3-5.母にうとまれて ラジェス(13歳)
僕の名前はラジェス・ハマル、13歳です。2年前に家を出ました。僕はラガンケルの私立学校で5年生まで勉強しました。しかし5年生の時、学校を辞めて家出をし、タパタリの食堂で働き始めました。

父はテンプーの運転手で母は畑仕事をしていました。兄は小さい頃から腕白で、妹はまだ小さく、僕たち一家は貧しくて生活が大変でした。母はいつも僕を殴ったり、蹴ったりしました。母は父にも僕を悪く言い、父は僕をベルトで叩くのでした。5歳の時、僕はテンプーにひかれたことがあります。そのせいなのか、僕の思考は混乱し、何かおかしくなった気がします。心の中でもいろんな思いがめぐっていました。そんな僕に母は「出て行きなさい」と言いました。だから、ある日家から逃げたのです。

僕は何ヶ月か食堂で働きました。月給は700ルピーで寝る場所も与えてくれました。しかし何ケ月かするとは給料がもらえなくなり、兄の友達に助けてもらって、給料を支払ってもらってから食堂の仕事を辞めました。僕自身は勉強する習慣がなくなっていましたし、家も出ていましたが、食堂での稼ぎは妹の学費に使いました。

食堂にいた頃は、寝る場所に困りませんでしたが、辞めてから僕は路上で寝るようになりました。路上で過ごした最初の夜のことは今でも記憶に残っています。ラガンケルのバスターミナルに休憩用のベンチがあり、たくさんの男の子たちと一緒に僕もそこで眠りました。お金を稼ぐためプラスチックも拾い始めました。

友達と歩きながら薬物に手を出すようになりました。僕は初めてシンナーを吸った日のことを今も思い出します。ある日友達が、道端に座って、接着剤の箱を置いて吸っているのを見ました。僕がそれを拾って逃げると、彼は追いかけてきました。遠くのほうまで行って、牛乳が入っていたプラスチックの袋にそれを入れて吸ってみました。一瞬、僕は何もわからなくなりました。シンナーはとても刺激が強いようでしたが、一度吸った後、僕にとって気持ちの良いものとなりました。こうして毎日、シンナーを吸うようになりました。意識も朦朧となり、何もわからなくなります。癖になるとやめるのは難しいです。店で買うことができるので、みんな簡単に買って使っています。

僕は音楽が好きです。僕が一番好きな音楽はナラヤン・ゴパルの唄『人生は恋次第』です。この曲の歌詞はとても良いと思います。このラブ・ソングが好きになりました。僕はこのような曲が好きです。僕は歌を唄うのも好きです。ウディト・ナラヤン、ラジュ・ラマの曲も唄えます。『僕らの家』のある兄さんは、僕に歌を教えてくれます。彼は上手に唄います。彼の声を聞くと僕も唄いたくなります。僕は歌手になりたいと思っていますが、僕たちのような者がどうしたら歌手になることができるでしょう。ギターも習いたいです。

昔はマリファナなど他の薬物も使用していましたが、『僕らの家』に来てから止めました。でも煙草を吸わずにいることはできません。小さい頃からの習慣をどうやって止められるでしょう。僕は母から煙草を吸うことを習ったのです。一緒に部屋にいる時、母の煙草の煙をどれだけ吸ったことか。そして、どんな味だろうと味見をし、習慣となってしまったのです。

僕は『春』という映画に出演しています。タパタリの食堂で働いていた頃、そこによく来ていたある俳優と知り合いました。ある日彼のお兄さんが僕に「映画に出てみないかい?さあ、行こう」と誘いました。映画に出演できると聞いた時はとても嬉しくて、僕は「出演します」と言い、すぐ連れて行ってもらいました。自動車修理工場で働く若者、俳優シバ・ハリ・ポウデルの弟となって出演しました。歩道に座り牛乳の袋にボールペンの軸のプラスチックをストロー代わりして、シンナーを吸っている様子を演じました。本当にシンナーを吸わせてはもらうわけにはいかず、そのように演じただけでした。ラジェス・ハマルやジャル・サハといった俳優たちもその時に知り合いました。彼らは僕を忘れているでしょうが、見かけたら僕のほうから声をかけます。

『僕らの家』に来て一年が経ちます。今はもう路上で生活したくありません。路上生活ではテレビを見たくても、テレビを売っている店にのぞきに行かなくてはなりません。『僕らの家』にはテレビがあるので、よく見ています。映画で俳優や女優が踊っているところを見ると、僕もこんなふうになっていたらよかったのにと思います。

昔はからだも洗っていませんでしたが、今は週1回は水浴びをします。ここでは、水浴びや洗濯のための石鹸もあります。昼間はボードゲームで遊びます。でもシンナーを吸う習慣は未だに止やめられません。友達が隠して持ってくるので、吸いたくなるのです。

最近はあまり外を歩き回りません。僕は一日中『僕らの家』にいます。時々、職員のお兄さんの自転車を借りて、ボダナートの方まで行きます。そこに僕の祖母の弟が住んでいます。高齢ですが、会うととても嬉しいです。僕が行くとすぐ「元気だったかい」と聞いてくれます。おじさんも貧しいですが、僕は大好きです。時々、自転車でタパタリやタメルにも遊びに行きます。町に出ると楽しくなります。いろんな人々、大きな家や店を見ているとうきうきします。路上の子どもたちを見かけるのはとても悲しいです。どうして彼らは路上で生活しているんだろうかと考えさせられます。路上で暮らすのは大変です。多くの人たちに軽蔑され、警察にさえも嫌な思いをさせられます。バスも、轢き殺さんばかりのスピードで走ってきます。町でこんな光景を見ると悲しくなります。

僕はテンプーの車掌の仕事もしていました。その仕事で毎日5ルピーずつ貯めていました。一日中働いた後、夕方、あるNGOのお姉さんが5ルピーを預かってくれるのです。僕の貯金は1,500ルピーになりました。しかし、父が病気になったのでお金を下ろし、薬を買ってあげました。今も父は病気なので働けません。母はマンガル・バザールで焼きとうもろこしを売っています。雨が降るとなぜか僕は両親のことが心配になります。両親を思い出し、心の中でたくさんの思いがめぐるのです。

僕の昔の家はデュンゲカルクの村にありました。今も村の思い出がよみがえります。村のことを思い出すと嬉しくなり、楽しくもなります。村では果物をもぎ、食べていました。とても楽しかったです。他の人の結婚式に行ってはお腹いっぱい食べ、一つのポケットに炊き込みご飯、もう一つのポケットにおかず、また別のポケットにお菓子を入れて持ち帰り、翌日の学校のおやつの時間に食べました。結婚式で他の人の目を盗んで、僕たちは甘いお菓子もたくさん持って帰りました。

『僕らの家』での生活は楽しいです。この間、ここの職員のお兄さんがコンピューターを買って来たのが嬉しかったです。「僕たちの施設にもコンピュータが来た!」と、みんな面白がりました。ここで暮らすのは楽しいです。みんな僕を愛してくれます。でも時々、お兄さんたちに叱られると泣きたくなります。でもそれはごくたまに感じるだけで、普段は、まずまずだと思っています。いつも嬉しいことばかり、というわけには行きません。いろいろなことが起きますから。

<邦訳参考文献>
CWIN (2002), Glue Sniffing: Among Street Children in the Kathmandu Valley, CWIN, Kathmandu

翻訳:吾妻佳代子、監訳・訳注・編集:田中雅子