを設立しました。それから2年後の2000年にJAFONを設立しました。

JAFONはさまざまな活動を通じて、路上生活をする子どもたちがいなくなるように社会に働きかけててきました。現在はラリトプルの事務所を拠点に、カトマンズとラリトプルのストリート・チルドレンの支援をしています。

事務所がまだアラムナガル[vi]にあった頃の奮闘の日々は忘れがたいものです。資源ごみ回収を通じて事業収入を得ることを目標にしていました。路上に住む子どもや青年にできる仕事をつくり、そこから得られた収益で他のストリート・チルドレンのための活動を行おうと考えたのです。青年二人が近隣の家庭を戸別訪問しごみの有料回収を始めました。7軒の訪問からスタートしましたが、400軒へと利用者が増えました。この事業は現在も続いており、2008年1月現在9名の元ストリート・チルドレンを含む14人が働いています。

[i] タライ平野東部の郡。
[ii] インド国境沿いの都市。
[iii] カトマンズ内ビシュヌマティ川沿いの地区。資源ごみ回収業者の集積場が多い。
[iv] カトマンズ市内中央の商業地区。
[v] Aarohanは1982年に設立された演劇グループ。カトマンズにある自前の劇場での公演以外に、ネパール各地のグループとの創作活動も行っている。ネパールを代表する演出家・俳優のスニール・ポカレルが主宰。http://www.aarohantheatre.org/
[vi] カトマンズ市内の中央官庁があるシンハ・ダルバールの裏にある。
2-2. 『僕らの家』
2005年から、JAFONは新しい活動を始めました。『僕らの家』というストリート・チルドレンが大人たちの干渉を受けることなく、安心して立ち寄り、生活できる場の運営です。ラリトプルのクンベシュワル寺院の近くで建物を借りています。この活動は、シャプラニール=市民による海外協力の会という日本のNGOの支援を受けています。宿泊施設としてだけでなく、子どもたちが利用できるサービスを提供しています。例えば、病気になったとき医療施設に行くための補助、テレビなど娯楽を楽しめる部屋、スポーツ用品、安心して食べられる安価な食事の提供、稼いだお金を貯金する仕組み、読み書きや計算を習う教室、資源回収場の運営-よその回収業者は子どもたちに妥当なお金を与えないことがあるから-です。他には、ストリート・チルドレンに対する啓発活動、技能訓練、運転免許証や市民権証取得のための支援を行い、ときには芸術家と協働することもあります。

施設の運営すべてを援助に頼るのではなく、いずれ自己資金で活動できるよう、食堂と回収場を自ら経営しています。彼らは自分たちの稼ぎから食事代を払っています。25ルピーあれば『僕らの家』の食堂で食事ができます。ほとんど子どもたちは食扶持は自分で稼ぐ習慣が身についています。

『僕らの家』として借りている2階建ての建物には、部屋が11あります。事務所のほかに、子どもたちがテレビを見る娯楽の部屋、教室として使う部屋などがあります。寝室は三つで、うち二つは年少の子ども、一つが年長の子どもの部屋です。彼らの持ち物を置く部屋が別にあります。台所と食堂、職員の控え室があります。屋外でからだを洗うために、いつも石鹸が用意してあります。薬も常備しています。