2. 子どもたちの物語
数え切れない子どもたちが、紛争から逃れるために故郷を後にせざるを得ませんでした。できるだけたくさんの子どもの話を紹介したいのですが、多くの子が同じような理由で村を離れています。ここではその中から7人の話を取り上げます。

2.1 親を亡くしたキショール 
キショールはわずか7歳で母を亡くしました。癌を患っていた母親は充分な治療を受けることができませんでした。幼い子どもが母の愛と心地よい腕のぬくもりを奪われたのです。キショールの父モティラム・ネパリは貧しい木こりで、土地もなく、一家はチトワン郡
[i]にある公有地で暮らしていました。

妻が亡くなって数ヵ月後のある日、モティラムがジャングルで木を切っていると、突然兵士たちが来て彼を逮捕しました。彼らはモティラムをマオイストだと決めつけ、2年間牢屋に入れました。キショールと兄のスレシュは多くの人に父の無実を訴えましたが、誰も耳を貸してくれませんでした。彼らが父親の釈放を求めて警察署に行くと、そこで彼らは「マオイストの子」と呼ばれ追い返されました。兄弟が低カースト層の出身ゆえに、近所の人々も、また社会全体も彼らを助けようとしませんでした。両親のいない生活で、キショールは笑顔を忘れてしまいました。当時20歳だったスレシュは日に2度の食事を確保するだけで精一杯でした。

2年の長い歳月の後、モティラムは釈放されました。父に再会できたことは、キショールの人生の中で最も嬉しい瞬間でした。兄弟ふたりとも父の顔を見た途端に泣きました。モティラムは日々の糧を得るため、すぐに仕事を再開しました。ジャングルで木を切り、町で売るのです。しかし、ある日、彼はまたもや軍に拘束されました。不運なことに、今回は彼は牢屋に入れられませんでした。軍は彼をマオイストだと非難した後、その場で銃殺したのです。

キショール兄弟は新たな悲劇に立ち向かわなければなりませんでした。葬式の後、彼らは同じ場所には住めないことに気づきました。ほとんどの人はカーストの出自のせいで彼らを嫌っていましたし、軍隊が今度は彼らのこともマオイストだと決めつけるのではないかと恐れたのです。

兄弟はチトワンの粗末な小屋を出て、カトマンズのスンダリジャル
[ii]に来ました。スレシュは日雇い労働者として仕事を得て、ほどなくシャンティ・セワ・グリハについての噂を聞きました。彼は早速シャンティ・セワ・グリハに行き、仕事と兄弟が住む部屋がほしいと頼みました。シャンティ・セワ・グリハはスレシュにスンダリジャルにあるその団体の土地で働く機会を与えました。キショールはシャンティ・セワ・グリハがブタニルカンタ[iii]で運営する学校に入学しました。

キショールはチトワンでも学校に通ったことがありましたが、家にお金がなかったため、1年以上続けることができませんでした。現在彼は10歳ですが、2年生の授業を受けています。彼は小さい時に事故に遭い左目に傷を負いました。お金がなくて治療を受けることができず、今も彼の目には障害があります。「村にいた時は、ほとんどの人が僕の貧しさと、カースト、外見の醜さをからかい、嫌いました。でも、ここでは誰も僕のことを笑ったりしません。その代わり、皆が愛し合い、お互いをいたわり合っています。ここで暮らせて幸せです」と、キショールは言います。

キショールは、シャンティ・セワ・グリハで新しい人生が始まったように感じるそうです。スレシュも時々彼に会いに学校に行きます。キショールの担任であるラビナ・シャイはキショールについて、「とても行儀がよく、ほかの子どもたちとも仲良くてしていますが、時々とても悲しそうに見えます。彼の成績は、英語を除けば、どの科目も優秀ですよ」と言います。

キショールは母の癌による死を忘れていません。彼は将来、医者になって病気に苦しんでいる人、貧しい人を助けたいと思っています。いつか彼の夢が実現することを祈っています。

[i] カトマンズの南、タライ平野中部の郡。
[ii] カトマンズの東の郊外にある村。
[iii] カトマンズの北の郊外にある村。