2. ダン郡の地形と歴史、紛争の影響
2-1 . 地形と歴史

ダン郡は首都カトマンズから400キロメートル、バスで約12時間のところにあります。ダン郡は海抜213メートルから2,048メートルの高さにあります。郡の面積は29万5000ヘクタールです。ダン郡の地形はユニークで、ふたつの盆地の合流点になっています。そのひとつはダン盆地、もうひとつはデウクリ盆地です。ダン盆地はマハバーラト山地とチュレ丘陵[i]の間にあり、デウクリ盆地はチュレ丘陵とドゥダワ丘陵の間に広がっています。郡内は北部の山地と接する丘陵地帯、チュレ丘陵とそれに囲まれた低地、内部タライの3つに区分されています。

ダン郡には39の村とふたつの市があります。人口は46万2380人です(2001年国勢調査)。うち男性は22万8958人、女性は23万3422人です。民族・カースト別に見ると、タルーが14万7328人、チェトリが10万5146人で、マガルが5万5711人、丘陵地出身のバフンが4万8806人と続きます。ダリットも5万人弱[ii]、他にサンヤシ、ヤダブ、タクリ、ムスリム、ネワールなどが住んでいます。

新石器時代からこの郡にはタルーが住んでいました。デビット・セドンによるとタルーはここに約30万年前から住んでいるとのことです[iii]。「ダン」という郡の名前は、約5千年前にここを統治していたタルーの王様、ダンギシャランに由来しています。

ダン郡は歴史、考古学、経済、政治、社会、文化のすべてにおいて特徴のある場所です。ダンはタルーが暮らしてきた肥沃な土地です。ネパールで土地改革が行われる前はタルーだけが住んでいました。しかし、マラリア撲滅事業[iv]が実施されると、彼らはこの地域から移動し始めました。政府が1912年に測量を実施する前は、ダンの土地所有者の9割がタルーでした。時が移り変わり、タルー以外の人々が移住して来ると、政治的な力をもつ彼らがタルーの土地を奪ってタルーを債務労働者カマイヤとし、タルーとそれ以外の民族が対立するようになりました。これがダンにおける紛争の歴史の始まりです。自分たちが失った土地の権利を奪い返すためにタルーは苦闘しました。土地獲得運動の先導をしながら、「土地は耕す者のものだ!家はその壁を塗った者のものだ!」と、スローガンを大きな声で叫んだ、ダンの農民主導者グムラ・タルーは1960 年7 月21日、統治者によって射殺されました。

このようにタルーに対する多くの抑圧、残虐、搾取の長い歴史があります。これに対し、タルーの政治家たちはパンチャヤット制[v]が始まった頃から、彼らの権利のために命がけで抗議を行ってきました。しかし、タルーは利益を得ることはできませんでした。利益を得るのは新たに土地所有者となったタルー以外の者だけでした。1990年以降の政治の変化が起きても、タルーは何も獲得できませんでした。搾取と謀略による変化があり、物事の核心には何も変化はありませんでした。このためタルーたちの間で、国と統治者に対する憎悪が増していきました。

2-2. 紛争の影響
当初ダンではマオイストの影響はそれほどありませんでしたが、マオイスト発祥の地であるロルパ、ルクム、サルヤン郡の近くでもあり、マオイストにとっては戦略上の拠点だったので、その影響も次第に増していきました。政府による一般市民への統制が、マオイストの活動を一層激しくしました。戦いが激しくなると、国とマオイストはダンで自分たちの影響力を誇示し合い、競い合うようになりました。その争いの犠牲者はダンの貧しいタルーやダリットなど、権力を持たない人々でした。

2001年11月23日、マオイストがダン郡の郡庁所在地ゴラヒを襲撃しました。この事件で14人の国軍兵士を含む37人の治安要員が死亡しました。ここでマオイストは多くの武器を獲得するのに成功しました。この襲撃で、政府との和平交渉は決裂しました。政府は11月26日にネパール全土に非常事態宣言を出したため、さらなる緊張が生まれ、ダンの治安は悪化しました。興奮状態でやってきた武装警察官は、郡のさまざまな場所で力づくの治安維持活動を始めました。

そんな状況下、非常事態宣言が出て5日も経たない間に、国軍がダン郡のバルガッディ村で11人の罪のないタルーの農民を殺害しました。報復のためにマオイストが有志を集めた結果、地元タルーの青年たちはマオイストの兵士として参加しました。素朴なタルーの人々が住んできた村は戦場へと変わりました。四方八方で泣き叫ぶ声がしました。

2-3. 紛争被害の実態
国家人権委員会が2006年8月30日に公表した統計によると、2001年以降、ネパール全体で936人が行方不明となっています。うち(当時の)政府側によって行方がわからなくなった人は563名、マオイスト側によって行方不明となった人は315名、どちらかわからない人が58名となっています。ダン郡では、政府によって行方がわからなくなった者が66名、マオイストによる者が2人、計68人の消息がわかっていません。

<死亡者数>
ネパールの人権団体INSECによると1996年2月13日から2006年9月9日までにダン郡で合計686人が死亡しています。うち、国軍によって殺された人の数は422人で、うち女性10人、男性312人、残り100人の性別がわかっていません。マオイスト側によって殺された人の数は264人で、女性7人、男性257人となっています。この統計で両者ともに男性の死亡者が多く、国軍はマオイストの倍以上の人を殺していることがわかります。

-----------------------------------女性/男性/性別不明/合計
国軍の攻撃による死者------ 1 0人/312人/100人/422人
マオイストの攻撃による死者 7人/257人/-/264人
合計------------------------------ 17人/569人/100人/686人
 
<死亡者の民族・カースト別内訳>
最も死亡者が多いのは、チェトリです。この地域の研究者バラト・ダハル氏によると、チェットリの人々は代々、治安関係の仕事に就くことが多く、マオイスト、国軍の両者の兵士として死亡者が多く見られるからです。最も人口の多いタルーは、死亡者数では2番目に多い200人です。ギャン・ジョティ小学校のメガ・ラジ・ギミレ校長は、その理由として、マオイスト、国軍の兵士にもタルーがいるからだと言います。また知識人たちは、国側が一般のタルーをマオイストだと疑い、罪のない人々を殺す事件も少なくないからだと見ています。


カースト/ 郡の総人口(2001年) /死亡者の数(2006年まで)
チェットリ/105,146人/220人
タルー/147,328人/200人
マガル/55,711人/88人
ダリット(カミ、ダマイ、サルキの計/44,921人/78人
丘陵地出身バフン/49,906人/58人
ネワール/4,094人/14人
その他/55,274人/28人
合計/462,380人/686人

[i] インド国境に近いタライ平野の一部には、山地から流出する河川が運んだ地層からなる急峻な地形チュレ丘陵がある。その南側をタライ平野、丘陵によって囲まれた北側の低地をインナータライ(内部タライ)と呼ぶ。
[ii] 郡別人口統計では、カミが24346、ダマイが12349人、サルキが8226人という統計があるが、バディ等、他のダリットの人口の詳細は不明。
[iii] 開発学者、David Seddonの著作を引用していると思われるが、出典不明。
[iv] 1960年以降に実施され、丘陵地からタライ平野への移住奨励政策につながった。
[v] 1959年にマヘンドラ国王が導入した、国、県、郡、市町村各レベルの評議機関パンチャヤットが全国を統治する仕組み。1990年の民主化まで続いた。