2-4. ダン郡で起きた事件
<カリャン村事件>

2001年11月23日ダンの郡庁所在地ゴラヒで起きたマオイストによる攻撃で、国側は2001年11月26日、トリブパン市第3区バルガッディ村の貧しいタルーの農民に怒りをぶつけました。カリャン地区で地主との折半で農作物を配分していた農民を、マオイストだと決め付け、一度に11人を殺害したのです。この事件でジャグマン・チョウダリ、シタラル・チョウダリ、クリシュナ・チョウダリ、アサラム・チョウダリ、チョナ・チョウダリ、チズ・チョウダリ、ビクラム・チョウダリ、ラクシマン・チョウダリ、クシラム・チョウダリ、ソンラル・チョウダリ、プラサド・チョウダリが死亡しました。

<ウルハリ村ディリラジ暴行事件>
2002年4月1日深夜1時、突然ドンドンとドアを叩く音で、ウルハリ村に住む58歳のディリラジ・アディカリは目を覚ましました。「誰だ?」と彼は尋ねました。「ダイ(兄貴)、ちょっと下に来てくれ」という声は、彼には知り合いのように聞こえました。村の誰かに何かあったのかと、彼は急いで下に降りようとしました。「こんな夜遅くに何で外に行くの?」と息子の妻が止めましたが、彼は「すぐ戻って来るよ。村の誰かに何かあったらしい」と言って、下に降りてドアを開けました。ドアの外にはマオイストが集団で立っていました。マオイストは「お前にちょっと用がある」と言って、家から少し離れた村の交差点まで連れてゆき、激しい暴行を加えました。彼は両足と背中を骨折しました。治療費は家族が3万5千ルピーを支払い、残りは政府が負担しました。治療をして彼は生き延びることはできましたが、身体に障害が残りました。マオイストは彼を国側のスパイと疑って暴行したのでした。その後、支援を受けることもできないままディリラジ・アディカリは現在、2人の息子夫婦と孫3人と一緒に、障害者生活を送っています。

<ペンデャ祭事件>
2001年12月9日、ラクシミプル村のベルワで、タルーの農家が米など穀物の収蔵を祝うペンデャ祭を行っていました。朝から食べたり飲んだりした後、夜は歌ったり、踊ったりしていました。その時でした。家の周りを国軍が包囲し、突然発砲して11人が死亡しました。事件後、直ちに国軍は、罪のない村人たちを、外出禁止令を破ったマオイストだという声明を出しました。

<わら葺き屋根事件>
2002年6月17日、ベラ村のカトゥベルワで人々が屋根のわらを葺き始めていたところ、軍の調査団が村人7名を拘束しました。そのうちチャトゥク・バハドゥル・チョウダリとガネシュ・チョウダリが拳銃によって殺害されました。残りのウダヤラム・チョウダリ、ハリラル・チョウダリ、ケダルナト・チョウダリ、ダニラム・チョウダリ、ビムバハドゥル・チョウダリはマソト川で殺害されていました。
 
<ラジャコット村ジャングル事件>
ゴルタクリ村カウワガリの人たちは、2002年6月30日、村に電気をひくため、電柱になる木を切りに森へ行きました。村人たちは3つのグループに分かれてジャングルに入りました。これらのグループには一般人を含め、村落開発委員会の委員もいました。ジャングルに行く途中の道で、ラジャコット・タワー(通信塔)の警備をしていた兵士と2番目のグループが遭遇しました。最初のグループは先に進んでいて、もう一つのグループは後ろにいました。兵士は斧を持っていた彼らをマオイストだと決めつけ、自分たちの基地へ連れて行きました。

村人たちは自分たちの名前、住所、仕事、森へ行く理由を言いました。そして自分たちがマオイストではないことを証明するため、ラジャコット・タワーにいる知り合いの兵士の名前も言いました。しかし、「運命は神様でさえ止められない」と言うように、兵士たちの疑惑を解くことはできませんでした。彼らは服を脱がされ、目隠しをされ、12人が拳銃で殺害されました。死亡者はすべてサルキ(ダリットのうち皮革職人のカースト)の人々でした。基地に連行された村人の一人、ソバラム・ネパリは絶壁から飛び降り、逃亡に成功しました。彼がこの事件の証言者です。死亡者の遺体は返されず、遺族にさらに悲しみを与えました。死亡者の中で未婚者は1人、結婚したばかりという人が1人、10人が結婚していて子どももいました。

事件直後から、SEEDの協力でデブ・バハドゥル・サルキをはじめ、12人の犠牲者の遺族が国家人権委員会に損害補償のために嘆願書を出しました。2005年5月17日、委員会は村人たちは無実であるとの判決を下し、遺族に補償金としてそれぞれ5万ルピーを支払うよう国に命じました。SEEDはダンの役所に補償金を遺族に与えるよう働きかけましたが、まだ支払われていません。そのため、その後も引き続き国家人権委員会に申し立てを行っています。
 
一家の稼ぎ手を亡くした家族は混乱に陥りました。少しでも家族の支えになるようにという目的で、SEEDが編み物と絵の3か月間の研修を行いました。研修では、彼らに悲しみを共有する機会を与えました。そして彼らは自分の子どもや自分のためのセーターを編むことができるようになりました。SEEDは遺族の子どもたちが学校に行けるよう、必要な制服も準備しました。このように自分の子どもが学校に行くことができるようになると、遺族も少しずつ生きる意欲が湧いていきました。

SEEDは、山羊や豚の肥育や畑仕事、小商いなどのように、彼らに必要な職業の訓練や支援もしました。仕事を始めると、家の中での小さな問題も自分たちで何とか解決できるようになりました。村では人権教育も始めました。これらの支援で、村人たちに悲観的な姿勢から前向きな姿勢への変化を促しています。

<ティージ事件>
ラジャコット村ジャングル事件の約2ヶ月後、フルバリ村のバクレで2002年9月8日にもう一つの大きな事件が起きました。村人たちは、ティージという祭りのためにごちそう用に水牛を切り、肉を分け合っていました。その時、国軍はマオイストの一集団を追跡していました。マオイストたちは、その肉を分けていた村人たちの近くの道を通って逃げていったので、国軍は村人たちをマオイストだと思い込み6人に発砲しました。ラムクマル・ネパリ、トプバハドゥル・ビカ、マノジ・ネパリ、チュダマニ・シュレスタ、ダルム・ネパリ、トプ・バハドゥル・ネパリはその場で死亡しました。国軍はそこにいたプナラム・ビカとバクタ・バハドゥル・ネパリに穴を掘らせ、死者を埋めさせました。そして、この2人にも暴行を加えました。薬の治療では良くならず、2003年10月にプナラム・ビカ、同年11月22日にバクタ・バハドゥル・ネパリも死亡しました。このようにして、この事件では計8人が犠牲となりました。

<ハリラル・ダンギ殺害事件>
2004年5月22日、フルバリ村のダマルに住む45歳のハリラル・ダンギにマオイストたちは約1時間の道を歩かせ、ダクナ村に連れて行き、明け方4時頃、首を切り殺害しました。彼は森林管理委員会と学校運営委員会の委員長でした。マオイストから、公共の森林と学校の予算に絡む贈収賄容疑、スパイ容疑をかけられていました。現在、彼の4人の娘と1人息子、妻は村で苦労しながら生活しています。