1. 紛争下における子どもたちの状況
1996年、ネパール共産党毛沢東主義派(以下、マオイスト)が「人民戦争」を開始しました。開発から取り残された山村で、彼らが人心を掌握した時期もありましたが、戦火が拡大するにつれ、彼らは村人たちを恐怖に陥れました。

紛争を交渉によって解決しようという動きは過去にもあり、マオイストと当時の政府代表が和平交渉を行いましたが、合意には至りませんでした。2001年にはマオイストがダン郡の国軍兵舎を攻撃し、その結果和平交渉が決裂しました。シェル・バハドール・デウバ首相率いる当時の政府は、マオイストを「テロ」組織と断定し、同年11月26日国家非常事態宣言を発令しました。

ギャネンドラ国王は、紛争を終結できない政府を非難し、2005年2月1日、権力を掌握しました。しかし、2006年4月24日、主権を国民に戻し、2002年に解散した下院の復活を宣言しました。その後、マオイストは地下組織として活動するのではなく、政治の表舞台に登場するようになりました。しかし、現在も多くの人々は不安定な生活を続けています。2006年の停戦後も、マオイストが未成年を人民解放軍に勧誘しているという報告もあります。

1.1 親を亡くした子どもたち
紛争から幸福は生まれません。10年に及ぶ紛争によって1万人以上ののネパール人が命を落としました。人権団体INSECによると、1996年2月13日から2006年12月31日の間に、政府側に殺されたのは8,377人、マオイストによって殺された者は4,970人にいるといいます
[i]。子どもの人権を守る団体CWINによると、その同期間に親を亡くし孤児になった子どもは8,000人にのぼるそうです[ii]。他の子どもたちも、戦闘によって学校が破壊されたり、マオイストや国軍から危害を加えられるのを避けるため、実家を離れなければならないなど、影響を受けました。親を殺された子どものほとんどは、肉体的にも精神的にも深く傷ついています。自分の目の前で親を殺された子も多いのです。CWINによると、11年間の紛争の間に、485人の子ども(女児134人)が命を落としました。545人(女児152人)が身体に障害を負いました。[iii]

単純に考えても、1年の戦争はその後の10年に影響することでしょう。したがって、10年にわたる紛争は、かなりの長期にわたって影響を及ぼすはずです。例えば、日本は1945年に終わった第二次世界大戦の影響を未だに被っています。紛争を直接体験したネパール人は、生きている限りそれを忘れることはないでしょう。

1.2 国内避難民
CWINの調査によると、40,000人の子どもたちが紛争の間に国内避難民となって実家を離れたそうです。大部分の子どもにとって、それは「学習の終わり」を意味しました。多くの人々が、危険を避けるために村から町に移住しましたが、子どもたちを危険から守るために子どもだけを町に送り出した親もいました。しかし、ネパールやインドの町にたどり着いた子どもの多くは労働者として働かされました。結果的に、児童人身売買を増加させることにつながりました。

マオイストが子どもに党の仕事をさせるよう強要したため、親たちは首都にいる知り合いに子どもを預けるようになりました。引き受けた人が、子ども一人あたり1万ルピー
[iv]から2万ルピー払えば良い学校に入れてやると言ったため、親たちは子どもを危険な村で過ごさせるより良いだろうと首都に行かせたほうが良いと考えました。

女性への法的支援を行うNGO、Forum for Women, Law and Development (FWLD)は、ユニセフの協力を得て、2005年1月3日から6日にフムラ郡で調査を行いました
[v]。ある人の証言によれば、子どもたちの多くは両親が生きているにもかかわらず、孤児として郡外に送られたそうです。郡の行政長官が何も手を施さなかったため、状況はさらに悪くなりました。孤児だと偽って都市に連れて行かれた何百人という子どもたちの運命は、依然として分かりません[vi]

紛争の間、誘拐されることを恐れた多くの村人が、国内避難民として都市に逃れました。マオイストは、スパイ行為をしたと言いがかりをつけて村人たちを捕えました。一方、国軍は彼らをマオイストと疑って連行しました。INSECの報告では、1996年2月16日から2006年9月15日の間に、63,925人の人々がマオイスト、あるいは国軍に誘拐されました
[vii]。その多くはひどい拷問を受けました。

1.3 強制動員
CWINによると、11年におよぶ紛争の間に、31,087人の生徒と教師が強制的にマオイストの行事に参加させられ、中には生徒に「人民教育」と称したカリキュラムを強要したところもありました。国際法では、18歳未満の子どもが戦争またはそれに付随する活動に関わることを禁止しています
[viii]。国軍は子どもを正規に勧誘していなかったものの、マオイストは子どもを徴兵しているとして非難されました[ix]。マオイストの「各世帯から一人の兵員を」という徴兵方針から逃れるために、安全な場所へ避難した人もいました。2005年8月から2006年7月の間に1,057人(男子533人、女子524人)の子どもが行方不明になりました[x]

1.4 拷問・性的虐待
子どもたちは、マオイストから行事に参加するよう強制され、一方警察からは、マオイストと関わりをもったという理由で拷問されました。警察は情報を集めるために、子どもたちを逮捕しました。そして精神的、身体的拷問を加えました。女子の中には、警察署でレイプされた後、自殺した者もいます。記録によると、2006年1月から8月の間に、19人の子どもが警察に逮捕されました
[xi]

カイラリ郡ティカプール村のウマ・チョウドリ(仮名)は、5年前、彼女が15歳の時に逮捕されました。当時、彼女はアジャヤ・シン・タクリ大佐の家で家事使用人として働いていました。ウマによると、彼女は釈放された後、何人かの治安部隊の兵士に目隠しされ、牛小屋に連れて行かれました。夜、服を脱がされ、身体を触られたそうです。彼女は叫びましたが、口をふさがれたと言います。紛争中、ウマが受けたような性的虐待が各地で起きました。

1.5 学校閉鎖
政府の統計によると、ネパールには公立、私立を含めて35,000の学校があるそうです。そこで学ぶ生徒の数はおよそ5,000,000人です
[xii]。紛争中、多くの学校が干渉を受け、200の私立学校はマオイスト傘下の学生組織に閉鎖を強いられました。「私立学校は教育ではなく金儲けをしている」というのが彼らの言い分でした。

学校閉鎖の最大の被害者は子どもたちです。国際基準に基づくと、学校は少なくとも1年のうち185日は開校しなければなりません
[xiii]。しかしネパールでは、過去5年間わたり、毎年せいぜい150日しか開校できていません。2006年4月の第二次民主化運動後も、学校閉鎖の頻度はむしろ増えているのです。CWINによると、2005年1月から2006年8月の20ケ月間で、3,735校が閉鎖されたそうです。首都カトマンズの3,838の学校も紛争の影響を直接受けました。

「子どもをピースゾーンに」というキャンペーンが行われても、マオイストも政府もそれとは正反対の動きをしました。2006年の8月までに、国軍は8つの学校に基地を造り、マオイストは56の学校で塹壕を掘ったそうです。

多くの生徒が紛争で命を落としました。2003年10月3日には、ドティ郡ムドバラ村のシャルダ高校でマオイストが行事の準備をしているときに、国軍が攻撃しました。巻き込まれた4人の生徒が亡くなり、9人が負傷しました。これは学校での戦闘で最も死傷者が多かった例です。

現在、ネパールは2015年まで「万人のための教育」
[xiv]という事業を行っています。『プラチ』という隔月刊誌に掲載された2006年8月の政府統計によれば、学齢期の子どものうち約20%が学校に通っていません。学校に通っている子どもの中にも紛争の影響で、学業を続けられなくなった子もいます。

ミレニアム開発目標
[xv]の中間報告によると、63%のネパールの子どもたちは初等教育を終えずに学校を去っています。2015年までの間に50%の生徒しか5年生まで修了することができないそうです。

紛争は多くの子どもたち、特に戦闘の激しかった中部、西部地域の子どもたちを精神的に不安な状態に陥れました。震えたり、絶えず怖がったり、また集中することができないといった徴候は、紛争によるトラウマに他なりません。

1.6 カトマンズで暮らす紛争被害者の子どもたち
紛争被害者の多くは、子どもも含め、ネパールの農村で暮らす人々でした。カトマンズでの戦闘はありませんでした。2006年9月18日、マオイストの学生組織が、小さな子どもたちを彼らの全国集会に参加するよう強制しました。この子どもたちは政治を理解するには幼なすぎました。当日、カトマンズ、ラリトプール、バクタプールの学校は閉鎖するよう強要され、マオイストは公共のバスと私立学校のバスに子どもたちを乗せて会場まで連れて行くよう指示しました。子どもの数に対してバスの数が極端に少なかったため、彼らは子どもたちをバスの屋根に乗せました。子どもたちは「Janatako chhora chhori sabai akhil krantikari」(すべての一般市民の子どもはマオイスト)と大声で繰り返していました。このイベントでは、子どもたちに、マオイストの星マークのついた赤い鉢巻をさせ、スローガンを連呼させました。

カトマンズ盆地だけでなく地方でもマオイストが子どもを動員すべく、1年生から10年生までの子どもからなるグループをつくりました。このような行為は子どもたちに不安を与え、勉強を中断せざるを得ない場合もありました。国家人権委員会が子どもの動員を止めるよう呼びかけましたが、マオイストは受け入れませんでした。カトマンズでも、マオイストが学校に押し入ったり、放火するといった行為が起きました。2006年9月15日までに、首都の学校の半数は自前で警備員を雇い、学校の屋根の上から見張りをさせました。

紛争のために何千という家族がカトマンズに移住しました。多くの場合、寒くて暗い一部屋に家族全員が住んでいます。空気もよどみ、薄暗い明かりしかない場所は、子どもたちの勉強には不向きです。彼らは健康に暮らせる環境にないため、病気になりがちです。

紛争に巻き込まれた子どもや、児童兵として武装グループに利用されている子どもたちは、できるだけ早く家族の元に戻って社会復帰できるようにしなくてはなりません。子どもの権利を守り、子どもの成長を促すためにも、政府や政党は彼らが子どもたちのために決めたことを実行しなくてはなりません。



[i] INSEC. 2007. Human Rights Yearbook 2007. p10.
[ii] 出典未確認。
[iii] 出典未確認。INSEC 2007によれば、1996年から2006年末までの子どもの犠牲者は政府による者246名、マオイストによるもの201名の計447名。
[iv] 2009年1月現在、1ルピーは1.16円。
[v] 出典未確認。
[vi]実際に人身売買の犠牲者になった者もいれば、辺境地には教育の機会がないために、親が承知の上で子どもを孤児だと偽って都市に送る例もある。
[vii] 出典未確認。
[viii] 「児童の権利に関する条約」第38条、「武力紛争における児童の関与に関する児童の権利に関する条約の選択議定書」第1条。
[ix]国軍が正規に子どもを採用することはなかったものの、武装警察や軍の雑用係や見張りという形で働かされた子どもがいた。
[x] 出典未確認。
[xi] データ出所不明。
[xii]データ出所不明。原文では生徒数は50万人だったが、500万人に修正。
[xiii]原文のまま。データ出所不明。
[xiv] 「万人のための教育」Education for All (EFA) http://portal.unesco.org/education/en/ev.php-URL_ID=46881&URL_DO=DO_TOPIC&URL_SECTION=201.html
[xv] Millennium Development Goals (MDG)